第七話 山のトンネル
影見町の、北側に、山がある。
その山の、裾を、抜けるように。古い、トンネルが、一本、通っている。
全長、二百四十メートル。
中の、照明は、半分以上が、切れていて。昼でも、薄暗い。車が、一台、やっと、通れるくらいの、幅しか、ない。歩道は、ついて、いない。壁には、何十年ぶんもの、排気ガスの、すすが、こびりついて、黒ずんで、いる。
通り抜けの、近道として、使う生徒は。ほとんど、いない。
わざわざ、あんな、薄暗くて、じめじめした、トンネルを、通らなくても。少し、遠回りすれば、明るい、大通りが、ある。だから、みんな、大通りを、通る。
でも。
黒沢光樹、十四歳、二年C組は。
毎日、その、トンネルを、通って、帰っていた。
*
光樹が、その道を、選ぶ、理由を。
友達に、聞かれても。うまく、答えられなかった。
ただ、好きだった。
トンネルの、中は、夏でも、ひんやりと、して、いた。外が、どれだけ、暑くても。一歩、入ると、汗が、すっと、引いた。
光樹の、足音が。こつ、こつ、と、響いた。コンクリートの、壁に、跳ね返って。何重にも、重なって。まるで、自分の、後ろを。何人もの、誰かが、ついて、歩いて、いるように、聞こえた。
小さい、ころ。光樹は、その、反響が、面白くて。よく、大きな声を、出した。「あー」と、言うと。「あー、あー、あー」と、返ってきた。
今でも、たまに、やる。
暗い、トンネルの、真ん中で。小さく、「ただいま」と、言ってみる。
すると。「ただいま、ただいま」と。誰かが、返してくれる、気が、する。
切れかけた、照明が。じ、じ、と、点滅する。その、薄暗い中を、歩くのが。光樹は、好きだった。
前を、見ると。遠くに。出口の、小さな、丸い、光が、見える。その、白い、光に、向かって、歩く。だんだん、大きく、なる。やがて、外に、出る。
トンネルの、向こうは。隣の、地区に、通じている。出口を、出ると。古い、住宅が、並ぶ、道に、出る。右手に、駐車場。左手に、生け垣の、ある、家。郵便ポスト。曲がり角の、自販機。いつも、同じ、景色。
光樹は、その、いつもの、景色を、見ると。ほっと、した。
今日も、ちゃんと、帰ってきた。そんな、気が、した。
*
九月の、ある日。
夕方だった。
その日は、部活で、遅くなって。トンネルに、入ったのは。日が、半分、暮れかけた、ころだった。
空は、赤から、紫に、変わりかけて、いた。
いつものように。光樹は、薄暗い、トンネルを、歩いた。
足音が、響いた。照明が、点滅した。
光樹は、いつもの、癖で。小さく、「ただいま」と、言ってみた。
返事が。
なかった。
あれ、と、思った。いつもなら、「ただいま、ただいま」と、反響が、返ってくる、のに。その日は。一回も、跳ね返って、こなかった。
光樹の、声が。トンネルの、暗がりに。吸い込まれて。消えた。
少し、気味が、悪くなって。光樹は、足を、速めた。
前を、見ると。出口の、小さな、光。
その、光に、向かって、歩いた。だんだん、大きく、なった。
外に、出た。
光樹は。
足を、止めた。
*
景色が。
違った。
いつもなら。古い、住宅が、並ぶ、道。右手に、駐車場。左手に、生け垣。郵便ポスト。
なのに。
目の前に、あったのは。
空き地、だった。
草の、生い茂った、空き地。家は、一軒も、なかった。
正面に。電柱が、一本、立って、いた。
それだけ。住宅も、駐車場も、生け垣も、ポストも。何も、なかった。ただ、空き地と、電柱。そして、その先に、続く、暗い、道。
人の、気配は、なかった。車の、音も。犬の、鳴き声も。虫の、声さえ。何も、しなかった。
風も、なかった。
空き地の、草は。一本も、揺れずに。絵に、描いたように、止まって、いた。
電柱の、影が。地面に、長く、伸びて、いた。
でも。
光が、どこからも、差して、いなかった。空は、薄暗く。太陽も、月も、街灯も、なかった。
なのに、電柱の、影だけが。くっきりと。地面に、落ちて、いた。
