第77話:巨大な影
元皇都ペルシア城の最上部にあるその部屋の窓からは普段、城の正門から長く伸びるメインストリートに沿って、美しく整備された街並みと、そこで生きる全ての人間たちを見下ろせる絶景が広がっていた。
それはまさに、成功した者のみが望むことを許される尊きもの。
ジャバーにとってそれを眺める行為は、己が歩みを証明する為の儀式でもあった。
「こ、こんなッ……私の……!」
しかし、そんな彼の崇高な儀式を、眼下に広がる光景は、いとも容易く嘲笑う。
「私のっ…………国…………」
深夜十二時を過ぎ、普段ならば暗く、静かに眠っている筈の街は、ところどころから火の手が上がり、どこもかしこも金切り声を上げながら、我先にと逃げ惑う民で溢れかえっていた。
さらに、城の正門の内側は、一階から溢れ出した屍人の群れによって埋め尽くされ、美しく整備された通路の生垣や芝生は踏み躙られ、まるで一枚の絵画のようだった中庭の風景もまた、血と膿と肉によって見るも無惨な状態へと変わってしまっていた。
「…………え?」
それを寂しそうに眺めていたジャバーであったが、ふと視線を上へとやった際にようやく、その異質な存在が、彼の視界と思考に入り込んだ。
「な……なん……だ……?」
彼がいる窓の正面に、真っ直ぐと伸びるメインストリート。
その馬車が六台は並んでも問題ない広さを誇る道を、何か巨大な黒い影が、完全に占領していたのである。
「ま、まさか……あれが……」
その巨大な影が、ゆっくりと動いていることに気づいた彼は、そこでようやくそれが生き物であることを認識する。
「さ、さっき報告にあった……巨大な獣……?」
その巨大な影は、四つ足で大地を揺らしながら、三つの舌をだらりと下げ、六つの目で城をじっと見据えていた。
「く、首が……三つ……」
獣の名はケルベロス。
それは、三つの首を持つ黒犬の悪魔であり、魔界に生きる全ての獣の王である。
「な、なんなんだ……」
この世界にも、人を襲う獣は存在する。
中には高い知性と力を持ち、原始的な魔術まで使用する個体もおり、そういった有害な獣は、傭兵ギルドなどでは討伐対象に指定され、報奨金が出ることもあった。
「あの……巨体はッ……」
だが、メインストリートに建ち並ぶ、二階建ての店々より巨大な獣など、この世界には存在しない。
そのあまりにも非現実的な存在を目の当たりにしたジャバーは、思わず後退りながら頭を抱えた。
「なんでこんな……なんなのだこの状況はッ!?」
彼が治めている間、ずっと平和だった元ペルシア領。
それが、この僅かな間に反転し、まるで今まで溜まっていたものが一気に溢れ出したかのように、彼へと一塊になって押し寄せてきていた。
しかし、それでも彼は膝を折らず、理不尽なその現実を真っ向から睨みつける。
「まだ……まだなんとかなる……その為の兵力だッ……」
南方司令部常駐軍の十万という数は、通常常駐する軍としては、あまりにも数が多い。
それは、この元皇都ペルシアが基本的に孤立無縁の都市であり、有事の際に間違いなく事態を収束出来るようにと、そう考えられて配備されていたものであった。
一万は削られたが、それはあくまで奇襲によるものであって、その女とやらも決して無敵などではなく、残る全軍が万事整えば負けるはずがないと、ジャバーは窓の先に浮かぶ六つの目から視線を切り、急いで部屋を後にした。
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「「「スンスンスンッ……」」」
ジャバーが部屋から消え、城の二階にある通信室で部下たちと合流した頃、ケルベロスは正門前で止まって上を向き、三つの鼻を同時に鳴らしていた。
「「「クゥーン……」」」
そうして彼女は、やはり三つの口から同時に、なんとも寂しそうな声を上げながら城をじっと見つめた。
ケルベロスは、魔界における生態系の頂点に立つ存在。
よってその力は"公爵"の位に座し、何者にも従わない孤高の存在として、自身の縄張りに入り込んだ侵入者を駆逐する日々を今も送っていた。
そんな彼女であったが、初めてアストに召喚された際、彼にポツリと一言"かわいい"と、そう言われて以来、アストにだけは心を開くようになる。
加えて、アストが存分に遊べるだけの力を有していたこともまた、彼女にとっては非常に好印象で、今では完全な主従関係を結ぶ程に、彼女はアストのことを信頼していた。
「「「ウゥー……ワォォォォォオンッ!!!」」」
言葉を完全に理解する程の知能を有するケルベロスは今回、アストから主に二つの指示を受けていた。
それは、"廃墟街のペルシア人たちに力を貸し、内壁の防衛隊を駆逐しろ"というものと、"城の周りを歩き、街に住む人間を外へ追いやれ"、である。
他にも"なるべく建物を破壊するな"や、"逃げる人間を殺すな"など、それら細かい指示までをも忠実に遂行し、辺りの匂いによって全てが終わったと判断した彼女は、城の正門前に座り込み、三本の大きな尻尾をぶんぶんと振り回しながら、褒めてもらおうと彼を呼んでいたのであったが───
「……あら、おっきなわんこちゃんだこと」
「「「ッ!」」」
それは、ケルベロスの耳も鼻も掻い潜り、唐突に彼女の背後へと現れた。




