第六話 深淵のスマホ
五月十五日、水曜日。午後八時。
松永葵、十四歳、二年B組。自分の部屋で、新しいスマホを、いじっていた。
前の、スマホが、壊れた。落として、画面が、割れて、電源も、入らなくなった。新しいのを、買う、お金は、なかった。親に、言っても、「すぐ壊すんだから」と、渋い顔を、される。だから、葵は、自分の、お小遣いで、中古を、買うことに、した。
フリマアプリで、見つけた。同じ機種。三千円。
「画面きれい、動作問題なし、初期化済み」という、説明だった。出品者の、評価も、悪くなかった。写真でも、確かに、画面は、きれいだった。葵は、迷わず、即決した。
翌日、届いた。
説明の、とおりだった。画面は、きれいで。動作も、さくさくと、軽い。バッテリーの、もちも、いい。
ただ、一つだけ。
初期化済み、のはずなのに。
アプリが、一つ、入っていた。
*
葵は、ホーム画面を、見た。
最初から、入っている、はずの、アプリ。電話。メッセージ。ブラウザ。カメラ。地図。
その並びの、いちばん端に、一つ。
見慣れない、アイコンが、あった。
黒い、四角の、アイコン。何の、絵も、ない。ただ、黒い、四角。
その下に、名前が、あった。
逆さまの、ような、読めない、文字。
「AREMAC」
葵は、しばらく、考えて。最後の、二文字から、逆に、読んでみた。
CAMERA。
カメラ、を。逆さに、した、名前。
初期化したなら、消えている、はずの、アプリ。なのに、これだけ、残っていた。
葵は、それを、削除しようと、した。
アイコンを、長押し。メニューが、出た。でも、そこに、「削除」も、「アンインストール」も、なかった。ほかの、アプリには、ある、はずの、項目が。このアプリだけ、なかった。
消せなかった。
葵は、少し、気味が、悪くなって。とりあえず、いちばん端の、いちばん端へ。指で、追いやった。
見なければ、いい。
そう、思った。
*
でも、その夜。
布団に、入ってから。葵は、結局、それを、開いた。
何の、アプリなのか。気になって、眠れなかった。
タップすると。普通の、カメラと、同じ、撮影画面が、出た。切り替えの、ボタン。シャッター。タイマー。フラッシュ。何も、変わった、ところは、なかった。
なんだ、ただのカメラか、と、葵は、思った。
試しに。暗い、部屋の、窓を、撮った。
ぱしゃ、と、シャッター音。
画像を、確認した。ただの、夜の、窓だった。カーテンの、隙間。外の、闇。普通に、撮れていた。
葵は、拍子抜けして。アプリを、閉じた。
前の、持ち主が、入れた、無料の、カメラアプリ。それが、消し忘れられた、だけ。きっと、そういう、ことだ。
葵は、そう、結論づけて。明日、学校で、もう一度だけ、使ってみることに、して。眠った。
*
翌日。教室で。
葵は、そのアプリで、クラスメイトを、撮った。
前の席の、女の子が、机に、突っ伏して、寝ていた。一時間目の、前の、休み時間。よくある、光景。葵は、からかうつもりで。こっそり、その、寝顔を、撮った。
ぱしゃ。
画像を、確認して。
葵は、息を、止めた。
写っていたのは。教室では、なかった。
夜の、海だった。
暗い、波打ち際。その女の子が、一人で、立って。沖の方を、見ていた。教室で、机に、突っ伏して、寝ている、はずの子が。写真の中では。冷たそうな、夜の、海に、立っていた。
葵は、もう一度、その子を、見た。机で、寝ている。普通に。寝息を、立てて。
でも、写真の中では。
海に、いた。
*
葵は。混乱しながらも。ほかの、生徒も、撮ってみた。
休み時間。廊下を、歩いている、男子を、撮った。写真では、その男子は、廊下では、なく。知らない、古い、和室に、正座して、いた。
窓際で、ぼんやり、外を、見ている、女子を、撮った。写真では、その子は、見渡す、限りの、ひまわり畑の、真ん中に、立っていた。
授業中。当てられないように、うつむいている、男子を、撮った。写真では、その子は、真っ暗な、水の中に、沈んで、いた。目を、つむって。沈んで、いく、ところだった。
葵は、ようやく、理解した。
このアプリは。
撮った人が、今、心の、奥で、見ている、もの――夢を。写す。
寝ている子は、海の、夢を。退屈そうな、子は、ひまわりの、夢を。うつむいた、子は、暗い、水の、夢を。