その、影の、伸びる、先に。
光樹が、立って、いた。
*
光樹は。出口を、間違えた、のかと、思った。
でも、トンネルは、一本道だった。途中に、分かれ道は、なかった。まっすぐ、歩いて。まっすぐ、出た。
なのに。知らない、景色に、出た。
いや。
知らない、わけでは、なかった。
よく、見ると。空き地の、向こうに、かすかに、見える、町の、輪郭。電柱の、形。遠くの、山の、稜線。
それは。光樹の、知っている、町に。よく、似て、いた。
ただ。家が、なかった。人が、いなかった。
まるで。光樹の、町から。家と、人だけを。そっくり、抜き取った、ような。
あるいは。これから、家が、建つ、前の。あるいは、家が、すべて、消えた、後の。影見町。
光樹の、背中に。冷たいものが、走った。
ここは。いつもの、町じゃ、ない。
よく、似た。でも、違う。どこか、別の、場所。
トンネルを、抜けた、先が。違う、場所に、なって、いた。
*
光樹は。
その、空き地の方へ。一歩、踏み出した。
足の裏で。じゃり、と。乾いた、土の、感触が、した。
二歩。三歩。
空き地に、入って、いった。
近づくと。正面の、電柱に。何か、貼って、あるのが、見えた。
古い、紙。ぼろぼろの、貼り紙。
光樹は、それを、読もうと、して。
読めなかった。
文字は、あった。でも、にじんで。かすれて。どこの、国の、言葉でも、ない、ような。見たことの、ない、文字が、並んで、いた。
その、貼り紙を、見て、いると。
頭の、奥が。ぼうっと、して、きた。
このまま、この道を、進めば。きっと、家に、着く。違う町でも。歩いて、いけば。どこか、知っている、場所に、出る。そんな、気が、して、きた。
光樹は、空き地の、向こうの、暗い道に。目を、凝らした。
ずっと、先に。一軒だけ。家が、建って、いた。
見覚えの、ある、家だった。
光樹の、家だった。
形も。色も。門の、位置も。庭に、植わった、木の、形も。全部、光樹の、家と、同じだった。
でも。
窓に、明かりが、なかった。
そして。玄関の、ドアが。
なかった。
ドアの、あるべき場所が。のっぺりと。ただの、壁に、なって、いた。入り口の、ない、家。
光樹は。あの家に、帰りたい、と、一瞬、思った。
同時に。
あれは、自分の、家じゃ、ない、と。体の、奥が、叫んだ。
あの、入り口の、ない、家に。もし、どこかから、入って、しまったら。二度と、出て、こられない。
あれは。光樹を、おびき寄せる、ための。にせの、家だ。
光樹の、足が。それでも。ふらりと。さらに、前へ。進もうと、した。
その、とき。
光樹は、ふと。自分の、影を、見た。
*
光樹の、影は。
なかった。
さっき、電柱の、影は、あったのに。
光樹自身の、影は。地面に、落ちて、いなかった。
まるで、この、町に。光樹は。「いない」ことに、なって、いる、ように。
光樹は、ぞっと、した。
ここに、いては、いけない。
この先に、進んだら。光樹も。電柱や、空き地と、同じに、なる。この、人の、いない町の。一部に、なる。影も、なく。
光樹は。
後ろを、振り返った。
トンネルの、出口が、あった。さっき、自分が、出てきた、穴。その、向こうに。暗い、トンネルが、続いて、いた。
光樹は。
踵を、返して。トンネルに、向かって、走った。
空き地の、土を。じゃり、じゃり、と、蹴って。
*
トンネルに、駆け込んだ。
また、薄暗い、中を、走った。足音が、響いた。今度は。「だれだ、だれだ、だれだ」と。反響が、追いかけて、くるように、聞こえた。
光樹は、振り返らずに。反対側の、出口の、光に、向かって。走った。
光が、大きく、なった。
外に、出た。
そこは。
学校側の、入り口だった。光樹が、さっき、トンネルに、入った、側。
見慣れた、景色。街灯。家々の、窓の、明かり。遠くで、犬が、吠えた。バイクの、音が、通り過ぎた。どこかの、家から、夕飯の、匂いが、した。
いつもの、影見町だった。
光樹は。その場に、しゃがみ込んだ。
