第四話 図書室の貸出カード
六月十日、月曜日。午後五時二十分。
黒田詩織、十四歳、二年二組。図書委員だった。
その日は、書庫の、整理当番だった。
図書室の、奥に。書庫が、ある。古い本を、しまっておく、薄暗い、部屋。今は、ほとんど、誰も、借りない、古い本ばかりが、棚に、詰まっている。
学校の、図書システムは、もう、バーコードに、なっている。本の、裏に、バーコードを、貼って、機械で、読み取る。
でも、書庫の、古い本には。
昔の、貸出カードが、まだ、挟まったままに、なっている、ものが、ある。
本の、裏表紙の、内側に、紙のポケットが、貼ってあって。そこに、カードが、差し込んである。借りた人が、名前と、日付を、書く、あの、古い、システム。
詩織は、棚の、本を、一冊ずつ、出して。ほこりを、払って。戻していった。
夕方の、書庫は、静かだった。
窓が、小さく。光が、あまり、入らない。
蛍光灯は、半分が、切れていた。残りの、半分が、じ、じ、と、瞬いて。本棚の、影が、ゆらゆらと、揺れた。
古い、紙の、匂いが、した。
黄ばんだ、紙。湿った、糊。カビ。何十年も、誰にも、開かれて、いない本たちの、匂い。
詩織は、その匂いが、嫌いでは、なかった。図書委員に、なったのも、本が、好きだったから。
でも、夕方の、書庫は。
昼の、図書室とは、違った。
しん、と、していた。
時々。
奥の、棚の方で。ことり、と、音が、した。
本が、ひとりでに、傾いたような。あるいは、誰かが、奥に、いて。本を、抜いたような。
詩織は、奥を、見た。
誰も、いなかった。
ただ、暗い、本棚が。並んで、いるだけ。
詩織は、一冊の、古い本を、手に、取った。
*
背表紙の、タイトルは、かすれて、読めなかった。
ずいぶん、古い本だった。
詩織は、裏表紙を、開いた。
紙の、ポケットに。
貸出カードが、差し込んで、あった。
黄ばんだ、カード。
詩織は、それを、抜き出した。
借りた人の、名前と、日付が、並んでいた。
いちばん、上は。
昭和の、日付だった。何十年も、前。
その下に、また、別の名前。別の日付。
順番に、新しく、なっていく。
詩織は、なんとなく、上から、名前を、読んで、いった。
知らない、名前ばかり。昔の、生徒の、名前。
そして、いちばん、下の方に。
詩織は。
自分の、名前を、見つけた。
*
黒田詩織。
はっきりと、書かれていた。
詩織の、字、では、なかった。でも、確かに、黒田詩織、と。
その、横の、日付。
貸出日。
六月十七日。
来週の、月曜日。
まだ、来ていない、日付。
詩織は。
この本を、借りた、覚えは、なかった。今日、初めて、手に、取った本だった。
なのに。
来週の、日付で。
借りた、ことに、なっていた。
そのとき。
詩織の、見ている、目の前で。
黒田詩織の、行の、すぐ、下に。
じわり、と。
インクが、にじみ出してきた。
誰も、書いて、いないのに。黄ばんだ、紙の、繊維の、奥から。黒い、文字が。ひとりでに、浮かんで、きた。
別の、名前だった。
詩織の、知らない、誰かの、名前。
その、横に、貸出日。来月の、日付。
このカードは。
まだ、書き続けて、いる。
次に、誰が、この本を、借りるかを。借りる、前から。先に、書いて、いた。
*
詩織の、指が、震えた。
その、貸出日の、横に。
もう一つ、欄が、あった。
返却日。
詩織の、行の、返却日は。
空欄だった。
まだ、返して、いない。
来週、借りて。まだ、返して、いない。
当たり前だった。まだ、借りても、いないの、だから。
詩織は。
カードを、上から、もう一度、見た。
古い、名前たち。
その、返却日の、欄を。
*
ほとんどの、名前は。
貸出日の、横に、返却日も、書いてあった。借りて、返した。普通の、記録。
でも。
いくつかの、名前は。
返却日が、空欄、だった。
借りたまま。返して、いない。
詩織は、その、空欄の、名前を、一つ、覚えていた。
昔、地域の、ニュースで、聞いた、名前。
何年も、前に。この町で、行方不明に、なった、子供の、名前だった。
