第八話 消えた写真
七月十九日、金曜日。午後四時半。
桜井ひかる、十四歳、二年A組。クラス委員で、写真係を、兼ねていた。
仕事は、簡単だった。行事の、たびに、写真を、撮って。現像して。みんなに、配る。ただ、それだけ。
でも、ひかるは。その仕事が、好きだった。
ひかるは、写真を、撮るのが、好きだった。誰かの、笑った、顔。何気ない、横顔。みんなが、忘れて、しまう、ような、一瞬を。切り取って、残す。それが、好きだった。
写真の中では。時間が、止まる。
みんなが、いつか、大人に、なって。バラバラに、なっても。写真の中の、みんなは。ずっと、十四歳の、ままで。笑って、いる。
それが、いい、と、ひかるは、思って、いた。
だから、ひかるは。全部、撮った。
五月の、体育祭。六月の、校外学習。七月の、文化発表会。古いカメラで。学校に、一台だけ、残って、いる、フィルムカメラで。デジタルでは、出ない、味が、出る、と、写真部の、顧問が、言うから。
*
その日。ひかるは、放課後の、暗室で。文化発表会の、写真を、現像して、いた。
昇降口の、奥に。古い、暗室が、ある。赤い、安全灯だけが、灯る、狭い、部屋。現像液の、酸っぱい、匂いが、こもって、いる。
ひかるは、印画紙を、現像液に、浸した。
ゆっくりと。
白い、紙の上に。像が、にじんで。浮かんで、きた。
最初に、現像したのは。クラスの、集合写真だった。文化発表会の、あと。舞台の、前で。みんなで、並んで、撮った、一枚。
像が、はっきりして、きた。
みんなの、顔が。並んで、いた。笑って、いる、顔。ピースを、している、手。
ひかるは、なんとなく、数えた。
一、二、三……
三十四人。
全員の、顔が。はっきりと、映って、いた。誰が、誰だか。全部、わかった。
でも。
二年A組は。三十五人。
一人。
足りなかった。
*
ひかるは。写真を、見て。誰が、いないのか、確かめようと、した。
青木。石田。井上。順番に、顔を、確認して、いった。
全員、いた。
ひかるが、思い浮かべる、クラスメイト全員が。写真の中に、いた。
なのに。数えると、三十四人。一人、足りない。
誰が、いないのかが。
わからなかった。
いないはずの、その一人を。ひかるは、どうしても、思い出せなかった。顔も。名前も。
最初から、その席は、なかった、ような。最初から、三十四人だった、ような。
でも、ひかるは、知って、いた。クラスは、三十五人。出席番号は、三十五番まで、ある。
写真だけが。
一人、足りない。
その、足りない一人は。きっと、誰よりも。たくさん、写真に、写ってきた、子だ。そんな、気が、した。理由は、わからない。ただ、そう、思った。
*
ひかるは。ぞっと、して。次の、写真を、現像した。
廊下を、歩く、生徒を、撮った、一枚。文化発表会の、準備中。忙しく、行き交う、みんなを、撮った、中の、一枚。
像が、浮かんで、きた。
廊下。窓。差し込む、光。
でも。
そこに、いるはずの、生徒が。
いなかった。
ひかるは、確かに、その生徒を、撮った。覚えて、いる。荷物を、抱えて、廊下を、歩いて、いた、男子。シャッターを、切った。
なのに、写真には。その男子が。いなかった。
ただ。
壁に。
影だけが。残って、いた。
人の、形を、した、影。
でも。その、影の、角度が。おかしかった。
*
光は。右手の、窓から、差して、いた。だから、影は。左に、伸びる、はず、だった。
なのに。壁の、影は。正面を、向いて、立って、いた。
光の、方向と。合わない、影。
その男子の、影では、なかった。もっと、別の。どこか、違う場所の、光で、できた、影が。その男子の、いた、場所に。残って、いた。
まるで。その男子の、姿だけが。写真から、抜き取られて。代わりに。その人の、「影」だけが。別の、どこかから。貼りつけられた、ように。
