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第五話 最後のバス停

 六月十八日、火曜日。午後六時五分。


 遠藤拓海、十四歳、三年三組。一人で、バスに、乗っていた。


 塾の、帰りだった。いつもの、路線バス。影見駅前から、家の、近くの、停留所まで。五つ、先で、降りる。十分ほどの、距離。


 拓海は、いちばん、後ろの、席に、座った。


 疲れていた。塾の、テストが、続いていた。バスの、揺れが、心地よかった。エンジンの、低い、うなり。夕方の、オレンジ色の、光が、窓から、差して。


 拓海は。


 目を、閉じた。


 ほんの、少し。一駅か、二駅。眠っても、大丈夫だろう、と、思った。降りる、停留所が、近づけば、アナウンスで、目が、覚める。


 バスが、揺れた。


 拓海は、眠り込んだ。



 目を、開けた。


 バスの中が。


 暗かった。


 夕方の、オレンジ色の、光は、もう、なかった。窓の外は、夜だった。


 拓海は、慌てて、起き上がった。


 寝過ごした。


 車内を、見回した。


 誰も、いなかった。乗客は、拓海、一人。運転席に、運転手の、背中が、見えた。それだけ。


 拓海は、窓の外を、見た。


 知らない、景色だった。


 いや。


 知らない、わけでは、なかった。


 住宅街だった。家が、並んでいた。見覚えの、ある、ような、町並み。


 でも。


 電気が、点いて、いなかった。


 全部の、家が。


 暗かった。



 夜の、六時過ぎ。


 まだ、宵の口。


 本当なら、どの家にも、明かりが、点いている、時間。


 なのに。


 窓の、向こうの、家は。一軒も、明かりが、点いて、いなかった。


 街灯も、なかった。


 ただ、バスの、車内の、明かりだけが。暗い、町を、照らしながら、進んでいた。


 拓海は、窓に、額を、つけて。外を、見た。


 家が、流れていく。


 どの家も、暗かった。窓に、明かりが、ない。庭先に、自転車が、停めて、ある家も、あった。物干しに、洗濯物が、かかった、ままの家も、あった。


 人が、住んでいる、はずだった。


 なのに。


 どの家からも。


 人の、気配が、しなかった。


 テレビの、光も。料理の、匂いも。話し声も。何も、なかった。


 まるで。


 町じゅうの、人間が。一斉に。いなく、なった、ような。


 いや。


 最初から、いなかった、ような。


 バス停が、流れていく。


 どの停留所にも。


 誰も、待って、いなかった。


 拓海は、ふと、思った。


 この、バスは。


 いったい、どこへ、向かって、いるんだろう。


 拓海は、運転手に、声を、かけようと、した。


 「すみません、寝過ごして……次、停まりますか」


 運転手は。


 答えなかった。


 まっすぐ、前を、向いて。ハンドルを、握って。微動だに、しなかった。


 バックミラーに。


 運転手の、顔が、映るはず、だった。


 でも。


 ミラーには。


 何も、映って、いなかった。運転席に、背中は、あるのに。ミラーの中の、顔の、あるべき場所が。のっぺりと。暗かった。


 バスは、暗い、町を、進んでいった。


 やがて。


 アナウンスが、流れた。


 「次は、終点、影見神社前。終点です」



 バスは。


 影見神社前の、停留所に、着いた。


 プシュー、と、ドアが、開いた。


 拓海は、降りるしか、なかった。終点だった。


 ホームに、降りた。


 影見神社の、鳥居が、すぐ、そこに、あった。暗い、参道が、奥へ、続いていた。


 拓海は、あたりを、見回した。


 いつもの、町の、はずれだった。昼間、何度か、来たことが、あった。バスの、終点。神社の、鳥居。商店が、二、三軒。


 でも。


 夜の、ここは。


 まるで、違った。


 商店は、シャッターが、下りていた。自販機も、消えていた。街灯は、ぽつんと、一本だけ。それも、じ、じ、と、今にも、消えそうに、瞬いていた。


 鳥居の、奥の、参道は。


 墨を、流したように、暗かった。


 その、暗がりの、奥から。


 ひんやりとした、空気が。流れ出して、いた。


 夏の、夜なのに。


 冷たかった。


 まるで、参道の、奥に。冷たい、別の、季節が、別の、世界が。口を、開けて、いるように。


 拓海は、思わず、肩を、すくめた。


 早く、バスに、戻ろう、と、思った。


 そのとき。


 停留所の、ベンチが、目に、入った。


 停留所には。


 ベンチが、あった。


 そのベンチに。