別の、空欄の、名前も。
なんとなく、聞き覚えが、あった。
その中に。
一つ。
つい、去年の、日付の、ものが、あった。
貸出日は、去年の、秋。返却日は、空欄。
名前は。
詩織の、知っている、先輩だった。
去年、卒業を、待たずに、いなくなった、先輩。学校では、「転校した」と、言われていた。でも、詩織は、知っていた。本当は、ある日、突然、いなくなって。家族も、行方を、知らない、と。
その先輩の、名前が。
この、カードに、あった。
去年の、秋に、この本を、借りて。
返却日が、空欄の、まま。
いなくなった、人たち。
借りたまま。
返さずに。
消えた、人たち。
その、いちばん、新しい、一人が。
詩織の、知っている、先輩だった。
*
詩織は。
ようやく、気づいた。
この、貸出カードは。
ただの、貸出記録、では、ない。
借りた人が。返却日までに、本を、返せば。何も、起きない。返却日が、記録されて、終わる。
でも。
返さなければ。
その人は。
借りたまま。消える。
返却日の、欄が、空欄のまま。永遠に。
そして、このカードは。
誰が、いつ、この本を、借りるかを。
先に、知っている。
まだ、借りても、いない、詩織の、名前を。来週の、日付で、書いて。待って、いる。
*
そのとき。
書庫の、入り口で、音が、した。
同じ、図書委員の、絵里が、入ってきた。
「黒田さん、まだ、終わらないの? 鍵、閉めるよ」
詩織は、とっさに。
絵里に、カードを、見せた。
「絵里。これ、見て。下の方。わたしの、名前、書いてあるでしょ。来週の、日付で」
絵里は、カードを、覗き込んで。
きょとんと、した。
「……どこ? 古い名前しか、ないけど。下は、ぜんぶ、空欄じゃん」
詩織は、自分でも、もう一度、見た。
はっきりと。
あった。黒田詩織。六月十七日。その、すぐ下に、来月の、日付の、知らない名前。そして、返却日の、空欄のまま、消えた、人たちの、名前が、ずらりと。
詩織には、見えた。
でも、絵里には。
見えて、いなかった。
まだ、来ていない、行は。
書かれた、本人にしか。見えないのだ。
「黒田さん、大丈夫? なんか、顔色、悪いよ」と、絵里は、言った。
詩織は。
誰にも、見えない、ことを、悟った。
誰にも、信じて、もらえない。
自分一人で。借りないように。気をつけるしか、ない。
*
詩織は、カードを、見つめた。
黒田詩織。六月十七日。返却日、空欄。
来週、自分は。
この本を、借りる。
借りたく、なくても。きっと、何かに、引き寄せられて。手に、取って。借りて、しまう。
そして、返さなければ。
消える。
詩織は。
カードを、本の、ポケットに、戻そうと、して。
やめた。
自分の、名前の、行を。
消したかった。
詩織は、ポケットから、消しゴムを、出して。自分の、名前を、こすった。
消えなかった。
ボールペンの、字だった。消しゴムでは、消えない。
詩織は、爪で、引っかいた。
黄ばんだ、紙が、少し、毛羽立った。
でも、文字は。消えなかった。
むしろ。
こすった、ぶん。
濃く、なった、気が、した。
黒田詩織。六月十七日。
まるで、こすればこするほど。決まってしまう、ように。
詩織は、手を、止めた。
消そうと、すれば、するほど。借りる日が、近づいてくる、気が、した。
詩織は、考えた。
借りなければ、いい。
来週の、月曜日。この本に、近づかなければ。手に、取らなければ。借りなければ。
返却日が、来ても。借りて、いないなら。消えようが、ない。
*
詩織は、その本を。
書庫の、いちばん、奥の、棚の。いちばん、手の、届きにくい、上の段に。
押し込んだ。
二度と、手に、取らないように。
来週、間違っても、近づかないように。
書庫を、出た。
鍵を、かけた。
六月十七日。
その日、詩織は、図書当番を、別の子と、代わってもらった。
でも。
その日は、朝から、ずっと。
図書室のことが。頭から、離れなかった。