ひかるは。手が、震えた。
現像液の、中で。印画紙が、揺れた。
ふと。ひかるは、暗室の、壁を、見た。
赤い、安全灯が。ひかるの、影を。壁に、映して、いた。
ひかるは、印画紙を、トングで、つまんで、いた。
でも。壁の、影は。
両手を、だらりと、下げて。立って、いた。
ひかるの、動きと。合って、いなかった。
ひかるが、手を、動かしても。壁の、影は、動かずに。ただ、まっすぐ、立って。こちらを、見て、いる、ようだった。
ひかるの、影が。
ひかるより、先に。本体から、離れ、始めて、いた。
*
ひかるは。さっき、現像した、写真を。もう一度、見た。
廊下の、男子が、消えて。壁に、影だけが、残った、写真。
その、影が。
さっきと。
向きが、違って、いた。
さっきは。正面を、向いて、いた、はずの、影が。今は。ほんの少し。こちらに。暗室の、ひかるの方に。顔を、向けて、いた。
写真の、中の、影が。
動いて、いた。
ひかるは、ほかの、写真も、見た。人が、消えて、影だけに、なった、写真。
どの、影も。
最初に、見た、ときと。少しずつ。向きが、変わって、いた。
みんな。こちらを。写真の、外に、いる、ひかるを。見ようと、して、いた。
まるで。写真の、中から。「次は、お前だ」と。言うように。
赤い、安全灯が。じ、と、瞬いた。
ひかるは。震える手で。写真を、伏せた。
*
ひかるは。撮った、写真を、全部、現像した。
体育祭。校外学習。文化発表会。古い、ものから。新しい、ものへ。順番に。
現像する、ほど。わかって、きた。
古い、写真ほど。みんな、ちゃんと、映って、いた。五月の、体育祭の、写真は。全員、笑って、写って、いた。
でも。
新しい、写真ほど。
人が、消えて、いた。
六月の、写真では、一人、二人。七月の、写真では、もっと、たくさん。消えた人の、いた、場所に。壁に、地面に。角度の、合わない、影だけが。残って、いた。
撮れば、撮るほど。
写った人が。写真から、消えて、いく。
まるで、写真が。撮った人の、姿を。少しずつ。吸い取って、いる、ように。
ひかるは。一枚の、写真で。手を、止めた。
仲の、いい、友達の、美月を、撮った、一枚。校外学習の、バスの中。窓際の、席で、笑って、いた、はずの、写真。
その、写真に。
美月が、いなかった。
座席に。誰も、座って、いなかった。ただ、窓ガラスに。ぼんやりと。人の、形の、影が。映って、いた。バスの、外を、流れる、景色に。重なるように。
ひかるは。慌てて、美月のことを、思い出そうと、した。
大丈夫だった。覚えて、いた。美月。よく、笑う子。お弁当の、卵焼きを、半分、くれる子。手紙に、いつも、猫の、絵を、描く子。
でも。
その、笑い声を。思い出そうと、すると。
少し。遠かった。
まるで、水の中で、聞くように。ぼやけて、いた。
ひかるは。ぞっと、した。
わたしが、撮ったから。美月は、写真から、消えた。わたしの、撮った、写真が。美月の、姿を。少しずつ。吸い取って、しまった。
好きで。たくさん、撮った。仲が、いいから。何枚も、何枚も。
その、たびに。
美月を。消して、いたのだ。
そして。いちばん、新しい、写真。文化発表会の、当日に。誰かが、ひかるを、撮った、一枚。ひかるが、カメラを、構えて、いる、姿。
その、写真には。
ひかるが。
いなかった。
*
ひかるの、いた、場所に。
壁に。影だけが。残って、いた。
ひかるの、影だった。カメラを、構えた、形の。
でも、その、影の、角度も。その場の、光とは。合って、いなかった。
ひかるは。写真から。消えて、いた。
影だけ。残して。
ひかるは。自分の、手を、見た。ある。ここに、ある。指も、動く。
鏡を、見た。映る。ちゃんと、映る。いつもの、自分の、顔。
でも。
写真には。もう、映らない。
ひかるは。気づいた。
あの、集合写真の。足りなかった、一人。
