第五話 最後のバス停
六月十八日、火曜日。午後六時五分。
遠藤拓海、十四歳、三年三組。一人で、バスに、乗っていた。
塾の、帰りだった。いつもの、路線バス。影見駅前から、家の、近くの、停留所まで。五つ、先で、降りる。十分ほどの、距離。
拓海は、いちばん、後ろの、席に、座った。
疲れていた。塾の、テストが、続いていた。バスの、揺れが、心地よかった。エンジンの、低い、うなり。夕方の、オレンジ色の、光が、窓から、差して。
拓海は。
目を、閉じた。
ほんの、少し。一駅か、二駅。眠っても、大丈夫だろう、と、思った。降りる、停留所が、近づけば、アナウンスで、目が、覚める。
バスが、揺れた。
拓海は、眠り込んだ。
*
目を、開けた。
バスの中が。
暗かった。
夕方の、オレンジ色の、光は、もう、なかった。窓の外は、夜だった。
拓海は、慌てて、起き上がった。
寝過ごした。
車内を、見回した。
誰も、いなかった。乗客は、拓海、一人。運転席に、運転手の、背中が、見えた。それだけ。
拓海は、窓の外を、見た。
知らない、景色だった。
いや。
知らない、わけでは、なかった。
住宅街だった。家が、並んでいた。見覚えの、ある、ような、町並み。
でも。
電気が、点いて、いなかった。
全部の、家が。
暗かった。
*
夜の、六時過ぎ。
まだ、宵の口。
本当なら、どの家にも、明かりが、点いている、時間。
なのに。
窓の、向こうの、家は。一軒も、明かりが、点いて、いなかった。
街灯も、なかった。
ただ、バスの、車内の、明かりだけが。暗い、町を、照らしながら、進んでいた。
拓海は、窓に、額を、つけて。外を、見た。
家が、流れていく。
どの家も、暗かった。窓に、明かりが、ない。庭先に、自転車が、停めて、ある家も、あった。物干しに、洗濯物が、かかった、ままの家も、あった。
人が、住んでいる、はずだった。
なのに。
どの家からも。
人の、気配が、しなかった。
テレビの、光も。料理の、匂いも。話し声も。何も、なかった。
まるで。
町じゅうの、人間が。一斉に。いなく、なった、ような。
いや。
最初から、いなかった、ような。
バス停が、流れていく。
どの停留所にも。
誰も、待って、いなかった。
拓海は、ふと、思った。
この、バスは。
いったい、どこへ、向かって、いるんだろう。
拓海は、運転手に、声を、かけようと、した。
「すみません、寝過ごして……次、停まりますか」
運転手は。
答えなかった。
まっすぐ、前を、向いて。ハンドルを、握って。微動だに、しなかった。
バックミラーに。
運転手の、顔が、映るはず、だった。
でも。
ミラーには。
何も、映って、いなかった。運転席に、背中は、あるのに。ミラーの中の、顔の、あるべき場所が。のっぺりと。暗かった。
バスは、暗い、町を、進んでいった。
やがて。
アナウンスが、流れた。
「次は、終点、影見神社前。終点です」
*
バスは。
影見神社前の、停留所に、着いた。
プシュー、と、ドアが、開いた。
拓海は、降りるしか、なかった。終点だった。
ホームに、降りた。
影見神社の、鳥居が、すぐ、そこに、あった。暗い、参道が、奥へ、続いていた。
拓海は、あたりを、見回した。
いつもの、町の、はずれだった。昼間、何度か、来たことが、あった。バスの、終点。神社の、鳥居。商店が、二、三軒。
でも。
夜の、ここは。
まるで、違った。
商店は、シャッターが、下りていた。自販機も、消えていた。街灯は、ぽつんと、一本だけ。それも、じ、じ、と、今にも、消えそうに、瞬いていた。
鳥居の、奥の、参道は。
墨を、流したように、暗かった。
その、暗がりの、奥から。
ひんやりとした、空気が。流れ出して、いた。
夏の、夜なのに。
冷たかった。
まるで、参道の、奥に。冷たい、別の、季節が、別の、世界が。口を、開けて、いるように。
拓海は、思わず、肩を、すくめた。
早く、バスに、戻ろう、と、思った。
そのとき。
停留所の、ベンチが、目に、入った。
停留所には。
ベンチが、あった。
そのベンチに。
一人、座っていた。
*
学生服を、着た、生徒だった。
拓海と、同じくらいの、歳に、見えた。
でも。
着ている、制服が。