授業中も。あの本の、ことを、考えて、しまった。書庫の、奥の、上の段。押し込んだ、古い本。あの、貸出カード。黒田詩織、六月十七日。
今日だ。
今日が、借りる日だ。
昼休み。
気づくと、詩織の、足は。図書室の方へ、向かって、いた。
自分でも、わからないうちに。廊下を、歩いて。図書室の、扉の、前まで、来ていた。
手が。
扉の、取っ手に。伸びかけた。
中に、入って。書庫へ、行って。あの本を、取って。借りる。借りなければ、いけない、ような。借りたくて、たまらない、ような。
そんな、気持ちが。
じわじわと、わいてきた。
詩織は、はっと、して。
扉から、手を、離した。
今、引き寄せられた。
カードに、名前が、書いてあるから。借りに行くように。仕向けられて、いる。
詩織は、その場を、離れた。走って。図書室から、遠ざかった。
その日は、もう。校舎の、反対側で、過ごした。図書室にも、書庫にも、近づかなかった。
夕方まで。
何度も。図書室の方へ、行きたく、なる、衝動が、わいた。
そのたびに。詩織は、こらえた。
放課後の、チャイムが、鳴って。下校の、時間に、なって。
詩織は、図書室に、一度も、入らずに。家に、帰った。
一日。
何も、起きなかった。
借りなかった。だから、返却日も、来なかった。
詩織は。
助かった。
*
この記録を作成したのは、柴田静流である。
黒田詩織から、直接、話を聞いた。
詩織は、その本を、奥に、しまったまま。二度と、触れて、いない。
わたしは、一つだけ、確かめた。
「来週の、日付で、自分の名前が、書いてあった。でも、借りなかった。それで、何も、起きなかった」
「うん」と、詩織は、言った。「借りなかったら、返却日も、来ない。貸出が、成立しなかったから。たぶん、それで」
「借りていたら」
詩織は、少し、黙った。
「返さなきゃ、いけなかった。返却日までに。返さなかったら――名前の、返却日が、ずっと、空欄のままの、人たちみたいに、なってた」
わたしは、ノートに、書いた。
「図書室の貸出カード。未来の日付で借り手の名を記す。借りて返却日までに返さねば、その者は消える。返却日は空欄のまま残る。借りなければ、成立しない」
*
わたしは。
その本のことを、調べたかった。
でも、詩織は、どの本だったか、もう、思い出せない、と、言った。書庫の、奥に、押し込んだ本。背表紙も、かすれて、読めなかった、本。
わたしは、自分で、書庫に、入って。
探した。
見つからなかった。
古い本が、何百冊も、ある。背表紙の、読めない本も、たくさん、ある。
ただ。
一冊だけ。
手の、届きにくい、上の段に。
不自然に、押し込まれた、本が、あった。
わたしは、それを、取ろうと、して。
やめた。
もし、これが、その本なら。
貸出カードを、見たら。
わたしの、名前が、書いてあるかも、しれない。
未来の、日付で。
わたしは、書庫を、出た。
*
わたしは、図書館の、古い記録を、調べた。
学校の、図書室の、ことではなく。
町の、図書館の、奥に、保管されている、もっと、古い、記録を。
影見町には、昔。
お寺が、あった。今は、ない、お寺。
そのお寺には、過去帳が、あった。
過去帳。亡くなった人の、名前と、日付を、書きつけて、おく、帳面。
ただ、影見の、その過去帳には。
妙な、言い伝えが、あった。
古い、記録に、こう、あった。
「影見の寺の過去帳、いまだ来たらぬ日を記すことあり。その日、その者、召さるる也。書かれし名を見し者、決して借り写すべからず」
影見の寺の、過去帳は。まだ、来ていない、日を、記すことが、ある。その日、その人は、召される。書かれた名前を、見た者は、決して、借りても、写しても、いけない。
わたしは、その、言い伝えを、もう少し、追った。
その寺の、過去帳は、代々の、住職が、つけていた。亡くなった、檀家の、戒名と、命日を、書き記す。普通の、過去帳だった。
ところが、ある代の、住職の、ころから。
まだ、生きている人の、名前が。まだ、来ていない、命日とともに。ひとりでに、帳面に、浮かぶように、なった、という。