あれは、たぶん。これまで、いちばん、たくさん。写真を、撮られて、きた、誰か。撮られすぎて。姿だけで、なく。影さえ、残らないほど。完全に、消えて、しまった、誰か。
だから、誰も、思い出せない。
そして。次に、消えるのは。
いちばん、たくさん、写真を、撮って。自分も、撮られて、きた。
写真係の、ひかる、自身、だった。
*
ひかるは。暗室を、出て。同じ、写真係の。真帆を、探した。
真帆も、よく、写真を、撮る子だった。一年の、ころから、ずっと。ひかると、二人で。学校の、行事の、写真を、撮って、きた。
ひかるは、真帆に。現像した、写真を、見せた。
「真帆。わたし、写真に、写らなく、なった。影だけ」
真帆は。その写真を、じっと、見て。
静かに、言った。
「うん。わたしも、そうだよ」
「もう、ずっと前から。現像すると、わたしは、消えてる。影だけが、残る」
ひかるは、驚いた。
「いつから? なんで、言わなかったの」
「言っても。誰も、信じないでしょ」と、真帆は、笑った。「それに。気づいたら。もう、こうなってた」
「怖く、ないの」
真帆は。少し、考えて。
「最初は、怖かった。でも、今は。それでいい、って、思ってる」
*
「影は、残るから」と、真帆は、言った。
「写真の中に。わたしの、影は。ちゃんと、残る。だから。完全に、いなくなった、わけじゃ、ない」
「みんなが、いつか。この写真を、見て。『この影、誰だろう』って、思ってくれたら。それで、いい」
「姿は、消えても。影が、残れば。わたしが、いたことは。残る」
ひかるは。真帆の、顔を、見た。
真帆は。今、ここに、いる。手も、ある。声も、する。笑って、いる。
でも。写真には、もう、映らない。影だけ。
真帆は。それを。受け入れて、いた。
ひかるには。まだ。受け入れられ、なかった。
消えたく、なかった。みんなの、記憶から。みんなの、写真から。
でも。
ひかるは。写真係を。やめられなかった。
行事が、あれば。撮らなきゃ、いけない。みんなの、笑顔を。残さなきゃ、いけない。
撮る、たびに。自分が、薄くなって、いく、と、知って、いても。
ひかるは。最後に。自分のことを。一枚だけ、撮った。
暗室の、鏡に、向けて。鏡に、映った、自分を。古い、カメラで。
現像した。
そこには。カメラを、構えた、ひかるの。姿は、なかった。
ただ。鏡の中に。ひかるの、影だけが。立って、いた。カメラを、構えた、形の。影。
その、影の、足元に。小さく。文字が、写って、いた。ひかるの、字では、ない、文字。
「ここにいたよ」
ひかるは。その写真を。卒業アルバムの、いちばん、最後の、ページに。そっと、貼った。
いつか。誰かが。この、影を、見て。「これ、誰だろう」と。思って、くれるように。
真帆の、言った、とおりに。
姿は、消えても。影が、残れば。いたことは、残る。
それが。ひかるに、できる。たった一つの。抵抗、だった。
*
この記録を作成したのは、柴田静流である。
桜井ひかると、真帆から、話を聞いた。
ひかるは、今も。写真を、撮り続けて、いる。写真係だから。行事の、たびに、撮る。現像すると。ひかるは、もう、写らない。影だけが、残る。それでも。ひかるは、撮るのを、やめない。
真帆も、撮り続けて、いる。「それでいい」と、言いながら。
わたしは、一つだけ、確かめた。
「写真から、消えても。鏡には、映る。手も、ある」
「うん」と、ひかるは、言った。「まだ、ここには、いる。でも、写真には、いない。影だけ」
わたしは、ノートに、書いた。「消えた写真。撮るほど、写った人が写真から消え、角度の合わない影だけが残る。撮り続ける本人も消える。鏡や現実にはまだいるが、写真には影だけが残る。撮られ続けると、影さえ残らず、誰の記憶からも消える」
*
わたしは、こう、考えて、いる。