古かった。何十年も、前の、デザイン。学ランの、形が、今と、違った。
その生徒は。
ベンチに、座って。
膝の上で。
白い、紙を、持っていた。
折り畳まれた、白い、紙。
拓海が、近づいても。
その生徒は、顔を、上げなかった。
ただ、じっと。
来た、バスの方を。見ていた。
乗ろうと、しなかった。
*
バスは、終点で、折り返す。
ドアを、開けたまま、停まっていた。
今、乗れば。
帰りの、バスに、なる。
拓海は、ベンチの、生徒に、声を、かけた。
「あの、一緒に、乗りませんか。バス、折り返すみたいなんで。一緒に、帰りましょう」
生徒は。
ゆっくりと、首を、横に、振った。
「もういい」
低い、声だった。
「もういい。随分前から、もういい」
「帰らないんですか」と、拓海は、聞いた。
生徒は、答えなかった。
ただ、もう一度、言った。
「ここで、いい。帰っても、しょうがない」
拓海は、もう一度、聞いた。
「いつから、ここに、いるんですか」
生徒は、少し、黙って。
それから、ぽつりと、言った。
「……もう、覚えてない。四十年は、超えてると、思う」
四十年。
拓海は、絶句した。
その生徒の、制服が、古かった、わけだ。四十年前の、デザイン。
「最初は」と、生徒は、続けた。「帰ろうと、してた。バスを、待ってた。でも、来る、バスは、みんな、向こうへ、行く、バスばかりで。帰りの、バスは、来なかった」
「待ってるうちに。だんだん、どうでも、よくなった」
「家に、帰っても。もう、何年も、経ってる。家族も、いない。学校も、ない。帰る場所なんて、もう、ない」
「だから、もういい。ここで、いい」
生徒の、声は。
怒っても、悲しんでも、いなかった。
ただ、疲れて。
諦めて。
静かだった。
*
拓海は。
その、生徒を、見ていて。
ふいに。
わかる、気が、した。
帰っても、しょうがない。
その、気持ちが。
拓海の、胸にも、滲んできた。
塾の、テスト。成績の、こと。親の、小言。明日も、学校。何もかも、面倒だった。帰っても。また、同じ、毎日が、待っている、だけ。
ここに、座って。
もう、何も、しなくても、いいんじゃ、ないか。
この生徒みたいに。バスに、乗らずに。ただ、ここに、いれば。
楽に、なるんじゃ、ないか。
拓海の、足が。
バスから、離れて。ベンチの方へ。一歩。
その、一歩を、踏み出した、とき。
拓海は、気づいた。
ベンチは。一つ、では、なかった。
暗い、参道の、入り口に、沿って。いくつも、いくつも。ベンチが、並んでいた。さっきまで、一つしか、見えなかったのに。
その、一つ一つに。
人が、座って、いた。
古い、制服の、生徒。背広の、男。割烹着の、女。みんな、うつむいて。膝の上に、白い紙を、持って。バスを、見て。乗らずに。
何十年も。何百年も。「もういい」と、言って、座り続けた、人たち。
その、列の、いちばん、端に。
一つだけ。
空いた、ベンチが、あった。
拓海の、ための、ベンチが。
*
そのとき。
ベンチの、生徒が。
顔を、上げた。
拓海は、その顔を、見て。
息を、呑んだ。
顔が。
ぼんやりと、霞んで、いた。
目も、鼻も、口も。あるはずなのに。輪郭が、溶けて。誰の顔だったか、もう、わからない、ような。
長く、ここに、いすぎて。
顔まで、薄れた、ような。
その生徒が。
膝の上の、白い紙を。
拓海の方へ。
差し出した。
「これ、持ってて」
「次は、君が、ここで、待つ番だから」
*
拓海は。
その、白い紙から。
目を、離せなく、なった。
受け取れば。
たぶん。
自分が、ここに、座ることに、なる。この生徒の、代わりに。次の、誰かが、来るまで。何十年でも。顔が、薄れるまで。
でも。
その、白い紙を、見ていると。
受け取っても、いい、ような、気が、してきた。
受け取って。ここに、座って。もう、何も、しなくて、いい。塾も。テストも。成績も。明日の、ことも。全部、どうでも、よくなる。ただ、座って。バスを、眺めて。「もういい」と、つぶやいて、いれば、いい。
楽だ。
すごく、楽そうだった。
拓海の、手が。
ゆっくりと。白い紙の方へ。
伸びかけた。
指先が。紙に、触れる、寸前で。
拓海は、はっと、した。
今、受け取ろうと、した。自分の、意思で。受け取りたい、と、思った。
