第87話:初めての感情
「ん? なんであんた……そんなに怒ってるんだ?」
「……え? いや、なんでも何も───」
「あー……格下の雑魚に、魔法使い様である自分が、首を切られて死にかけたからか?」
トントンと、左手で自身の首を叩いてみせながら、うっすらと笑みを浮かべるアストに、ヘンリエッタの眉がピクリと、微かに反応する。
さらに、アストはため息混じりに口を開いた。
「おいおい……そりゃ余裕ぶっこいて探知もせず、簡単に背後を取られたあんたのミスだろ。それでキレるってあんた……やっすいプライドだな」
その言葉を最後に、両者は互いに口を閉ざす。
ヘンリエッタはやはり笑顔のまま彼を見下ろし続け、アストは呆れた表情のまま彼女を見上げ続けた。
恐ろしい程の静寂が続く中、先にその沈黙を破ったのは───
「ふっ……ふふっ! あはぁっ……あはははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは!!」
狂ったように笑い始めた彼女を、アストは刀の柄に手を添えたまま、冷めた瞳でじっと見つめていた。
それでも構わず、彼女は腹を押さえながらひたすらに笑い続け、だんだんとその背中が丸まっていき、やがて完全に真下を向き───
「ッ! ……なるほどな」
その直後、宙に浮かぶヘンリエッタから、膨大な量の魔力が溢れ出す。
それは再び大気を震わせ、崩壊した建物の瓦礫をカタカタと打ち鳴らしながら、アストの肌を強く叩いた。
「これが……"魔法使い"か」
初めて体験する、"敵"が放つそれに、アストはある種の高揚感を覚える。
それを証明するかのように、彼の目は見開き、その口元は今、微かに歪み始めていた。
「あー……ふふっ……おかし……」
ヘンリエッタは涙を拭いながら、ゆっくりと顔を上げる。
なんとも言えない、不気味な笑顔を晒しながら。
「ねぇ、あなた……魔法使いと出会うのは初めて?」
目を薄く開き、口角だけを微かに上げ、抑揚のない声で彼女はそう問いかける。
それはまるで、作り物の人形のようであった。
「ん、ああ……実際に会うのは初めてだな」
しかし、アストはまるで動じず、平然と彼女にそう答えた。
そこでまたピクリと、彼女の眉が痙攣する。
「……そう。だったら、がっかりさせないように……がんばらないとねぇ」
ピクピクと、眉や頬を微かに痙攣させながら、それでも彼女は笑顔を保ち続ける。
その異常性の根底に何があるのか、アストは微かに興味を抱いた。
「「「グルルルルッ……!」」」
それに対する嫌悪感からか、アストの隣にいたケルベロスは、思わず低い唸り声を上げていた。
ヘンリエッタは目線だけをケルベロスに向けると、またニコリと、口元だけで微笑んでみせる。
「あらあらあら……わんこちゃんもすぅっかり元気になっちゃって……よかったわねぇ? 頼りになるご主人様に助けてもらえて。あなただけなら、もうとぉっくに死んでたわよぉ? だから……ね? ……身の程を知りなさい」
ヘンリエッタの手が怪しく動いたその瞬間、アストはケルベロスの前に立ちはだかると、妖刀の柄を握り、その黒刃を鞘から滑らせるように引き抜いた。
「…………え?」
左下から右上へと、虚空を斬ったその一閃。
ヘンリエッタは不気味な笑みを浮かべたまま、初めてその声に、困惑の色を見せた。
「あ、あなた……今……」
鞘に収めた妖刀が、甲高い金属音を微かに鳴らす。
そして、アストの鋭い眼光が、ヘンリエッタを確かに捉えていた。
「私の魔術を……き、斬ったのッ……!?」
ケルベロスの三本の尻尾が揺らめくのを見て、ヘンリエッタはすぐにそれを察する。
そして、同時に"あり得ない"と、そう心の中で呟いた。
ヘンリエッタが空間を固定しようと放った、目に見えない魔力の導線。
彼は、それを断ち斬ったのである。
「そんなことッ……出来る訳が……!」
「あんたの気配は分かりやすくていい。殺気が魔力に伝播して、ドス黒い塊みたいになっててな……驚くくらいによく見えるよ。まぁ、元が見えないんだから隠す必要もなかったろうし、その術を知らないのも無理はない。今まで苦戦した経験すらなさそうだしな。だからこそ、あんたのそれは読みやすい」
「ふ、ふふっ……語るわね。気配? 殺気? そう……そんなものがあるの……まだまだ世界は広い───」
「余裕ぶってないでさっさと本気で来いよ。それとも……ビビっちまったか?」
ピクピクと、彼女の頬が幾度も痙攣する。
それでも、彼女は笑顔を崩さぬまま、強く握りしめた拳を解くと、その細い指先を二人へと向けた。
そこから迸る、さらなる魔力の膨張を感じ、アストは再び低く構え、ケルベロスはその四肢に魔力を集めた。
「……なるほどぉ。そっかぁ……こんな気持ちになるのねぇ……今まで考えたことも、思ったこともなかったわ。だって、そうでしょう? 私はこの力で……なんでも思い通りに叶えてきたんだもの」
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彼女は天才だった。
魔術の才に溢れていた彼女は、空間魔術に興味を持つと、その研究と鍛錬に没頭。
家を出て独り立ちをし、彼女が十八歳になる頃には、もはや比肩する者のいない、最強の空間魔術使いとして、世界にその名を轟かせていた。
やがて、彼女の家には毎日のようにアレクサンドリアの軍人が訪ねてくるようになり、彼女を褒め称え、軍に入ってくれと懇願し始める。
彼女は、いつもそれをニコニコと笑いながら聞き、そして全てを断っていた。