昔から、言われて、きた。写真を、撮られると。魂を、抜かれる、と。
カメラが、この国に、来た、ばかりの、ころ。多くの人が、写真を、こわがった。撮られると、魂が、紙に、移って。少しずつ、寿命が、縮む、と、信じた。
迷信だ、と。今の人は、笑う。
でも、影見町では。
それが。本当だった。
撮るほど。撮られるほど。その人の、姿が。紙に、移って。本体から、薄れて、いく。
最後に、残るのは。影、だけ。
この町では、影は。その人の、存在の、いちばん、芯の、部分だった。第一話の、颯太のように。姿が、消えても。影だけは。最後まで、踏みとどまる。
でも。撮られすぎれば。
その、影さえ。紙に、移って。消えて、しまう。
影さえ、なくなったら。
もう、誰も。その人を、思い出せない。
集合写真の、足りない一人は。きっと、そういう、子だった。みんなに、好かれて。いつも、輪の、中心に、いて。だから、誰よりも、たくさん、カメラを、向けられた、子。
愛されたぶん。撮られたぶん。
消えて、しまった。
*
追記。
わたしは、その、足りない一人を。探そうと、した。
二年A組の、名簿は、三十五人。でも、写真は、三十四人。誰が、消えたのか。誰も、思い出せない。
わたしは、卒業した、先輩や。先生に。聞いて、回った。
一人だけ。
古い、先生が。ぽつりと、言った。
「そういえば……二年A組に。いつも、写真を、撮られてた、女の子が、いた、ような。人気者で。アルバム係が、何枚も、撮ってた。名前は……思い出せないが」
「あの子。卒業アルバムの、個人写真の、ページだけ。一人分、空白に、なってた、んだ。名前も。写真も。ないのに。番号だけ、飛んでた」
「不思議に、思って。でも、すぐ。どうでも、よくなった。忘れて、しまった」
名前も、顔も、ない。
ただ、アルバムの。空白の、四角と。飛んだ、番号だけが。
その子が、いた、ことの。たった一つの。証拠だった。
*
この、第八話を、書き終えた夜。
わたしは、自分の、机の、上を、見た。
わたしは、写真を、撮らない。でも、毎日。こうして、記録を、書いて、いる。
ふと、思った。
写真が。撮った人の、姿を、吸い取って、いくなら。
わたしの、書く、記録は。どうなのだろう。
わたしは、毎日。誰かの、体験を。名前を。ノートに、書いて、いる。
書かれた、人は。
大丈夫、だろうか。
写真みたいに。文字に、何かを。吸い取られて。いないだろうか。
わたしは、自分の、ノートを、見た。
たくさんの、名前。たくさんの、夜の、話。
わたしは、その、最後の、ページに。自分の、名前を。書いてみよう、と、して。
やめた。
もし、書いた、わたしの、名前が。薄く、なって、いたら。
こわい、から。
*
この記録を読んでいる、あなたへ。
もし、あなたが。写真に、写らなく、なったら。
現像した、写真や。撮って、もらった、写真に。あなたが、いなくて。壁や、地面に。角度の、合わない、影だけが、残って、いたら。
それは、あなたの、姿が。少しずつ、紙に、移って、いる、しるしだ。
もう、これ以上。撮られないで、ほしい。
行事でも。記念でも。卒業でも。カメラを、向けられたら。少し、避けて、ほしい。列の、端に、いて。顔を、半分、隠して。
影だけに、なる、前に。
影さえ、残らなく、なる、前に。
真帆は、「それでいい」と、言った。影が、残るなら。いなくなった、わけじゃ、ない、と。
それも。一つの、答えかも、しれない。
でも、わたしは。あなたに。影だけに、なって、ほしく、ない。
ちゃんと、写って、ほしい。
みんなと、一緒に。笑って。姿のまま。残って、ほしい。
だから。あなたを、いちばん、たくさん、撮りたがる人がいたら。
少しだけ。気を、つけて、ほしい。
愛されることが。
あなたを、消して、しまう、ことも。あるから。
──第八話 消えた写真 了──