でも。
それは。本当に、自分の、気持ちなのか。
ベンチの、生徒の、「もういい」が。いつのまにか、拓海の、胸の中に、染み込んで。拓海の、気持ちの、ふりを、して、いるだけ、では、ないか。
受け取っては、いけない。
拓海は、後ろに、下がった。
差し出された、白い紙を。受け取らずに。
「いりません」と、言った。
「ぼくは、帰ります」
その、瞬間。
並んだ、ベンチの、人たちが。
一斉に。
顔を、上げた。
古い、制服の、生徒。背広の、男。割烹着の、女。霞んだ、顔が。みんな、拓海の方を、向いた。
そして。
ゆっくりと。立ち上がり、始めた。
膝の上の、白い紙を、持って。拓海の方へ。
みんな、自分の、紙を、拓海に、渡そうと、する、ように。受け取って、くれれば。自分が、帰れる、というように。
拓海は、ぞっと、して。
踵を、返した。
走った。
バスに、向かって。
背中で。
大勢の、足音が、ついてくる、気が、した。ざ、ざ、と。何十人もの。何百人もの。
でも、振り返ら、なかった。
拓海は、バスの、ステップを、駆け上がった。
いちばん、前の、席に、座った。
*
プシュー、と。
ドアが、閉まった。
バスが、動き出した。
拓海は、窓から、ベンチを、見た。
生徒は。
まだ、座っていた。
白い紙を、持って。次の、誰かを、待って。
バスが、走り出すと。
窓の外の、暗い町に。
少しずつ。
明かりが、点き始めた。
一軒、また、一軒。家の、窓に、明かりが。街灯が。点いていった。
いつもの、影見町に、戻って、いった。
次の、停留所の、アナウンスが、流れた。
拓海の、降りる、停留所の、名前だった。
拓海は。
帰ってきた。
でも。
家に、帰り着いても。
しばらく、あの、「もういい」が。胸の、奥に、残って、いた。
宿題を、しようと、しても。「もういい」と、思った。明日の、準備を、しようと、しても。「もういい」と、思った。
あのベンチで。胸に、染み込んだ、もの。
拓海は、怖く、なって。
その夜、家族と、たくさん、しゃべった。どうでも、いいことを。明日の、こと。来週の、こと。来年の、こと。
帰りたい、と、思える、未来の、ことを。
しゃべって、いるうちに。
「もういい」は。
少しずつ。薄れて、いった。
拓海は、思った。
あのまま、一人で、いたら。きっと、あの、「もういい」に。飲み込まれて、いた。
次の日の、朝。
ちゃんと、起きて。学校へ、行った。
*
この記録を作成したのは、柴田静流である。
遠藤拓海から、直接、話を、聞いた。
拓海は、それ以来。
バスに、乗るとき。必ず、終点まで、行かないことを、確認してから、乗る。
眠り込まないように。耳に、イヤホンを、入れて。アラームを、かけて。
わたしは、一つだけ、確かめた。
「白い紙を、受け取らなかった。それで、帰れた」
「うん」と、拓海は、言った。「受け取りそうに、なった。あの『もういい』って気持ちが、移ってきて。でも、受け取らなかった。バスに、戻った」
「あの『もういい』は、自分の、気持ちだったと、思いますか」
拓海は、少し、考えた。
「半分は、自分の。でも、半分は……あのベンチに、座ってる、あいだに。誰かに、入れられた、みたいだった」
わたしは、ノートに、書いた。
「最後のバス停。終点で、帰る気持ちを薄れさせ、白い紙を渡そうとする生徒がいる。受け取れば、次の待ち手になる。受け取らず、帰りのバスに乗れば、帰れる」
*
わたしは、白い紙のことを、考えた。
拓海に、聞いた。「どんな紙でしたか」
「折り畳まれた、白い紙。何か、書いてあった、気がする。広げなかったから、わからないけど」
書いてあった。
わたしは、思う。
あれは。名簿だ。
ここで、待ち続けた、人たちの、名前を、書いた、紙。
受け取って、広げれば。たぶん、最後に。受け取った人の、名前を、書く、欄が、ある。
受け取った、その瞬間に。そこに、名前が、書かれる。
そして、その人は、次の、待ち手に、なる。
拓海が、受け取って、いたら。
この記録の、続きに。遠藤拓海、と。書かれて、いた。
*
追記。
わたしは、過去に、影見神社前の、あたりで、行方不明に、なった人が、いないか、調べた。
何人か、いた。
いちばん、古いのは。四十年ほど、前。