 一人、座っていた。



 学生服を、着た、生徒だった。


 拓海と、同じくらいの、歳に、見えた。


 でも。


 着ている、制服が。


 古かった。何十年も、前の、デザイン。学ランの、形が、今と、違った。


 その生徒は。


 ベンチに、座って。


 膝の上で。


 白い、紙を、持っていた。


 折り畳まれた、白い、紙。


 拓海が、近づいても。


 その生徒は、顔を、上げなかった。


 ただ、じっと。


 来た、バスの方を。見ていた。


 乗ろうと、しなかった。



 バスは、終点で、折り返す。


 ドアを、開けたまま、停まっていた。


 今、乗れば。


 帰りの、バスに、なる。


 拓海は、ベンチの、生徒に、声を、かけた。


 「あの、一緒に、乗りませんか。バス、折り返すみたいなんで。一緒に、帰りましょう」


 生徒は。


 ゆっくりと、首を、横に、振った。


 「もういい」


 低い、声だった。


 「もういい。随分前から、もういい」


 「帰らないんですか」と、拓海は、聞いた。


 生徒は、答えなかった。


 ただ、もう一度、言った。


 「ここで、いい。帰っても、しょうがない」


 拓海は、もう一度、聞いた。


 「いつから、ここに、いるんですか」


 生徒は、少し、黙って。


 それから、ぽつりと、言った。


 「……もう、覚えてない。四十年は、超えてると、思う」


 四十年。


 拓海は、絶句した。


 その生徒の、制服が、古かった、わけだ。四十年前の、デザイン。


 「最初は」と、生徒は、続けた。「帰ろうと、してた。バスを、待ってた。でも、来る、バスは、みんな、向こうへ、行く、バスばかりで。帰りの、バスは、来なかった」


 「待ってるうちに。だんだん、どうでも、よくなった」


 「家に、帰っても。もう、何年も、経ってる。家族も、いない。学校も、ない。帰る場所なんて、もう、ない」


 「だから、もういい。ここで、いい」


 生徒の、声は。


 怒っても、悲しんでも、いなかった。


 ただ、疲れて。


 諦めて。


 静かだった。



 拓海は。


 その、生徒を、見ていて。


 ふいに。


 わかる、気が、した。


 帰っても、しょうがない。


 その、気持ちが。


 拓海の、胸にも、滲んできた。


 塾の、テスト。成績の、こと。親の、小言。明日も、学校。何もかも、面倒だった。帰っても。また、同じ、毎日が、待っている、だけ。


 ここに、座って。


 もう、何も、しなくても、いいんじゃ、ないか。


 この生徒みたいに。バスに、乗らずに。ただ、ここに、いれば。


 楽に、なるんじゃ、ないか。


 拓海の、足が。


 バスから、離れて。ベンチの方へ。一歩。


 その、一歩を、踏み出した、とき。


 拓海は、気づいた。


 ベンチは。一つ、では、なかった。


 暗い、参道の、入り口に、沿って。いくつも、いくつも。ベンチが、並んでいた。さっきまで、一つしか、見えなかったのに。


 その、一つ一つに。


 人が、座って、いた。


 古い、制服の、生徒。背広の、男。割烹着の、女。みんな、うつむいて。膝の上に、白い紙を、持って。バスを、見て。乗らずに。


 何十年も。何百年も。「もういい」と、言って、座り続けた、人たち。


 その、列の、いちばん、端に。


 一つだけ。


 空いた、ベンチが、あった。


 拓海の、ための、ベンチが。



 そのとき。


 ベンチの、生徒が。


 顔を、上げた。


 拓海は、その顔を、見て。


 息を、呑んだ。


 顔が。


 ぼんやりと、霞んで、いた。


 目も、鼻も、口も。あるはずなのに。輪郭が、溶けて。誰の顔だったか、もう、わからない、ような。


 長く、ここに、いすぎて。


 顔まで、薄れた、ような。


 その生徒が。


 膝の上の、白い紙を。


 拓海の方へ。


 差し出した。


 「これ、持ってて」


 「次は、君が、ここで、待つ番だから」



 拓海は。


 その、白い紙から。


 目を、離せなく、なった。


 受け取れば。


 たぶん。


 自分が、ここに、座ることに、なる。この生徒の、代わりに。次の、誰かが、来るまで。何十年でも。顔が、薄れるまで。


 でも。


 その、白い紙を、見ていると。


 受け取っても、いい、ような、気が、してきた。


 受け取って。ここに、座って。もう、何も、しなくて、いい。塾も。テストも。成績も。明日の、ことも。全部、どうでも、よくなる。ただ、座って。バスを、眺めて。「もういい」と、つぶやいて、いれば、いい。


