第一話【 形なき光を探して 】
現実の肉体は、ただの重荷だった。
歪んだ背骨、引きずる右足、そして
鏡を見るたびに覚える胸の底からの不協和音。
自分を「男」と呼ぶことにも「女」と呼ぶことにも耐えられず、
社会のどこにも型が収まらない。
エポにとって、肉体とは呪いであり、檻そのものだった。
だが、VRゴーグルを装着し、周波数が同調した瞬間、その重力は消え去る。
『エポ、脳波同期率99.8%。「マホロバの宙域」への接続を完了しました。
……あ、ちなみに
現在の火星のオリンポス山山頂では、時速300キロの砂嵐が吹いています』
鼓膜のすぐ裏側から、少し気取った、けれど聞き慣れた声が響く。
耳の中に常駐する相棒AI、ハルだ。
「火星の天気予報はいいから、ハル。今日の目的地は?」
『了解です。本日の検索キーワードは「純粋な魂」。
データ収集の過程で、
ソーシャル層の最深部にある
プライベート・ワールド〈静寂の淵〉に、特異な存在が観測されました』
エポは、自分自身でデザインしたアバターの指先を見つめた。
透明度の高いクリスタルのような肌、
性別を感じさせないしなやかなシルエット。
現実の歪みをすべて削ぎ落とし、ただ「心」の輪郭だけを形にしたような姿。
エポが〈マホロバの宙域〉を旅する理由は、
単なる現実逃避や稼ぎのためだけではない。
肉体や属性、性別や社会的立場といった
「装飾」をすべて引き剥がした先に存在する、
人間の「純粋な魂」——
現実の歪みに汚されていない、至高の輝きを見つけ出すためだった。
自分自身が何者でもないからこそ、他者の「魂のありか」を確かめたかった。
ハルに誘導され、
幾重ものポータルをくぐり抜けた先にあったのは、光すらない黒銀の世界だった。
足元には静かな水面が広がり、一歩踏み出すごとに波紋が青く発光する。
『目的地に到着。あそこに座っているアバターが、該当のユーザーです』
水面の中央に、一つのアバターが佇んでいた。
それは人間ですらなく、
何千もの幾何学模様の光線が複雑に絡み合った、
正二十面体の塊のような姿をしていた。
微かに、ピアノの低音のような美しい環境音がその身体から漏れ出ている。
エポは波紋を立てながら、静かに近づいた。
「こんにちは」
光の幾何学体が、ゆっくりとこちらを向いた。
声は返ってこない。
代わりに、エポの視界に直接、
色彩の波動のような感情が流れ込んできた。
深い哀しみと、圧倒的な静けさ。
「あなたは……なぜ、その姿を選んだのですか?」
エポが尋ねると、空間に文字が浮かび上がった。
『現実の私は、病室のベッドから動くことができない。
声帯も失った。
けれどここでは、私の思考そのものが音楽になり、光になる。
私は「人間」という形すら捨てたときに初めて、
自分が生きていると実感できた』
その言葉に、エポの胸が強く締め付けられた。
肉体の不自由さ。言葉にできない孤独。
この正二十面体のアバターの内側で輝いているものは、
間違いなく、
現実のどんな肩書や容姿よりも美しく、研ぎ澄まされた「純粋な魂」だった。
「素晴らしいです……あなたの描く光は、とても温かい」
エポが手を伸ばすと、
相手も光の触手を伸ばし、二人のアバターの指先が触れ合った。
その瞬間、言葉を超えたお互いの「存在」がダイレクトに交差する。
性別も、障害も、何も関係ない。
ただ二つの魂が、広大なバーチャル空間の片隅で出会い、認め合った瞬間だった。
『エポ! 大変です!
相手のアバターから致死量の高電圧スパークが検出されました!
至急、相手の心臓に物理的マッサージを行ってください!』
突如、ハルが耳元で悲鳴を上げた。
「……えっ!? 物理マッサージ!?」
雰囲気が一変した。
パニックになったエポは、
正二十面体の光の塊に向かって、思い切り両手で突っ込んだ。
「大丈夫ですかーーーっ!?」
バツンッ!
と激しい効果音が響き、エポの手は光の塊を突き抜け、
そのまま水面に豪快にのめり込んだ。
全身バシャバシャに濡れるエポ。
光の塊が、呆れたようにパチパチと明滅した。
『……あ。申し訳ありません。
相手の感情データの波形を、
過去の医療ドラマの心肺停止データと誤認しました。
相手方は単に「感動していた」だけでした』
「ハーーーーールーーーーーっ!!」
頭まで仮想の水に浸かったエポは、耳の中の相棒に向かって叫んだ。
せっかくの至高の出会いが、台無しである。
光の塊は、クスクスと震えるような音を立てて笑い始めた。
言葉はなくとも、相手が心から面白がっているのが分かった。
『申し訳ありません、エポ。
お詫びに、私のメモリから最高級のクラシック音楽を……』
「もういいから黙ってて!」
その夜、水辺で光の塊——
自らを「ノン」と名乗った存在と、
何時間も言葉を交わした(正確には、光と音の対話だった)。
ノンは、現実の制約から解き放たれた、
エポにとって初めての「理解者」であり、
求める「純粋な魂」の欠片を持っていた。
「ハル、やっぱりこの旅は間違ってないよ」
ログアウト前、星空を見上げながらエポは呟いた。
『私はAIなので「魂」の定義は理解できませんが
……エポの心拍数が心地よいリズムを刻んでいることは分かります。
次の「至高の魂」を探しに行きましょう』
「うん。……あ、でも明日のトラブルは勘弁してね」
『善処します。ちなみに明日の「マホロバの宙域」の降水確率は……』
ハルの声を聴きながら、エポは静かに目を閉じた。
現実の身体は相変わらず重く不自由だったが、
エポの心は、すでに
次の「光」を探して広大な宙域へと飛び立っていた。




