第86話:憤怒
「「ッ!?」」
身体を動かせぬまま、ケルベロスは再び自身に起きた異変に気づく。
普段ならもうとっくに元へと戻っている筈の左の首が、まったく生えてこなかったのである。
「あら、やぁっと気づいたの?」
ケルベロスは、ニヤリと笑うヘンリエッタを右の首で睨みつけながら、中央の首の目線だけを左へと向ける。
そこには、すっかり出血の止まった、肉と骨の断面がただあるのみであった。
「さぁ、講義の続きをしましょうか。まぁ、これは私にしか出来ないものだから、覚えても無意味なのだけれど、私はね……空間を固定出来るの」
「「……!」」
「うんうんっ! 頭のいい子は好きよぉ? あ、ちなみに、これが魔法って訳じゃないわ。あくまでも、そこに至る道程で見つけた力……いわゆる副産物ね。今はあなたの周りにある空間を固定して、動けなくさせているのだけれど、ついでにあなたの左首も固定させてもらったわ。これでもう……再生は出来ない」
「「ッ!」」
「ふふっ……声すら出せないでしょう? そういうものなのよ。空間が止まるっていうのはね。それでいて、息も出来るし、見ることも、聞くことも出来る……どう? まるで、あなただけが世界に取り残されているようでしょう?」
"なるほど"と、ケルベロスは動けぬままに心の中でそう呟いた。
そして同時に、"それならばなんとかなる"と、そうも思ったのだが、ここで一つある問題が発生する。
これを解くには、彼女は主人と交わした約束を破らなければならなかった。
だが、一度主人と定めた以上、許しなくそれを破ることは出来ない。
そのしがらみが、彼女の力を大きく削いでいたのである。
「……さて、そろそろお別れにしましょうか。わんこちゃんをいたぶる趣味はないから、一息にやってあげる。本当はこんな苦しませる前にやれたらよかったのだけれど、なまじあなたが強くて大きかったから……仕方がないわよねぇ?」
不気味な笑みを浮かべるヘンリエッタの手が、ゆっくりちケルベロスへ向けられる。
それを見た彼女は、諦めるように目を閉じた。
約束を破るくらいなら死を選ぶ。
それがケルベロスの矜持であり、忠節を誓った相手に対する礼儀であった。
「それじゃ、わんこちゃん……さような───」
「あんたがな」
「ッ!?」
突如、真後ろから聞こえたその声に、ヘンリエッタは瞬間的に空間を跳躍した。
だが───
「ゔッ……!?」
少し離れた建物の屋根へと転移したヘンリエッタの首筋から、どろりと赤い血が溢れ出す。
アストが放った神速の抜刀は、消える刹那を確実に捉え、彼女の首に致命傷を与えていた。
「ごふッ……ごのままだと……げぼッ! あー……じぬわねぇ……ふふッ……!」
彼女は真っ赤な口で笑みを浮かべながら、左手を傷口に添え、そのまま空間魔術を発動した。
「んんッ……あー……ゔぅんッ! んん? スー……ハー……ん、繋がった……」
やがて衣服についた赤い血が広がり切った頃、彼女はスッと立ち上がる。
その首には、半分程切れ込みが入っていた。
「さて……お礼をしないと、ね」
そうして、アストたちがいる方向に、笑顔を向けた。
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「「「ウオォンッ! ヒィンッ……ヒィンッ……」」」
「よしよし……無事でよかったな」
激しく尻尾を振り回しながら、ケルベロスは顎を地面に付け、アストに三つの鼻を擦り付ける。
彼はそれらを優しく撫でながら、周囲の魔力を探っていた。
「…………ちッ、手ごたえはあったんだがな」
完全には断ち切れなかったが、彼は刃が深く入り込む感触を確かに得ていた。
しかし、少し離れた位置に魔法使いの気配を感じ取ったアストは、ケルベロスの鼻をポンポンと叩いた後、その方向へと視線を向ける。
「「「クゥゥン?」」」
「ん? ああ、まだ生きてるみたいだ。間に合うか微妙だったから、やばいと思って声をかけちまったんだが……どうやら裏目に出たらしい。身体が重かったのもあるが……つか、お前が戦ったにしては……やけに建物が残ってるな」
「「「オォンオンオンッ!」」」
「……なんで怒って───あ、ひょっとして、俺が建物をなるべく壊すなって言ったからか?」
「「「ガルルルゥッ!!」」」
「あー……すまん。あれは、逃げ遅れた民間人をお前が潰さないようにって、そういう意味だったんだよ。あっ……じゃあ、あれか? 無茶をするなっていうのも守ってたのか?」
「「「グルルルルッ……」」」
「す、すまん……今度からはもう少し詳しく指示を出すよ。後でたらふく甘いもん食わせてやるから……許してくれるか?」
「「「……ウォフッ」」」
「ん、ありがとな。さて、じゃあ……こっからは好きにやっていいぞ。二人であいつを倒すんだ。いいな?」
「「「ウオンッ!」」」
「よし……そら、来たぞ」
二人の見つめる先に、鮮血で汚れた服を纏うヘンリエッタが、青く長い髪を靡かせながら宙に浮いていた。
そして、その表情は───
「……あんた、変態か?」
アストは思わずそう尋ねていた。
何故なら、彼女がとても嬉しそうに、笑っていたから。
「あら、どうして?」
「そりゃ首が半分切れてんのに、嬉しそうに笑ってるからだよ」
「ああ……ふふふっ! えっと、まずは自己紹介からよねぇ……私はヘンリエッタというのだけれど、あなたのお名前は?」
「……軍人殺しと、そう呼ばれているぜ」
「あらっ! あなたがそうなのぉ!? あらあら……じゃあ、この騒ぎもぜーんぶ……あなたの仕業ってことぉ!?」
「そうなるな」
「あはっ!」
パチパチと、彼女はやはり嬉しそうに笑いながら手を何度か叩く。
その様子に、アストは嫌悪感を抱いた。
「あっ! お返事がまだだったわねぇ……えっと、まず私は変態じゃないわぁ。それで、あなたがそう思ったのは、私が笑っているからよねぇ?」
「そうだな」
「うんうんっ! じゃ、いいこと教えてあげる。人はね、笑っちゃうものなのよぉ……本気で頭にくるとね」




