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第六話【 言葉を持たない海の、最初の歌 】

『エポ、これより〈深層の静寂サイレント・アビス〉に潜入します。……あ、ちなみに現在の太陽の表面温度は約5,500度です』


「太陽の温度の真逆みたいな場所に来ておいて、よくその雑学が出てくるね、ハル」


視界を満たしていた色鮮やかな星々は消え、エポの身体は青濃い「データの海」へと沈んでいた。光すら届かない水深の底。そこは、身体的・精神的な重度の障害や病によって、現実世界での自発的な意思表示(発語や身体運動)が極めて困難な人々が集まるワールドだった。


ここにはテキストチャットも、ボイスチャットもない。

聴覚とわずかな脳波の揺らぎだけで、空間の「波紋」や「色彩」を変化させて意思を伝える特殊なエリアだ。


『対象のユーザーを検出。脳波信号名「カイ」。運動機能の99%が不全、失語症の既往歴あり。……ですが、彼の脳波エネルギーは今、非常に激しく暴走しています』


「暴走……?」


海の底に、漆黒の巨大な結晶体が沈んでいた。

その結晶は怒りや悲鳴のような黒いショック波をランダムに放出し、周囲の静かな海を激しく揺らしている。近付こうとする他のユーザーたちも、その衝撃波に弾き返されていた。


「入っちゃダメだ、あの人は誰の言葉も受け付けない!」

周りのユーザーたちが波紋で警告してくる。


だが、エポは足を止めなかった。

重い足を引きずっていた現実の感覚、社会から取り残されて「声」を失っていた頃の痛みが、胸の奥で疼いたからだ。


「ハル、あのショック波の周期を解析して」


『了解……と言いたいところですが! エポ、解析データによるとあの黒い結晶の内部温度は絶対零度、触れるとあなたのアバターの感覚データが永久凍結します! 至急、毛布と温かいココアを用意してください!』


「VRでココア探してる場合じゃないでしょ! 周期だけ教えて!」


『……ショック波の波長は、人間の「不規則な呼吸」と一致しています。彼は拒絶しているのではなく、苦しくて息ができないのです』


ハルのその言葉に、エポの目つきが変わった。


エポは衝撃波の隙間を縫い、青い海を力強く蹴った。冷たい衝撃がアバターの肌を削り、感覚フィードバックの痛みが走る。それでも、黒い結晶の真前まで泳ぎ切り、その冷徹な表面に両手を叩きつけた。


「カイさん!!」


言葉は届かない。だからエポは、思考を直接「波紋」に変えた。


(大丈夫。上手く話せなくていい。動かなくていい。僕も昔、自分の体と心が大嫌いだった。世界の全部が怖かった。でも、ここなら……この海なら、君の痛みをそのまま出しても誰も傷つかない!)


エポのアバターから、温かなクリスタルの光が放射され、黒い結晶を包み込んだ。

自分の傷口を開いて、相手の痛みに重ね合わせるような、必死の同調シンクロ


結晶の内部で、途切れ途切れの脳波が弾けた。


(……くらい……くるしい……なにも……できない……ボクは……いきてるのに……しんでいる……)


叫びだった。

声帯を通せない、指一本動かせない現実の肉体に閉じ込められた魂が、ずっとずっと上げ続けていた悲鳴。


「生きているよ!」

エポは叫び、結晶を強く抱きしめた。


「君の叫びは、こんなにも激しくて、こんなにも強い! それは死んでなんかいない、紛れもない『生きている証』だ!」


『エポ! 脳波同期率が限界値を突破! 二人の意識領域が融合します!』

耳元でハルが叫ぶ。


次の瞬間、黒い結晶がパキィンと音を立てて砕け散った。


暗闇の海に、眩いばかりの光が満ちていく。

砕けた結晶の破片は、何万匹もの光る「魚」の群れへと姿を変え、青い海を自由に泳ぎ回り始めた。その群れの中心にいたのは、光の糸で織られた繊細な人間型のアバターだった。


カイのアバターが、ゆっくりと目を開く。

彼は自分の手をかざし、周囲を泳ぐ光の魚たちを見つめた。カイの放っていた「悲鳴」は、空間を彩る「美しい世界の構築データ」へと変換されたのだ。


カイは言葉を発しなかった。ただ、一匹の光の魚をエポの手にそっと滑らせた。

魚が跳ねるたび、心地よいピアノの音が海に響く。それが、カイが生まれて初めて他人に送った「ありがとう」の歌だった。


『……カイ氏の脳波、極めて安定。脳内のセロトニン分泌を模したシグナルが検出されました』


海の表面へと浮上しながら、ハルが静かに報告した。


「よかった……カイさん、自分の『世界』を作れたね」


『はい。彼の構築した魚のデータは、このワールドの新しい生態系として定着しました。……エポ、私の計算では、言葉を持たない者ほど、内に秘めた感情の色彩は豊かなようです』


「そうだね。形や手段が違うだけで、みんな胸の中に『至高の魂』を持っているんだよ」


エポは手のひらで泳ぐ小さな光の魚を見つめ、微笑んだ。


マホロバの宙域には、まだまだ届かない叫びがたくさん沈んでいる。

言葉を持たない海の底で生まれた最初の歌を胸に、エポとハルは、次の救いを待つ魂のもとへと船を進めた。

明朝、8:10 に、投稿します。

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