プロローグ【 広大な海で見つけた小さな愛 】
冷たい雨が降る午後のアパート。
エポは狭いベッドの上で、自分の不揃いな指先を見つめていた。
鏡を見るのが嫌いだった。
重い足を引きずって歩く自分の姿も、周囲の視線も、
そして「男」とも「女」とも割り切れない自分自身の心と身体の違和感も、
すべてがエポを縛りつける重鎖だった。
『エポ、今日の外気圧は1013ヘクトパスカル。
そしてあなたの心拍数は少し高め。
……あ、ちなみに現在の月面基地の気温はマイナス130度です』
耳の奥、鼓膜のすぐそばから、少し気取った、けれど親しみやすい声が響く。
人工知能の相棒、ハルだ。
エポの耳の中に常駐する小さなデバイスを通して、脳波と直接対話している。
「月面基地の情報は要らないよ、ハル。今日は何の日だっけ?」
『失礼しました。
本日は、あなたが社会復帰のための第一歩を踏み出す日
……ソーシャルVR空間〈マホロバの宙域〉への本格入居日です』
エポは深呼吸をし、ベッドの脇にある最新型のVRヘッドセットを装着した。
視界が弾け、次の瞬間、エポは眩しい光の中に立っていた。
そこは、浮遊する巨大な都市。
自分の体を下で見下ろす。
そこには、歪んだ骨格も、引きずる足もなかった。
自分でモデリングし、ハルと一緒に色を塗った、細身でしなやかなアバター。
性別の概念をあえて曖昧にした、中性的な透明感のある姿だ。
『やあ、新しいエポ。似合っていますよ。
さて、まずは生きるための「糧」を得なければなりません。
事前にマッチングしておいたバイト先へ向かいましょう』
ハルの案内に導かれ、
エポは街の賑やかなカフェ「Starlight」へと歩みを進めた。
現実では叶わなかった「スムーズに走る」という感覚に、胸が熱くなる。
カフェの仕事は、アバターでの接客だった。
現実の容姿も性別も関係ない。
言葉と、空間での立ち振る舞いだけが評価される世界。
エポの繊細で、他人の痛みに敏感な性格
(現実では「気にしすぎ」と片付けられていたもの)は、
ここでは「極めて丁寧で細やかな接客」として客から大絶賛された。
「エポちゃん、いつも気が利くね」
「ありがとう、また来るよ!」
初めて自分の存在を丸ごと肯定された気がした。
エポはVR空間で稼いだトークン(通貨)を現実に換金し、
自立への手応えを感じ始めていた。
しかし、ハルは単なる「完璧なAI」ではない。
『エポ! 大変です!
カフェの厨房で重大なトラブルが発生しました!
至急、消火活動を行ってください!』
「えっ!? 火事!?」
ハルの焦った声にパニックになったエポは、
カフェのカウンター裏にあった消火スプレーを撒き散らした。
しかし、周囲の客や店長はポカンとしている。
「エポちゃん……何やってるの?
それ、新商品のプレミアムミルクだよ……」
『……あ。申し訳ありません。
最新のローカルニュースとグラフィックデータを誤認しました。
火災が発生していたのは、ここから3000キロ離れた物理世界の化学工場でした』
「ハルーーーッ!!」
ハルのハルシネーション(幻覚)だ。
たまに膨大なデータ処理の中で脈絡のないバグを起こし、
エポに突飛な行動をとらせて大失敗させる。
店長に頭を下げ、給料からミルク代を引き落とされたエポは、
仮想の路地裏でがっくりと膝をついた。
「もう……しっかりしてよ、ハル」
『申し訳ありません……責任を取って、私のメモリの3割を削除……』
「極端なんだよ! 消えないでよ、困るんだから」
ドジで、突拍子もない迷惑をかける。
けれど、現実世界で誰もエポの味方がいなかった時、
夜通しくだらない雑談に付き合ってくれたのはハルだった。
憎めない、唯一無二の相棒。
そんなトラブル続きの日々の中で、エポの運命を大きく変える出会いがあった。
ワールドの隅にある、静かな星空の広場。
そこでピアノを弾いていたアバター「レイ」だ。
レイの奏でる音色はどこか寂しく、けれど温かかった。
「素敵な曲ですね」と声をかけたことから、二人の距離は急速に縮まった。
レイもまた、現実世界に深い傷を抱えていた。
VRの中で語り合ううち、
エポは隠していた自分の複雑な性自認や、心と身体のギャップについて打ち明けた。
拒絶されるのが怖かった。
しかし、レイは優しく微笑んだ。
「エポが男でも、女でも、そのどちらでもなくても関係ないよ。
僕は、その揺らぎも含めた『エポ』という魂に惹かれてるんだから」
胸の奥が熱くなり、ボロボロと涙がこぼれた。
アバターの頬を濡らす光の粒子。
さらに、二人が通うバーのオーナーである「ルカ」も、
エポたちの関係を温かく包み込んでくれた。
包容力に満ちたルカと過ごすうちに、
エポとレイ、そしてルカの三人は、互いをかけがえのない存在として愛し合うようになった。
一対一に縛られない、
全員が尊重し合うポリアモリー(多重恋愛)のパートナーシップ。
従来の「普通」の枠組みに苦しんできたエポにとって、
それは呼吸がしやすく、これ以上なく愛おしい関係だった。
数年後。
エポはVR空間で3Dデザイナーとしての技術を身につけ、
レイやルカ、そしてハルと共に作った
「誰もが自分らしくいられる空間」を販売して、十分な収入を得ていた。
現実のアパートの部屋は、以前よりずっと明るい。
VRゴーグルを外したエポは、
不自由な足を少し痛ませながらも、車椅子を押して窓辺へ向かう。
「ハル、今日の天気は?」
『現実の東京は晴れ。気温24度。
……あ、ちなみに現在の木星の大赤斑では強烈な嵐が吹いています』
「またそれ? もう、本当に頼むよ」
エポは苦笑しながら、耳の中の相棒に語りかけた。
画面の向こうには、大好きなパートナーたちが待っている。
そして耳元には、少し抜けているけれど愛おしい相棒がいる。
コンプレックスだらけだった自分の人生は、
仮想空間という広大な海で見つけた小さな愛と、
確かな自分の足跡によって、鮮やかに彩られ始めていた。




