第20話:気まぐれ
急に現れたその男は、前締めの黒く長いマントが足首までを覆い、その先に重厚感のある革のブーツを履いていた。
見た目は若く、兵士たちからすればまだ子供。
そんな彼は、どこを見ているか分からない目で、ただ静かに前を向いていた。
「ひッ……ぐううッ……!」
真後ろに立つ男から逃れるように、右腕を失った彼は激痛に耐えながら、残された腕と足を使い、部下たちの方へと必死に床を這いずっていく。
そんな彼らの様子を、女性はただ呆然と見つめていた。
「こ、こいつッ……なぁに黙ってんだコラァッ!」
「自分が何をしたか……わ、分かってんだろうな!?」
素早く剣を引き抜き、構えを取りながらそう言って凄む二人であったが、その威圧的な様子とは裏腹に、彼へと向けた剣の切先は微かに震えていた。
気づかぬままに上司の腕を切断し、そして突然目の前に現れたその男。
ただならぬ雰囲気を醸し出す目の前のそれに、恐怖を抱くなという方が無理な話であり、故に二人は踏み込めず、ただ剣を構えて睨むことしか出来なかった。
「な、何してんだお前らッ……やれぇッ!!」
「「ッ!」」
上司の怒号により、覚悟を決めた二人は地面を蹴って同時に前へと出た。
「う、うぉおッ!」
そして、雄叫びを上げながら剣を振りかぶり、二歩、三歩と前へ出た時だった。
「「ッ!?」」
二人の視界が急に傾き、足が前へと出なくなる。
しかし、意識だけは前へと進み、彼らは訳もわからぬままに剣を振り下ろした。
それは当たり前のように空を切り、それと同時、二人の身体が地面へと倒れ込む。
「う、うわ……うわぁぁぁあッ!?」
その時、背後から上司の叫び声が上がった。
「こいつッ……な……ごぽっ……」
「ぽっ……ぽぷぉ……」
喋ろうとした刹那、二人の口から大量の血が溢れ出す。
そして、彼らの下腹部に突如激痛が走った。
「ぶッ…………ふぉ…………」
二人は何も理解出来ぬまま、そのまま地面に頭をつけ、二度と動かなくなった。
その後ろで、地面に立ったままの二人の下半身だけが、ゆらゆらと揺れた後にバタンと、床に倒れた。
「あ……ひぁあッ……おぇっ……!」
鉄と、臓腑から漏れ出たむせ返るような異臭が、あっという間に店の中へと広がっていく。
そんな中で、男はゆっくりと動き出し、恐怖でへたり込んだまま動けない女性の前を通り過ぎ、残る最後の兵士の前へと立った。
「ま、待って……許して……」
「……許す? 何を許すんだ?」
「へぁっ……?」
男が急に話し始めたことに驚き、斬られた右腕を押さえながら、彼は素っ頓狂な声を上げる。
「何か誤解してるみたいだな……俺はあんたらが入ってきた時から、ずっと気配を消してたんだ。ほら、あの隅の席でな」
男はそう言って、店の隅にある自分がいた席を指差した。
机の上には料理の皿と酒のグラスが所狭しと並べられており、その側の床には一人が横になっていた。
「床で寝てんのは俺の連れだ。どうせ起きないからほっといていい。で、あんたらは入ってきた時からひどく苛立ってたし、絡まれても面倒だったからな……だから俺は気配を消していたんだ。そしたら案の定騒ぎ始めた……俺は黙って見てたんだよ。手を出すつもりはなかったんだ」
無表情のまま、男は語り続ける。
兵士と女性は、それを黙って聞くしかなかった。
「けど、あんたらが店主をボコして、この人を連れて行こうとした時に……気づいたらあんたの腕を斬っちまってた。いや、さっきからその理由をずっと考えてたんだが……多分既視感かな。昔の俺に重なったんだと思う。だから、俺は多分……イラついてるんだ」
「あっ……あっ……!」
「あ、いいんだ。気にするな。俺は正義の味方じゃない。さっきも言った通り、俺は何が起きても関わらないつもりだった。どうでもよかったんだ。何があろうがなかろうが……俺に関係なければ。だから、あんたが俺に許しを乞う必要はない。あんたは悪くない。これは単に、この状況を俺が気に入らなかったという……ただそれだけの話なんだよ」
直後、ごとりと、兵士の首が地面に落ちる。
男の手にはいつからか黒い剣が握られており、その切先からは血が床へと垂れていた。