当時、中学生だった、男子が。塾の、帰りに、いなくなった。最後に、バスに、乗るのを、見た人が、いた。それきり、帰って、こなかった。
四十年前。
拓海が、ベンチで、会った、生徒の、制服は。
ちょうど、四十年前の、デザインだった。
「四十年は、超えてると、思う」と、その生徒は、言った。
その生徒は。
その、行方不明に、なった、男子なのかも、しれない。
四十年、あのベンチで。帰りの、バスを、待って。来なくて。だんだん、どうでも、よくなって。
「もういい」と、言うように、なった。
今も、座っている。
誰かが、白い紙を、受け取って、くれるのを。待ちながら。
わたしは、その人の、名前を、ノートに、書いた。
せめて、覚えている人が、一人でも、いるように。
第三話の、さとみと、同じだ。
覚えている人が、いれば。
まだ、その人は。「いなかったこと」には、ならない。
*
わたしは、影見神社前の、停留所のことを、調べた。
バス会社の、古い、業務記録に。こんな、一文が、あった。
「影見神社前停留所にて、夕方から夜間の便に、原因不明の事案、集中。停留所の移設を検討中」
でも、停留所は。
今も、移設されて、いない。
検討、され続けて。何十年も。
わたしは、もっと、古い記録を、調べた。
バスが、走る、前。
影見神社前は、街道の、終わりだった。
旅人が、影見の、宿場を、過ぎて。神社の、ふもとで。街道は、終わる。その先は、山。道は、なかった。
古い、言い伝えに、こう、あった。
「道の果てに、座する者あり。旅に倦みて、先へ進まず、後へ戻らず。『もうよい』と言ひて、座す。声をかけ、紙を受くるなかれ。受くれば、入れ替はる」
道の、果てに、座る者が、いる。旅に、疲れて。先へも、進まず。後へも、戻らず。「もういい」と、言って、座る。声をかけて、紙を、受け取っては、ならない。受け取れば、入れ替わる。
*
形は、変わった。
街道の、果ての、ベンチが。バスの、終点に。
旅に、疲れた、旅人が。塾や、学校に、疲れた、生徒に。
けれど、中身は、変わらない。
道の、果てで。「もういい」と、座る者が、いる。
帰りたい、気持ちを。薄れさせて。
白い紙を、差し出す。
受け取れば、入れ替わる。
その生徒は、四十年、座っていた。四十年、誰かが、紙を、受け取って、くれるのを、待っていた。
拓海は、受け取らなかった。
だから、その生徒は。
まだ、座っている。
次の、誰かが、来るのを、待って。
*
この、第五話を、書き終えた夜。
わたしは、ふと、思った。
わたしにも。
「もういい」と、思う、瞬間が、ある。
記録を、つけるのは。疲れる。怖い。誰にも、信じて、もらえない。やめて、しまいたい、と、思う夜も、ある。
でも。
やめて、しまったら。
わたしも、きっと。
どこかの、ベンチに、座ることに、なる。膝の上に、白い紙を、持って。来ない、バスを、待ちながら。「もういい」と、つぶやいて。顔が、薄れて、いくのを。待ちながら。
帰りたい、という、気持ちは。
大事に、しなければ、いけない、のだと、思う。
それが、薄れた、とき。人は、ベンチに、座る。先へも、進まず。後へも、戻らず。
だから、わたしは。
どんなに、疲れても。
「もういい」とは。
言わないように、している。
*
この記録を読んでいる、あなたへ。
もし、あなたが。
夜の、最終に近い、バスや、電車で。
うっかり、眠り込んで。
目を、覚ましたとき。
窓の外の、町が。暗くて。一軒も、明かりが、点いて、いなかったら。
降りても、いい。終点なら、降りるしか、ない。
でも。
すぐに、折り返しの、便に、乗ってほしい。
もし、ベンチに。
古い、制服を、着た、誰かが、座っていて。
「もういい」と、言って。あなたに、折り畳まれた、白い紙を、差し出したら。
受け取らないで、ほしい。
そして。
あなたの、胸に。「もう、帰らなくても、いいか」という、気持ちが、わいてきても。
それは、半分、あなたの、ものでは、ない。
走って、バスに、戻って、ほしい。
帰りの、便に、乗って、ほしい。
どんなに、毎日が、面倒でも。
帰った、その先に。同じ毎日が、待っていても。
道の、果てに、座るより。
ずっと、いい。
──第五話 最後のバス停 了──




