第64話:終・二つの回想
「バカにされ、嘲笑われて、貶されて、ありとあらゆる尊厳を傷つけられ、指も腕も……耳も鼻も歯も皮も肉も失い、そうして最後……遂に、一千回目がやってきた。ほとんど意識はなかったが、数は数えられていてたからな。ああ、やっと終わるんだ……これで苦しみから解放されてもう死ねる……そして、あいつは助かるんだ……守れたんだと、多分無意識にそんなことを思っていたんじゃないかな……その時は」
その時点で、彼はもう呻き声すら上げなくなっており、ただ立っているだけの……人ではない何かと成り果てていた。
そう……あれは、もう死体だった。
彼はあの時点で既に、死んでいたんだと思う。
肉体はあっても、中身はもうこの世にいない……そういう存在になっていた。
「頭にガツンと……凄い衝撃が走った。後から知ったが、バルバロスが上段から剣を振り下ろし、俺の頭を叩き割っていたんだ。それで脳天が裂け、頭蓋骨が割れ……中身が半分こぼれ落ちた。だが、俺はまだ生きていた。そして、その時フッ……と、意識が戻ったんだ」
人がいたぶられるのを何度も見た。
もう何人も殺してきた。
子供でも躊躇なく殺した。
何も感じなくなっていた。
けど、彼の前に立ち、いざナイフを頬へと向けた瞬間、手が震えて、動けなくなった。
それでもやらなければならなかった。
だから、震える右手に左手を添え、グッと上に突き上げるようにして、なんとか頬にナイフを当てた。
直後、目が合った。
じっと、見下すようなその目は、やはり人のそれではなかった。
力を込め、皮膚を裂き、ナイフを肉に突き立てた。
それでもその目は、ずっとこちらを見ていた。
ナイフを引き抜き、逃げるようにその場を離れた。
すると、すぐにまた別の奴が彼を傷つけにいった。
そしてその次、また次と……流れ作業のようにそれは続いていった。
そして、最後にバルバロス閣下が頭を砕き、彼の頭から……脳みそがこぼれ落ちた。
「目の前にバルバロスの背中が見えて、俺は"せん"と……そう呟いた。どうだ見たか? 終わったぞ……俺は耐えたんだ……って、そんな気持ちを込めてね。まぁ、半分になった脳みそじゃ、"せ"と"ん"しか言えなかったんだな。そうしたら、あいつが振り返ってなぁ……本当に、心底嬉しそうに笑いながら……俺を褒めやがるんだ。そして、"約束は守れない"と……そう言いやがった」
それでも、彼は立っていた。
凄い光景だった。
決して正しいものではないのだろうが、胸が震え、感動すら覚えるほどに。
まさしく全てを差し出して、彼は守ったのだ……愛する人を。
尊いと、心からそう感じていた。
あんなに人を愛せるものかと。
そして、報われるべきだと……そう思った。
「"彼女を逃すことは出来ない。ただ、丁重に、大事に扱うことは約束する。乱暴なんか絶対しない。彼女が平穏無事に生涯を過ごせるよう、君に代わって僕が彼女を守るよ。君にはもう守れないからね。僕が代わりに、彼女を幸せにしてあげる"……だとよ。気持ち悪いだろ?」
……しかし、約束は守られなかった。
閣下は彼にとどめを指し、彼女を逃がすことなく、満面の笑みを浮かべながらその場を後にした。
その瞬間、心にぽっかりと穴が空いたような、そんな感覚があった。
「結局、俺はバカみたいに弄ばれて、最後はバルバロスの魔術で胸に穴を開けられて……ゴミみてぇに処理されたんだ。で、奴は嬉しそうに笑いながら、泣き叫ぶ幼馴染を連れ、村から去っていった。俺は、それをずっと見ていた……見てることしか出来なかったんだ」
我々はパンドラを後にし、その後も三ヶ所で同じことを繰り返した。
結果は言わずもがな。
耐えられたのは……彼だけだった。
