第32話:不穏な苛立ち
彼女はゆっくり身体を起こすと、ちらりと看守を見つめた後、乱れた髪を手でかき上げる。
ごくありふれた、特に深い意味も持たない、なんということもないその動作。
しかし、吹き出した汗で艶めいた肌が、手を上げた際に微かに見えた脇が、そして潤んだ上目遣いのその瞳が、看守の視線を強引に引き寄せる。
絶世の美女。
そんな言葉が誰よりも相応しい彼女が放つ、芳醇で濃厚なその色香は、形容し難い特別な何かをはらんでいた。
「う……」
"綺麗"だと、ついそう思ってしまった彼女は、慌ててフィオナに背を向け、再び椅子に座って視線を床へと落とした。
そんな彼女の様子など気にもかけず、フィオナは語り続ける。
「ずっと一緒にいたんだ……側にいられるだけで幸せだった。彼は私の全てを受け入れ、優しく包み込んでくれたからな……彼の前以外では、必死に別人を演じたよ。私のせいで、彼も異常者なんじゃないかと他の人たちに思われたくなかったからね。だから、彼の前だけでは自分でいられた。心地よかった……母親にも見せない顔を、彼には見せられたんだ。でも、だんだんと欲が出始めてね」
フィオナは天井に手を伸ばす。
それはまるで、決して届かないものを求めるように。
「もっと触れたい……頬を寄せて、手を回して、互いの心と身体を重ねたいと、そう願うようになってしまった。ただ、彼は少々優柔不断でね。なかなか……友達以上の関係になれなかったんだ」
どこを見るでもなく、笑っているような、泣いているような、そんな切ない表情を浮かべながら、フィオナはさらに話を続けた。
「ふふ……私も私で、もし拒絶されたらどうしようと……"お前みたいな頭のおかしい女は嫌だ"と、そう言われたら、もう側にいられなくなってしまうかもしれない……そんな想像が、何度も何度も頭の中でぐるぐると繰り返し浮かんでは消えて、結局浮かんだままになるんだ。それでも、私は前に進むことを決めた。彼と……愛し合いたかったから。こんな頭のいかれた女だが、勇気を振り絞って彼に伝えたんだ。まぁ、恥ずかしくて、冗談みたいなやり方になってしまったけれど……上手くいったよ。それでね、キスをしたんだ。初めてのキスだった……幸せの絶頂とは、このことなんだと明確に理解したよ。気が狂いそうになるほど気持ちよかった…………でもアストは死んだ。殺された」
彼女の顔から笑みが消える。
声色も変わり、看守は背筋に嫌な物を感じた。
「何故アストが、あんな目に遭わなきゃならなかったんだ? 千回に分けて全身を少しずつ削られ、罵られ、嘲笑われて、最後は胸に穴まで開けられて……彼は死んだ。私は……それを見ていることしか出来なかった。しかも、それは全て……私のせいだったんだよ」
無表情のままの彼女の目から、涙がこぼれ落ちる。
そして、微かに笑みを浮かべた。
「途端に世界がどうでもよくなった。君らに無理やり生かされなければ、私はきっと死んでいただろう。生かしてくれてどうもありがとう。心から礼を言うよ。本当に助かった。ただ、今はもうよく分からないんだ。何故また生きようと思ったのか、自分が何を考えているのか……分からないんだよ」
看守は、顔を上げられなかった。
もし今、彼女の方を見れば、きっとよくないことが起こる。
何故か、そんな確信だけがあった。
「ん? ああ……すっかり冷めてしまった。では、改めて……いただきます」
泡立った肌は戻らぬまま、看守はただ、床だけをじっと見つめていた。
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「ほんとなんなのあいつ!」
食器類を乗せたトレイを片手に、看守の詰め所へと戻った彼女は、扉を開けるなりそう叫んだ。
「おう、おかえり」
それを慣れた様子で迎え入れたもう一人の女は、淹れたばかりのコーヒーが入ったマグカップを彼女の席に置く。
「ねぇ! なんなの!? もうやなんだけど!」
そう喚き散らしながら、トレイを洗い場に叩きつけた彼女は、両手で頭を掻きむしりながら椅子に座り、そのまま頭を抱える。
「落ち着けよレイナ。ほら、とりあえず飲めって」
「もうほんとやだ……ねぇ、アンジュ聞いて!? あいつ───」
レイナは先程あったやり取りを彼女に全て話した。
それを聞いたアンジュは、返答に困っていることを隠すように、口に当てたカップを微かに傾ける。
「あー……ほんと頭がおかしくなりそう……ねぇ、アンジュの時はどんな感じなの?」
「私の時? んー……あいつが一人でずっと喋ってるかな。反応しないようにしてるけど、そんなの気にもしないって感じで、話の最中に全く別の話に飛んだり、そうかと思えばまた元の話に戻ったり、とにかくずっとよく分かんないことを喋ってるな」
「聞いてて頭おかしくならない?」
「狂人相手だからねぇ……"そういうもの"だと思ってるから、聞き流すようにしてるよ」
「んー……私には無理……いや、そりゃ多少は同情するわよ? 今日の話だって、もし仮に事実だとしたら、そりゃ私でも頭が───」
「やめな。嘘だろうがそうでなかろうが、私らがやることに変わりはない。あのお方の為に、あいつをここで生かし続ける。ただそれだけを考えればいいんだよ。分かったか?」
「……分かってるわよ。ねぇ、あいつがまともに食事を取り始めたのって、いつぐらいからだっけ?」
レイナの問いに、アンジュは上を向いた後───
「えーっと……四月の中頃くらいからだから……だいたい一ヶ月前かな?」
フィオナがここへと連れてこられたのは、去年の七月のことであった。
アストの村を襲撃後、バルバロスが率いる部隊は、似たようなことを別の場所でも繰り返し、その間フィオナは、全身を拘束されたまま世界中を連れ回されていた。
そして全てが終わり、バルバロスは彼女の存在を隠す為、今は使われていないこの城を秘密裏に利用し、配下にいた四人の優秀な女性たちを招集。彼女の監視を命じたのである。
ここへと来た当初、その時点で既に、フィオナは衰弱し切っていた。
連れ去られて以降、生きる気力を失った彼女は、自ら何かを口にすることは一切なく、糞尿も垂れ流しの状態で、まさに廃人そのものといった様子であった。
連れ回されている最中は、バルバロスの命令により、薬と魔術を使って強引に栄養を身体へと入れていた為に死こそ免れてはいたが、それでも身体は痩せこけ、目と頬はくぼみ、美しかった黒髪は艶を失い、彼女は見るも無惨な状態へと変わり果てていた。