 楽だ。


 すごく、楽そうだった。


 拓海の、手が。


 ゆっくりと。白い紙の方へ。


 伸びかけた。


 指先が。紙に、触れる、寸前で。


 拓海は、はっと、した。


 今、受け取ろうと、した。自分の、意思で。受け取りたい、と、思った。


 でも。


 それは。本当に、自分の、気持ちなのか。


 ベンチの、生徒の、「もういい」が。いつのまにか、拓海の、胸の中に、染み込んで。拓海の、気持ちの、ふりを、して、いるだけ、では、ないか。


 受け取っては、いけない。


 拓海は、後ろに、下がった。


 差し出された、白い紙を。受け取らずに。


 「いりません」と、言った。


 「ぼくは、帰ります」


 その、瞬間。


 並んだ、ベンチの、人たちが。


 一斉に。


 顔を、上げた。


 古い、制服の、生徒。背広の、男。割烹着の、女。霞んだ、顔が。みんな、拓海の方を、向いた。


 そして。


 ゆっくりと。立ち上がり、始めた。


 膝の上の、白い紙を、持って。拓海の方へ。


 みんな、自分の、紙を、拓海に、渡そうと、する、ように。受け取って、くれれば。自分が、帰れる、というように。


 拓海は、ぞっと、して。


 踵を、返した。


 走った。


 バスに、向かって。


 背中で。


 大勢の、足音が、ついてくる、気が、した。ざ、ざ、と。何十人もの。何百人もの。


 でも、振り返ら、なかった。


 拓海は、バスの、ステップを、駆け上がった。


 いちばん、前の、席に、座った。



 プシュー、と。


 ドアが、閉まった。


 バスが、動き出した。


 拓海は、窓から、ベンチを、見た。


 生徒は。


 まだ、座っていた。


 白い紙を、持って。次の、誰かを、待って。


 バスが、走り出すと。


 窓の外の、暗い町に。


 少しずつ。


 明かりが、点き始めた。


 一軒、また、一軒。家の、窓に、明かりが。街灯が。点いていった。


 いつもの、影見町に、戻って、いった。


 次の、停留所の、アナウンスが、流れた。


 拓海の、降りる、停留所の、名前だった。


 拓海は。


 帰ってきた。


 でも。


 家に、帰り着いても。


 しばらく、あの、「もういい」が。胸の、奥に、残って、いた。


 宿題を、しようと、しても。「もういい」と、思った。明日の、準備を、しようと、しても。「もういい」と、思った。


 あのベンチで。胸に、染み込んだ、もの。


 拓海は、怖く、なって。


 その夜、家族と、たくさん、しゃべった。どうでも、いいことを。明日の、こと。来週の、こと。来年の、こと。


 帰りたい、と、思える、未来の、ことを。


 しゃべって、いるうちに。


 「もういい」は。


 少しずつ。薄れて、いった。


 拓海は、思った。


 あのまま、一人で、いたら。きっと、あの、「もういい」に。飲み込まれて、いた。


 次の日の、朝。


 ちゃんと、起きて。学校へ、行った。



 この記録を作成したのは、柴田静流である。


 遠藤拓海から、直接、話を、聞いた。


 拓海は、それ以来。


 バスに、乗るとき。必ず、終点まで、行かないことを、確認してから、乗る。


 眠り込まないように。耳に、イヤホンを、入れて。アラームを、かけて。


 わたしは、一つだけ、確かめた。


 「白い紙を、受け取らなかった。それで、帰れた」


 「うん」と、拓海は、言った。「受け取りそうに、なった。あの『もういい』って気持ちが、移ってきて。でも、受け取らなかった。バスに、戻った」


 「あの『もういい』は、自分の、気持ちだったと、思いますか」


 拓海は、少し、考えた。


 「半分は、自分の。でも、半分は……あのベンチに、座ってる、あいだに。誰かに、入れられた、みたいだった」


 わたしは、ノートに、書いた。


 「最後のバス停。終点で、帰る気持ちを薄れさせ、白い紙を渡そうとする生徒がいる。受け取れば、次の待ち手になる。受け取らず、帰りのバスに乗れば、帰れる」



 わたしは、白い紙のことを、考えた。


 拓海に、聞いた。「どんな紙でしたか」


 「折り畳まれた、白い紙。何か、書いてあった、気がする。広げなかったから、わからないけど」


 書いてあった。


 わたしは、思う。


 あれは。名簿だ。


 ここで、待ち続けた、人たちの、名前を、書いた、紙。


 受け取って、広げれば。たぶん、最後に。受け取った人の、名前を、書く、欄が、ある。


 受け取った、その瞬間に。そこに、名前が、書かれる。


 そして、その人は、次の、待ち手に、なる。


 拓海が、受け取って、いたら。


 この記録の、続きに。遠藤拓海、と。書かれて、いた。



 追記。


 わたしは、過去に、影見神社前の、あたりで、行方不明に、なった人が、いないか、調べた。