結局、半年間で六ヶ所を巡り、それで任務は終了。
我々は帝都に帰還し、部隊は解散となった。
「……これで終わりだ。愛する女一人守れない哀れで情けない男が、ただ無様に死んだだけの……なんとも救いのない……クソみたいな話は」
今でも思う。
あれは、なんだったのだろうかと。
なんの意味があったのだろうかと。
我々は理由も知らずに、ただ命令されるがまま、罪もない人々を蹂躙し、若い恋人同士をいたぶって、辱めて、無惨に引き裂いただけだった。
そうして、あの殺戮の日々は……この壊れた心だけを残し、過去へと消えていった。
中にはその行為に心を焼かれ、人として大切な何かを失ってしまった奴もいた。
逆にもう嫌だと、軍を離れた奴もいた。
また、バルバロス閣下に評価され、出世したり、直属の配下になる奴もいた。
私も閣下に誘われたが、丁重に断った。
あんなことは……もうたくさんだったから。
それでも閣下は、"所属先の希望があるなら口を聞いてあげる"と言ってくれた。
だから……"特務課"に入りたいと、そう答えた。
「ん? ……信じられないって顔だな。まぁ、確かに……俺はこうして生きてるし、あんたらからすれば、俺がでたらめを言ってる可能性も全然あるか……」
特務課は、国内で起きた様々な事案に対応する組織。
相手にするのは、国家に対する反逆者や、法を破る犯罪組織、敵国の諜報員など、アレクサンドリアに仇なす輩ばかり。
要するに、ちゃんと理由があるということだ。
殺してもいい……その理由が。
だから選んだ。意味が欲しかったから。
特務課に入る為には、厳しい試験を突破せねばならず、それは自分の力で乗り越えるしかない。
それならばせめてと、閣下は空白になっていた半年間の経歴を書き換え、さらに推薦状まで書いてくれた。
そうして試験に挑み、つい三ヶ月ほど前から……特務課の一員として認められ、今に至る。
「この話が本当だという証明が必要か……んー、でも結局、バルバロスがやったという証拠は何も───おやぁ?」
嫌な予感はしていた。
あのリストを……最初に見た時から。
「あんたらの中に……見覚えのある奴がいるな」
それでも……そんな筈はないと、自分にそう言い聞かせ、誰にも何も言わず……悟られぬように行動してきた。
だって、彼はもう……死んでいるんだから。
「もう分かってるんだろ? そうだよ……」
背丈もこれくらいだった。
声もこんな感じだった。
そして、彼の話したことが全て真実だと……あたしは知っている。
「あんたが俺の頬に当てたナイフの感触……今でも覚えてるぜ」
その時、暗闇の中から、黒いフードを被った彼が姿を現した。
彼はゆっくりと、こちらに近づいてくる。
みんなが身構える中、あたしは動けず、ただ震えることしか出来なかった。
そんなあたしに、みんなが何か喋りかけてくる。
けど、何を言っているのか分からなかった。
なのに、彼の声だけは、はっきりと聞こえていた。
「その小さな身体で、眉を八の字にして、不自然に笑いながら、必死に手を伸ばして、あんたは俺の右の頬を抉ったんだ」
そうか……あたしは……笑ってたのか。
「あんたはどうだ? 震える手で俺を刺したあの時の感触はまだ……残っているか?」
残っている。
何人も殺したのにあれは、あれだけは……拭いきれなかったから。
「さて、それじゃあそろそろ……証拠を見せようか」
そう言って、彼はフードに手をかける。
見たくなかった。
そんな筈はないのに、あり得ないのに、あってはならないことなのに……だけど、もうあたしは確信していたから。
そのフードの下に彼の……あたしがナイフで抉った彼の───
「久しぶりだなぁ…………カサンドラ」
それは、間違いなく……彼だった。