口では、言わない。本人さえ、気づいて、いない。その人の、いちばん、深いところ。
深淵を。
覗き込む、カメラ。
*
それから、葵は。夢中に、なった。
休み時間の、たびに。授業中も、こっそり。いろんな人を、撮った。撮るたびに、その人の、夢が、写った。
いつも、明るく、笑っている、人気者の、男子は。写真の中では、一人きりで、誰も、いない、教室に、座って、いた。
優しくて、みんなに、好かれている、先生は。写真の中では、知らない、女の人の、墓の、前に、立って、うつむいて、いた。
仲の、いい、友達は。写真の中では。葵に、背を、向けて。どこか、遠くへ、歩いて、行こうと、して、いた。
みんな、表では、見せない、顔を。心の、奥に、持って、いた。
葵は、それを、覗くのが。やめられなく、なった。
人の、いちばん、柔らかい、ところ。誰にも、見せない、ところを。本人の、知らないうちに。覗いて、いる。
いけない、ことだ、と。どこかで、わかって、いた。
でも。
面白かった。
深淵を、覗くのは。背徳的で。甘くて。やめられなかった。
*
ある夜。葵は、夕飯のあと。家族を、撮ってみた。
妹は、まだ、五歳だった。リビングで、テレビを、見ながら、ソファで、うとうと、して、いた。葵は、その、寝かけた、妹を、撮った。
写真の中で。妹は。
真っ白な、何もない、広い、部屋に。一人で、立って、いた。
そして、葵の方に。小さな、手を、伸ばして、いた。何かを、探すように。誰かを、呼ぶように。口を、開けて。声に、ならない声で。
葵は、少し、胸が、痛くなった。
今度は、台所に、いる、母を、撮った。
写真の中で。母は。
葵の、知らない、若い、女の人に、なって、いた。知らない、町の、駅の、ホームで。大きな、スーツケースを、持って。一人で、電車を、待って、いた。
どこか、遠くへ。誰にも、言わずに。行こうと、する、ように。
葵は。
撮らなければ、よかった、と、思った。
知りたく、なかった。母が、心の、いちばん奥で。家族を、置いて。一人で、どこか、遠くへ、行きたいと、思っている、ことなんて。
家族の、笑った、顔の、裏に。そんな、夢が、あることなんて。
覗いて、しまったら。
もう。
元の、目では。母を、見られなく、なる。
家族の、夢は。
覗いては、いけなかった。
*
その夜。葵は、ふと、思った。
みんなの、夢は、写った。
じゃあ。
自分の、夢は。何が、写るんだろう。
葵は、ベッドに、座って。カメラを、インカメラに、切り替えた。自分の、顔を、画面に、映して。シャッターを、押した。
ぱしゃ。
画像を、確認した。
葵の、顔が、写っていた。
夢の、場所は、写らなかった。当たり前だった。葵は、今、起きている。夢を、見ていない。だから、ただ、葵の、顔だけが、写る。
なんだ、と、葵は、思った。
でも。
よく、見ると。
葵の、後ろに。
黒い、影が、立っていた。
*
人の、形を、した。黒い、影。
葵の、すぐ、後ろ。葵の、肩の、すぐ、上に。頭の、ような、ものが、あった。
でも、顔は、なかった。目も、鼻も、口も、ない。ただ、黒い、人の形。
葵は、はじかれたように、後ろを、振り返った。
誰も、いなかった。
自分の、部屋。電気の、ついた、見慣れた、部屋。誰も、いない。
画面の中、だけに。
黒い、影が、いた。
葵は、もう一度、撮った。また、後ろに、黒い影。何度、撮っても。葵の、後ろには。黒い、影が、立って、いた。
ただ。
撮るたびに。
影が、少しずつ。
近づいて、いた。
一枚目では、葵の、肩の、後ろに。二枚目では、肩に、触れそうな、ところに。三枚目では。黒い、顔の、ない、面が。葵の、頬の、すぐ、横に。あった。
次に、撮ったら。
影の、顔が。葵の、顔に。重なって、しまう。
そんな、気が、して。
葵は、撮るのを、やめた。
*
翌日。葵は、どうしても、確かめたく、なって。
仲の、いい、友達の、美咲に。スマホを、見せた。前の日に、撮った、写真。授業中、うつむいて、いた、男子が。暗い、水の中に、沈んで、いる、あの一枚。
「ねえ、これ、見て。変な、写真、撮れるアプリ、あって」
美咲は、画面を、覗き込んで。
きょとんと、した。
「……これ、〇〇くんが、寝てるだけじゃん。机で。普通の、写真だよ」
葵は、自分でも、画面を、見た。
はっきりと。
暗い、水。沈んでいく、男子。葵には、そう、見えた。