「だから、許すも許さないもないんだよ……あんたも、俺もな」
目を見開いたまま転がる頭にそう言って、アストはゆっくりと自分がいた席へ向かう。
そして、ため息をつきながら、酔っ払って寝たまま起きないルシファーを肩に担ぐと、机の上に金を置き、今度は店の入り口へ向かって歩き出した。
その時、彼はふと立ち止まり───
「……ひっ…………」
血溜まりの中で、動けない彼女をじっと見つめる。
そして、ぼそりと何かを呟いた後、そのまま店を出ていった。
──────────────────
「う……うぅっ……?」
店主の男性が目を覚まし、まず初めに感じたのはその"臭い"であった。
汚物と錆びた鉄を混ぜたような酷い悪臭に、曖昧だった意識が瞬時に覚醒する。
「ぐッ!? いっつッ……」
さらに、起き上がろうとした瞬間、身体中に激痛が走る。
激しい暴行により、彼の身体は至る所が骨折していた。
「あッ……!」
その痛みで全てを思い出した彼が慌てて辺りを見回すと、床にへたり込んだまま動かない彼女を発見する。
そして同時に、周囲が血で赤く染まっていることにも気づいた。
「ヤ、ヤヨイッ……!」
「ッ! あ、あなた……」
彼は痛む身体を強引に動かして立ち上がると、彼女の側へと駆け寄り、そのまま強く抱き締める。
「ぶ、無事か!? 怪我はッ……な、何があったんだ!?」
「わ、私は大丈夫……何もされてない……」
彼女は彼の方を向かずに、店の入り口を見つめながらそう答えた。
「そ、そうか……よかった……」
それに違和感を覚えつつも、彼は安堵する。
「あ、あの……隅の席にいたお客さんが……こいつらを……」
彼女はそう言って、アストが座っていた席を指差した。
やはり、顔を入り口に向けたまま。
「あ、ああ……あの人が助け───」
「違うッ!」
彼の言葉を遮り、彼女はそう強く叫んだ。
「ち、違うって……えっ? ど、どういう意味……?」
「あ、あの人……ね……? 店を出て行く前に……わ、私の目を見てっ……"まぁいいか"……って……そ、そ、そ、そう……言ったのっ……」
「……えっ…………あ……」
ガタガタと震えながら、それでも店の入り口を見つめ続ける彼女を見て、彼もまた気づいてしまう。
「初めて……あんな目で見られたっ……本当に興味がないというか……私なんか、あの人にとってはその辺の虫以下の存在なのっ! わ、私はっ……あの人の気まぐれで生かされただけっ……き、気が変わればすぐにでも……だから怖くてっ……うっうっ……い、入り口から目が離せないのっ……!」
「ヤ、ヤヨイ……!」
彼は妻をさらに強く抱き締め、その顔を自身の胸へと強引に引き寄せる。
しかし、それでも彼女の目は、夫の腕の隙間からじっと、入り口を見つめ続けていた。
──────────────────
翌朝。
酒場の店主からの通報により、店には多くの兵士たちの姿があった。
そんな騒がしい店中で、一際恰幅のいい一人の男性が店の主人から話を聞いていた。
「───ご主人、お話はだいたい分かりました。それで、やはり奥様から直接お話を伺いたいのですが……」
「今は……難しいと思います。あなた方が来られるまで、妻は店の入り口から離れようとしませんでした。ようやく少し落ち着いて、今は彼女の実家に預けております。少し時間をいただけると……助かります……」
「そうですか……分かりました。では、また何か分かりましたらお伝えいたしますので、今はひとまずこのへんで……」
「は、はい……よろしくお願いします……」
互いに会釈をし、店主が店の奥へと引き上げるのを見送った後、このシャバラという小さな街の兵士長であるブランは、そのもともと立派な腹をさらに膨らませ、大きく長いため息をついた。
「やれやれ……まさかなぁ……」
彼は視線を床に落とす。
その先に、物言わぬ肉塊となった三人の部下が転がっていた。
そして───
「一晩に……四人も部下を失うとは……」
そう呟きながら、彼は綺麗に剃り上げた自身の頭を何度か撫でた。
「兵士長」
「ん、どうした?」
「例の……本国の方がこちらに」
「ここに? ……分かった。お通ししろ」