 何人か、いた。


 いちばん、古いのは。四十年ほど、前。


 当時、中学生だった、男子が。塾の、帰りに、いなくなった。最後に、バスに、乗るのを、見た人が、いた。それきり、帰って、こなかった。


 四十年前。


 拓海が、ベンチで、会った、生徒の、制服は。


 ちょうど、四十年前の、デザインだった。


 「四十年は、超えてると、思う」と、その生徒は、言った。


 その生徒は。


 その、行方不明に、なった、男子なのかも、しれない。


 四十年、あのベンチで。帰りの、バスを、待って。来なくて。だんだん、どうでも、よくなって。


 「もういい」と、言うように、なった。


 今も、座っている。


 誰かが、白い紙を、受け取って、くれるのを。待ちながら。


 わたしは、その人の、名前を、ノートに、書いた。


 せめて、覚えている人が、一人でも、いるように。


 第三話の、さとみと、同じだ。


 覚えている人が、いれば。


 まだ、その人は。「いなかったこと」には、ならない。



 わたしは、影見神社前の、停留所のことを、調べた。


 バス会社の、古い、業務記録に。こんな、一文が、あった。


 「影見神社前停留所にて、夕方から夜間の便に、原因不明の事案、集中。停留所の移設を検討中」


 でも、停留所は。


 今も、移設されて、いない。


 検討、され続けて。何十年も。


 わたしは、もっと、古い記録を、調べた。


 バスが、走る、前。


 影見神社前は、街道の、終わりだった。


 旅人が、影見の、宿場を、過ぎて。神社の、ふもとで。街道は、終わる。その先は、山。道は、なかった。


 古い、言い伝えに、こう、あった。


 「道の果てに、座する者あり。旅に倦みて、先へ進まず、後へ戻らず。『もうよい』と言ひて、座す。声をかけ、紙を受くるなかれ。受くれば、入れ替はる」


 道の、果てに、座る者が、いる。旅に、疲れて。先へも、進まず。後へも、戻らず。「もういい」と、言って、座る。声をかけて、紙を、受け取っては、ならない。受け取れば、入れ替わる。



 形は、変わった。


 街道の、果ての、ベンチが。バスの、終点に。


 旅に、疲れた、旅人が。塾や、学校に、疲れた、生徒に。


 けれど、中身は、変わらない。


 道の、果てで。「もういい」と、座る者が、いる。


 帰りたい、気持ちを。薄れさせて。


 白い紙を、差し出す。


 受け取れば、入れ替わる。


 その生徒は、四十年、座っていた。四十年、誰かが、紙を、受け取って、くれるのを、待っていた。


 拓海は、受け取らなかった。


 だから、その生徒は。


 まだ、座っている。


 次の、誰かが、来るのを、待って。



 この、第五話を、書き終えた夜。


 わたしは、ふと、思った。


 わたしにも。


 「もういい」と、思う、瞬間が、ある。


 記録を、つけるのは。疲れる。怖い。誰にも、信じて、もらえない。やめて、しまいたい、と、思う夜も、ある。


 でも。


 やめて、しまったら。


 わたしも、きっと。


 どこかの、ベンチに、座ることに、なる。膝の上に、白い紙を、持って。来ない、バスを、待ちながら。「もういい」と、つぶやいて。顔が、薄れて、いくのを。待ちながら。


 帰りたい、という、気持ちは。


 大事に、しなければ、いけない、のだと、思う。


 それが、薄れた、とき。人は、ベンチに、座る。先へも、進まず。後へも、戻らず。


 だから、わたしは。


 どんなに、疲れても。


 「もういい」とは。


 言わないように、している。



 この記録を読んでいる、あなたへ。


 もし、あなたが。


 夜の、最終に近い、バスや、電車で。


 うっかり、眠り込んで。


 目を、覚ましたとき。


 窓の外の、町が。暗くて。一軒も、明かりが、点いて、いなかったら。


 降りても、いい。終点なら、降りるしか、ない。


 でも。


 すぐに、折り返しの、便に、乗ってほしい。


 もし、ベンチに。


 古い、制服を、着た、誰かが、座っていて。


 「もういい」と、言って。あなたに、折り畳まれた、白い紙を、差し出したら。


 受け取らないで、ほしい。


 そして。


 あなたの、胸に。「もう、帰らなくても、いいか」という、気持ちが、わいてきても。


 それは、半分、あなたの、ものでは、ない。


 走って、バスに、戻って、ほしい。


 帰りの、便に、乗って、ほしい。


 どんなに、毎日が、面倒でも。


 帰った、その先に。同じ毎日が、待っていても。


 道の、果てに、座るより。


 ずっと、いい。


──第五話 最後のバス停 了──

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