第78話:空間の歪み
すぐさま三つの首が、同時にぐるんと背後へ回る。
「まったく……"ちょっと見てこい"だなんて王様に言われた時は、どうしてやろうかと思いましたけれど、来てみたらこの有様だもの……ほんと、びっくりしちゃったわ」
青く長い髪に指を這わせながら、突如現れたその女は、そう言って微笑を浮かべる。
ケルベロスは立ち上がり、その女と相対すると、その全身に魔力を纏わせた。
「あらあらあら……大きいだけじゃないのねぇ。うーん……どうしようかしら……困ったわねぇ」
「「「……」」」
ケルベロスはじっと、その女を睨みつける。
"只者ではない"。
それが、彼女が抱いた率直な感想。
女の纏う雰囲気から察せられるその実力は、過去に戦った公爵と比較して尚、それに勝るとも劣らないと、彼女はそんな風に考えていた。
牙を剥き、爪を大地に食い込ませて警戒を強める中、彼女はふと、アストに言われた言葉を思い出す。
「私はねぇ……」
"もしお前に殺気を向けるような者が現れたら……容赦はするな"。
「わんこちゃんをいじめる趣味は……ないのだけれど」
「「「ガルァッ!!!」」」
歪んだ笑顔の裏に、凄まじい殺気を感じた直後、ケルベロスは強く大地を蹴った。
「あら意外と───」
体高十メートル、全長十五メートル。
その巨躯からは想像も出来ない程の速さで、ケルベロスは女が何かを言い切る前に、その前脚から伸びた鋭い爪で地面ごと女を抉り飛ばす。
「「「……」」」
だが、彼女の六つの視線は、腕を振り切った時には既に、自身の背後へと向けられていた。
「───速いのねぇ」
前脚が触れる刹那。
女は消え、その匂いが瞬時に背後から漂い始めたのをケルベロスは感じ取っていた。
その時点で彼女は相手の能力を悟り、"ひょっとして"と、そんな考えが脳裏をよぎる。
「お姉さんびっくりしちゃったわぁ……そぉんなに大きいのにすぅんごく速いんだもの……あ、ところであなた、お名前はあるのかし───あら、ごめんなさい……こういう時は、自分から自己紹介をしなくっちゃねぇ」
女はそう言うと、青と白を基調としたドレスのようなローブの両端を指で摘み、視線は逸らさぬまま、優雅にお辞儀をしてみせた。
「私の名前はヘンリエッタ=エルドラージュ……一応、人からは……"魔法使い"と、そう呼ばれているわ」
「「「……!」」」
"魔法使い"という言葉を聞き、ケルベロスは再びアストの言葉を思い返していた。
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「いいかケルベロス……さっき言ったことを忘れるなよ?」
「「「ワフッ!」」」
「よし……あ、もう一つあった。ここには、お前に勝てる者はいないと思う。だが、他から飛んでくる可能性はある。ここの異常事態を察してな。ゲートも通信設備も破壊するが、ただ一人……唯一ここへと一瞬で来られる奴がいる」
「「「ワウゥ?」」」
ケルベロスは耳を立てながら、三つの首を同時に傾げ、チラッとバティンの方を見た。
「んふっ! ケルベロスは可愛くて頭もよいですの。あなたの考えている通りですわ。わたくしのように、空間を自由に跳躍出来る存在が人間にもいるみたいなんですの」
「「「ワオゥ……」」」
「ええ! あなたのおっしゃる通り、もちろんわたくし程の使い手なんてことはありませんの! 空間を操ることでわたくしの右に出る者は……いえ、わたくし以上の存在は、ルシファー様だけなのですからっ!」
「「「ワワンッ!」」」
ちなみに、バティンはケルベロスの言葉を理解している訳ではなく、ノリと勢いでそう言っているだけである。
「わ、私は今、弱ってますからあれですけど……」
「まぁ、とにかくだ……そいつはアレクサンドリアにいる"魔法使い"の一人で、バティンと同じように長距離転移も簡単にこなしちまう程の力量だ。こっちの異常を察知して、そいつを送り込んでくる可能性はなくもない。もし出会ったら……無茶はするな」
「「「……ワォウ」」」
ケルベロスは目線を合わせず、ぺろりと舌を回す。
アストはそれが、"はいはい分かりました"という意味だと知っていた。
「こいつ……まぁいい。ちなみに、そいつは三十過ぎの女で、二つ名は確か───」
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アレクサンドリアが誇る十三人の魔法使いの一人、ヘンリエッタ=エルドラージュ。
街と街を繋ぐ転移装置の開発者でもある彼女は、この世界における最強の空間魔術使いである。
そして、空間魔術のさらに先、この世界の理を超越したそれを身につけたその時から、彼女は"流転"の魔法使いと、そう呼ばれるようになった。
「それじゃ、よろしくね……わんこちゃん」
「「「ッ!」」」
ヘンリエッタがニタリと笑った瞬間、何かを察知したケルベロスは、弾かれるように後方へと跳ぶ。
その直後、彼女が元いた場所が、一瞬ぐにゃりと歪んだ。
「……あら、野生の勘ってやつかしら? よく気づいたわねぇ。だいたいの子は……今ので死んじゃうのだけれど」
尚も周囲にまとわりつく嫌な感覚に、ケルベロスはさっきまで進んできたメインストリートをどんどんと後退していった。
その度に、彼女の目の前の景色が、まるで空中に波紋が広がるように、不自然に揺れていく。
「ふぅん……あなた、感覚で分かるのね」
正面にいたヘンリエッタが視界から消える。
すぐさまケルベロスの視線が、六つ同時に右へと流れ、建物の屋上に立つ彼女を捉えていた。
「すごぉい……鼻もいいのね。んー……そうねぇ……これだとほんの少しだけ……本気を出さなきゃダメみたい」
「「「ウウゥゥッ……」」」
ヘンリエッタの魔力が怪しく揺らめくのを見て、ケルベロスは唸り声を上げるとともにゆっくりと、その重心を下へと落とした。