でも、美咲には。
机で、寝ている、ただの、写真にしか。見えて、いなかった。
葵は、ぞっと、した。
夢が、写るのは。
撮った、葵にしか。見えないのだ。
このアプリで、覗いた、深淵は。葵だけの、ものに、なる。葵だけが、知って、しまう。誰とも、分け合えない。誰にも、信じて、もらえない。
一人で、抱えるしか、ない。
覗けば、覗くほど。
葵は、一人に、なって、いった。
*
葵は、ようやく、気づいた。
このアプリは。撮った人の、深いところを、写す。
人を、撮れば、その人の、夢を。
自分を、撮れば。
自分の、いちばん、深いところに、いる、ものを。
葵の、深いところには。
黒い、影が、いた。ずっと、後ろに、立っていた。
いつから、いたのか。
たぶん。人の、深淵を、覗き、続けて、いるうちに。
覗いた、その、暗いものが。少しずつ、葵の、中に、流れ込んで。葵の、深淵にも。同じものが。住み着いて、いた。
覗くという、ことは。
覗いた、ものと。つながる、という、ことだった。
*
葵は、それから。二度と、そのアプリを、開かなかった。
削除は、できなかった。だから、ホーム画面の、フォルダの中に、入れて。その、フォルダを、また、別の、フォルダの、奥に、入れて。幾重にも。指が、届かない、ところに、しまった。
人の、夢を、覗くのも。やめた。自分を、撮るのも。二度と、しなかった。
覗かなければ。たぶん、後ろの、影も。これ以上は、濃く、ならない。近づいて、こない。
葵は、そう、信じることに、した。
でも、時々。
夜、暗い、部屋で。ふと、スマホの、黒い、画面に。自分の、顔が、映る、ことが、ある。
その、後ろに。
何か、黒いものが、いる、気が、して。
葵は、慌てて、画面を、明るくする。
*
一度だけ。
アプリを、開いて、いないのに。影が、出た、ことが、あった。
夜中に、ふと、目が、覚めて。葵は、枕元の、スマホを、手に、取った。時間を、見ようと、しただけ、だった。
真っ暗な、画面に。葵の、顔が、映った。
その、後ろに。
黒い、影が、いた。
今度は。画面の中、だけ、では、なかった、気が、した。
葵は、反射的に、後ろを、見た。
暗い、部屋。
ベッドの、足元の、あたりの、闇が。ほかより、少し、濃い、気が、した。人の、形に。うずくまって、いるように。
葵は、飛び起きて。明かりを、つけた。
何も、いなかった。
ただの、暗い、部屋。脱ぎ捨てた、服。いつもの、もの。
でも、それから、葵は。夜中に、スマホの、暗い画面を、見るのが。こわく、なった。
覗くのを、やめても。
一度、深淵と、つながって、しまった、ものは。
完全には。
消えて、くれない。
*
この記録を作成したのは、柴田静流である。
松永葵から、直接、話を聞いた。
葵の、スマホには。今も、あのアプリが、入っている。削除できない、まま。ただ、開かなければ、何も、起きない、と、葵は、言う。
わたしは、一つだけ、確かめた。
「自分を、撮るのを、やめた。人を、覗くのを、やめた。それで、止まった」
「うん」と、葵は、言った。「覗いてる、あいだは。後ろの影が、撮るたびに、濃くなって、近づいてきた。やめたら、それ以上は。たぶん、止まってる」
わたしは、ノートに、書いた。「深淵のスマホ。撮った人の夢・深いところを写すカメラアプリ。人の深淵を覗き続けると、覗いた者の深淵にも黒い影が宿り、撮るたびに近づく。覗くのをやめれば止まる。削除はできない」
*
わたしは、こう、考えている。
昔から、言われてきた。覗いては、いけない、もの、が、ある、と。
見るな、と、言われた、つづら。開けるな、と、言われた、戸。覗くな、と、言われた、淵。
物語の中で、それを、覗いた者は。決まって、覗き返される。鶴は、飛び去り。座敷は、消え。淵の、ぬしは、目を、覚ます。
覗くという、行為には。代償が、ある。
人の、心の、奥。本人さえ、知らない、深淵。そこを、許しも、なく、覗くのは。いちばん、覗いては、いけない、戸を、こじ開ける、ことだった。
影見町にも。そういう、言い伝えが、あった。
昔、影見神社には。一枚の、古い、鏡が、納められて、いた、という。人は、それを、「影見の鏡」と、呼んだ。
その鏡は。映した、相手の。表の顔では、なく。心の、奥の、姿を、映す、と、言われた。