足元に。
自分の、影が。街灯の、明かりで。ちゃんと、伸びて、いた。
光樹は。それを、見て。ようやく、息を、ついた。
*
光樹は。その日。
トンネルを、通らずに。大通りを、遠回りして、帰った。
二度と、あの、トンネルを、通りたく、なかった。
でも。
次の日。光樹は、また。トンネルを、通って、帰った。
好きだったから。やめられなかった。
その日は。出口の、向こうは。いつもの、住宅街だった。右手に、駐車場。左手に、生け垣。ポスト。自販機。何も、変わって、いなかった。
光樹は、ほっと、した。
でも、それから。
月に、一度くらい。
トンネルを、抜けると。向こうが。あの、空き地と、電柱の、町に。なって、いることが、ある。
そういう日は。光樹は。出口の、手前で、立ち止まって。外の、景色を、確かめる。
空き地と、電柱が、見えたら。決して、外に、出ない。引き返して。反対側に、戻る。
*
この記録を作成したのは、柴田静流である。
黒沢光樹から、直接、話を聞いた。
光樹は、今も。トンネルを、通って、帰っている。好きだから。
ただ、出口の、向こうの、景色を。必ず、出る前に、確かめる。空き地と、電柱が、見えたら。引き返す。
わたしは、一つだけ、確かめた。
「向こうが、違う町に、なって、いたとき。進まずに、引き返した。それで、戻れた」
「うん」と、光樹は、言った。「進んだら、帰れない、気がした。自分の、影が、なかったから。あの町には、ぼくは、いないことに、なってた。だから、トンネルを、引き返して。反対側に、出た。そしたら、いつもの、町だった」
わたしは、ノートに、書いた。「山のトンネル。日暮れに抜けると、家も人もない別の町に出ることがある。その町では自分の影がない。進めば帰れない。引き返してトンネルを戻れば、元の側に出られる」
*
わたしは、その、トンネルのことを、調べた。
影見町の、北側の、山に、掘られた、トンネル。その山には。影見神社が、ある。
北の、山。古より、影が、宿るとされた、山。世の、境が、ゆらぐ、場所。
トンネルは。その、山を。まっすぐ、貫いて、いた。
古い、記録に、よれば。トンネルの、工事は、難航した、という。何度も、落盤が、あった。掘っても、掘っても。朝に、なると、土が、元に、戻って、いる、ことが、あった。作業員が、何人か。トンネルの中で。行方不明に、なった。
そして、こんな、一節が、あった。
「北山を貫くは、世の境を貫くなり。穴の向こう、必ずしも此の世に通ぜず。日暮れて抜くるべからず。抜けし者、影を失ふことあり」
北の、山を、貫くのは。この世と、あの世の、境を、貫くこと。穴の、向こうは。必ずしも、この世には、通じない。日が、暮れてから、抜けては、ならない。抜けた者は。影を、失う、ことが、ある。
わたしは、その、工事の、記録を、もう少し、追った。
当時、工事に、関わった、作業員の、一人が。年を、とってから、語った、話が。地元の、郷土資料に、残って、いた。
その人は、こう、言った、という。
「トンネルが、半分ほど、掘れた、ころだ。向こう側から、風が、吹いてくるように、なった。妙に、冷たい、風だった。土の、匂いの、しない、風だ」
「ある夜。仲間の、一人が。掘りかけの、穴の、向こうに。人影を、見た、と、言った。掘ってる、先は、まだ、山の、中で。誰も、いるはずが、ない。なのに、向こうから。こっちを、見てる、やつが、いた、と」
「その、次の朝。その、仲間が。いなく、なった。穴の、奥で、見つかった、のは。そいつの、つるはしと。手ぬぐいだけ、だった」
「俺たちは、怖くなって。坑口に、地蔵を、立てて。お神酒を、上げて。それから、掘った。日が、暮れたら、絶対に、中に、残らない。そう、決めて」
その、地蔵は。今は、もう、ない。トンネルが、舗装される、ときに。どこかへ、移された、らしい。
守りが、なくなった、トンネルは。
また、向こう側に。口を、開け、始めた。
*
形は、変わった。