住職は、それを、消そうとした。墨で、塗りつぶした。削り取った。
でも、消えなかった。次の朝には、また、同じ名前が、同じ日付で、浮かんでいた。
そして、その、書かれた人は。書かれた、日付に。必ず、亡くなった。
住職は、恐れて。その過去帳を、寺の、いちばん奥に、封じた。誰にも、見せないように。「見れば、写し取られる。写し取られれば、逃れられぬ」と、書き残して。
その寺は、明治の、ころに、廃された。
過去帳が、どこへ、いったかは。記録に、ない。
わたしは、思う。
あの、帳面は。
形を、変えて。今も、この町の、どこかに、ある。
図書室の、古い本の、ポケットに、差し込まれた。一枚の、貸出カードとして。
*
形は、変わった。
お寺の、過去帳が。
図書室の、貸出カードに。
召される日を、先に、記す、ことは。
借りる日を、先に、記す、ことに。
けれど、中身は、変わらない。
まだ、来ていない、日付に、名前が、書かれていたら。
その日、その人は。借りて。返さなければ。
召される。
返却日の、空欄は。
まだ、返って、こない、人。
もう、帰って、こない、人。
お寺は、なくなった。過去帳も、どこかへ、消えた。
でも、その、帳面は。
形を、変えて。
今も、図書室の、古い本の、ポケットに。
差し込まれて、いる。
*
この、第四話を、書き終えた夜。
わたしは、自分の、ノートを、見た。
わたしも、毎日、ここに。名前と、日付を、書いている。怪異に、遭った人の、名前。会った、日付。
颯太。朔也。莉子。さとみ。拓海。そして、詩織。
わたしの、ノートも。
名前と、日付の、帳面だ。
過去帳と、同じ、かたち。
ふと、怖く、なった。
わたしが、書いた、名前の人は。みんな、無事だろうか。
わたしが、書くことで。その人を、助けて、いるのか。それとも――あの、過去帳のように。書くことで。その人の、何かを。決めて、しまって、いるのか。
わたしは、ノートを、めくった。
まだ、何も、書いて、いない、まっさらな、ページ。
そこに。
うっすらと。
文字が、浮かんで、いる、気が、した。
まだ、会って、いない、誰かの、名前。まだ、来て、いない、日付。
わたしは、慌てて、ノートを、閉じた。
見なかった。
まだ、来ていない、ページに。誰の、名前が、あるのかを。
確かめる、勇気は。
なかった。
*
この記録を読んでいる、あなたへ。
もし、あなたが。
古い、図書室や、書庫で。
裏表紙に、紙の、ポケットの、ついた、古い本を、見つけたら。
その、ポケットから。
貸出カードを、抜き出すのは、いい。
でも。
いちばん、下の方に。
まだ、来ていない、未来の、日付で。
あなたの、名前が、書かれて、いたら。
その本を。
借りないで、ほしい。
その日が、来ても。図書室に、近づかないで、ほしい。手に、取らないで、ほしい。
借りなければ。返却日は、来ない。
もし、もう、借りて、しまっていたら。
返却日までに。
必ず、返して、ほしい。一日でも、遅れては、いけない。
返却日を、過ぎても、返さなかった人の、名前は。
今も、そのカードに。
返却日、空欄のまま。
残って、いる。
そして。
もう一つ。
もし、あなたの、名前の、ある、そのカードに。
あなたの、知っている、誰かの、名前も、あって。
その人の、返却日が。
空欄の、ままだったら。
その人は、もう。
借りて。返せずに。消えて、しまった、人だ。
学校では、「転校した」と、言われて、いるかも、しれない。「引っ越した」と。
でも、本当は。
あのカードの、空欄の、行に。
名前だけ、残して。
いなく、なった、人かも、しれない。
そういう、名前を、見つけたら。
せめて、覚えて、いて、ほしい。
その人が、確かに、いたことを。
借りた本を、返せないまま。消えて、しまったことを。
覚えている人が、いる限り。
その人の、行は。ただの、空欄では、ない。
誰かが、いた、しるしに、なる。
──第四話 図書室の貸出カード 了──