ある男が。その鏡を、持ち出して。村の、人々を、こっそり、映して、回った。誰が、どんな、本性を、隠して、いるのか。覗いて、面白がった。最初は、ただ、楽しかった。
でも、ある日。男は、ふと、その鏡に。自分を、映した。
鏡の中の、男の、後ろに。黒い、人影が、立って、いた。
それから、男は。日に日に、痩せて。影が、薄くなり。やがて、いなくなった。
宮司は、その鏡を。布で、幾重にも、包んで。社の、奥深くに、封じた。「人の、奥を、映す鏡は。映した者の、奥にも。同じ、闇を、呼び込む」と、書き残して。
その鏡が、今、どこに、あるのかは。わからない。
わたしは、思う。
形は、変わった。社に、納められた、一枚の、鏡が。手のひらに、おさまる、一台の、スマホに。
でも、することは、同じだ。覗けば、相手の、奥が、見え。覗いた者の、奥に、闇を、呼び込む。
葵は、たくさんの、戸を、開けた。たくさんの、人の、深淵を、覗いた。面白がって。次々と。
覗いた、その分だけ。
葵自身の、深淵の、戸も。
いつのまにか。開いて、いた。
そして、開いた、戸の、向こうから。黒い、影が。こちら側へ、入ってきた。
*
追記。
わたしは、その、中古スマホの、前の、持ち主のことを、考えた。
初期化したのに、消えなかった、アプリ。それは、つまり。前の持ち主も、消そうとして。消せなかった、という、ことだ。
たぶん、前の持ち主も。同じ、ことを、した。面白がって、人の、夢を、覗いて。そして、ある日、自分を、撮って。後ろの、影に、気づいた。
怖くなって。手放した。スマホごと。フリマアプリで。三千円で。
深淵を、まるごと。知らない、誰かに、押しつけるように。
そして、葵が、買った。
わたしは、もう少し、調べた。その出品者の、アカウントは。葵が、買った、すぐあとに。消えて、いた。退会したのか。それとも――
いつか、葵も。手放すのだろうか。また、別の、誰かに。「画面きれい、動作問題なし、初期化済み」と、書いて。
あのアプリは。スマホを、乗り換えながら。持ち主を、変えながら。ずっと、誰かの、深淵を。覗き、続けて、いく。
*
この、第六話を、書き終えた夜。
わたしは、自分の、スマホを、見た。真っ暗な、画面。そこに、わたしの、顔が、ぼんやりと、映って、いた。
その、後ろに。
何か、いる、気が、して。
わたしは、振り返らなかった。
振り返って。もし、何も、いなかったら。それは、いい。でも、もし、画面の中だけに、何かが、いたら。わたしは、それを。見たく、なかった。
わたしは、スマホを、伏せて、置いた。
人の、奥を、覗くのは。こわい。
でも、本当に、こわいのは。
覗いた、自分の、奥に。
いつのまにか、何かが、棲みついて、いること、だと、思う。
*
この記録を読んでいる、あなたへ。
もし、あなたの、スマホに。覚えのない、アプリが。削除できない、まま、入っていたら。
開かないで、ほしい。
特に、それが、カメラの、アプリなら。それで、誰かを、撮らないで、ほしい。
その人の、夢が、写ったとしても。心の、奥が、見えたとしても。面白がって、覗き、続けないで、ほしい。
人の、深淵を、覗けば。あなたの、深淵も。覗き返される。覗いた、暗いものが。あなたの、中に、流れ込んで、くる。
そして、絶対に。
そのカメラで。自分を、撮らないで、ほしい。
あなたの、後ろに。何が、立って、いるか。
知らないままの、ほうが、いい、ことが、ある。
もし、撮って、しまって。後ろに、黒い影が、写ったら。
それ以上、撮らないで。覗くのを、やめて。アプリを、奥深くに、しまって、ほしい。
影は、あなたが、覗くのを、やめれば。それ以上は、近づいて、こない。
でも、覗き続ければ。
次の、一枚で。
その影は。あなたに、重なる。
最後に。一つだけ。
もし、あなたが。誰かの、夢を、覗いて、しまって。その人の、悲しい、夢を。一人で、泣いている、夢を。見て、しまっても。
その人に。
「夢、見たでしょう」とは。言わないで、ほしい。
その人が、心の、いちばん奥に、しまって、いる、ものを。勝手に、覗いた、ことを。知られたら。
その人は。もう、あなたの、前で。笑えなく、なる。
深淵は。
覗いた、あなただけが。
黙って、抱えて。
そして、二度と、覗かない。
それが、せめてもの。償いだと、思う。
──第六話 深淵のスマホ 了──