山を、越える、細い、峠道が。山を、貫く、トンネルに。
けれど、中身は、変わらない。
北の、山は。昔から。世の、境だった。
その山を、貫いた、トンネルは。時々。この世では、ない、向こう側に。通じて、しまう。
特に。日が、暮れた、あと。逢魔が時に。
抜けると。家も、人も、ない。よく似た、別の、町に、出る。
そして、その町では。
抜けてきた、人間の、影が。なくなる。
影が、なくなるのは。その町に、属して、しまった、しるし。第一話の、颯太のように。この町では、影は、その人の、存在の、一部だから。
影を、なくした、まま。その町を、歩き、続ければ。
もう、こちら側には、戻れない。
昔の人は。日が、暮れてから。山を、越えなかった。峠を、避けた。
光樹は。日が、暮れてから。トンネルを、抜けて、しまった。
好きだったから。
*
追記。
わたしは、過去に、あのトンネルで、おかしなことが、なかったか、調べた。
数年前。一人の、男性が。夜、あのトンネルを、自転車で、抜けて。それきり、帰って、こなかった、という。
自転車だけが。トンネルの、出口の、あたりに。倒れて、いた。
でも、男性は。どこにも、いなかった。
警察は、川や、山を、捜した。見つからなかった。
わたしは、思う。
その人は、たぶん。日が、暮れてから。トンネルを、抜けて。向こう側の、町に、出て。
そして、引き返さずに。進んで、しまったのだ。
あの、空き地と、電柱の、町を。家に、帰れると、信じて。歩いて、いった。
影を、なくした、まま。
今も、あの町を。
歩いて、いるのかも、しれない。出口の、ない、知らない町を。ずっと。
*
この、第七話を、書き終えた夜。
わたしは、ふと、思った。
わたしたちは。毎日、たくさんの、「いつもの道」を、通る。同じ、通学路。同じ、トンネル。同じ、曲がり角。
何も、考えずに。歩いて、いる。
でも。
その、いつもの道の、出口が。ある日、突然。いつもと、違う、景色に、なって、いたら。
わたしは。気づけるだろうか。
それとも。「気のせいだ」と。そのまま、進んで、しまうだろうか。
光樹は、気づけた。自分の、影が、ないことに。
だから、引き返せた。
わたしも。これから。トンネルを、抜けたら。一度、足元を、見ようと、思う。
影が、あるか。確かめようと、思う。
*
この記録を読んでいる、あなたへ。
もし、あなたが。長い、薄暗い、トンネルを。一人で、抜けるとき。特に、日が、暮れた、あとに。
出口の、光に、向かって、歩いて。外に、出たとき。
その景色が。いつもと、違って、いたら。
知っているはずの、家が、なくて。人の、気配が、なくて。ただ、空き地と、電柱だけが、あって。風も、音も、なかったら。
その先へ。進まないで、ほしい。
どんなに、家が、すぐ、そこの、はずでも。どんなに、頭の中で、「歩いていけば着く」という、声が、しても。
その前に。
自分の、足元を、見て、ほしい。
影が。あるか。
もし、影が、なかったら。
あなたは、もう。半分、その町の、ものに、なりかけて、いる。
引き返して、ほしい。トンネルの、中へ。もう一度、戻って。反対側の、出口へ、歩いて、ほしい。
トンネルは。向こう側への、入り口だ。
でも、引き返せば。まだ、こちら側に。戻れる。
日が、暮れたら。知らない、トンネルは。
抜けない方が、いい。
そして。もし、その、知らない町の、向こうに。
あなたの、家に、そっくりな、家が、建って、いても。
近づかないで、ほしい。
窓に、明かりが、なくて。玄関の、ドアが、なかったら。
それは、あなたの、家では、ない。
あなたを、中に、引き込む、ための。にせものだ。
本当の、家は。あなたが、引き返した、トンネルの。こちら側に、ある。
明かりの、ついた、窓が。ちゃんと、ドアの、ある、家が。
あなたの、帰りを、待って、いる。
だから、振り返って。
来た道を。トンネルを。
戻って、ほしい。
──第七話 山のトンネル 了──




