第二話 夜の自販機
五月のある日、火曜日。午後六時四十分。
水野朔也、十四歳、二年一組。一人で、夜道を、歩いていた。
部活の、居残りで、遅くなった。陸上部。記録会が、近かった。グラウンドが、暗くなるまで、走って。シャワーも、浴びずに、汗だくのまま、帰る、ところだった。
喉が、渇いていた。
校舎の、裏に。
通路が、ある。
体育館と、旧校舎の、あいだの、細い、通路。昼でも、薄暗い。生徒は、あまり、通らない。その、通路の、入り口に。
古い、自販機が、一台、立っている。
朔也は、それを、知っていた。
でも、買ったことは、なかった。なんとなく、近づきたくない、場所だった。
その日は。
喉が、渇きすぎていた。
朔也は、通路の、自販機に、近づいた。
*
自販機は、ぶうん、と、低く、うなっていた。
白い、光。
夕暮れの、薄闇の中で、それだけが、点いていた。
並んだ、飲み物。朔也は、百二十円を、入れて、コーラの、ボタンを、押した。
ごとん、と、缶が、落ちた。
冷たかった。
朔也は、缶を、取り出して。
プルタブに、指を、かけようと、して。
ふと。
缶の、底を、見た。
なぜ、底を、見たのかは、わからない。手の中で、缶を、回したとき。底が、目に、入った。
缶の、底に。
文字が、あった。
*
黒い、マジックで、書いたような、文字。
「今日は帰るな」
朔也は、目を、細めた。
今日は、帰るな。
手書きの、文字。缶の、底に。
悪戯だ、と、思った。
誰かが、自販機に、いたずらで、缶の底に、書いて。それが、たまたま、出てきた。そういう、ことだろう。
朔也は、プルタブを、開けた。
ぷしゅ、と、音がして。
コーラを、飲みながら。
通路を、出た。
そのまま、帰った。
文字のことは、三秒で、忘れた。
*
その夜。
朔也の、家の、近くで。
車の、事故が、あった。
朔也が、いつも、帰りに、通る、交差点で。スピードを、出した、車が、ガードレールに、突っ込んだ。
ちょうど、朔也が、その交差点を、渡る、時刻だった。
でも、その日。
朔也は、コーラを、飲んでいて。歩く速さが、少し、遅れた。
交差点に、着いたとき。事故は、もう、起きた、あとだった。
赤い、回転灯が、回っていた。割れた、ガラスが、アスファルトに、散らばって、街灯の光を、反射していた。ひしゃげた、ガードレール。エンジンから、白い、煙。
野次馬の、輪の、向こうで。誰かが、担架で、運ばれて、いった。
朔也は、その、横断歩道の、白線を、見た。
いつも、自分が、立つ、場所。信号を、待つ、場所。
そこに、割れた、フロントガラスの、破片が。きらきらと、散らばって、いた。
あと、二、三分、早かったら。
朔也は、その、交差点に、いた。
あの、破片の、上に。
今日は、帰るな。
あの、文字が。
頭の中に、よみがえった。
*
翌日。
朔也は、また、校舎裏の、自販機に、行った。
確かめたかった。
昨日の、文字が。本当に、ただの、悪戯だったのか。
百二十円を、入れて。コーラを、買った。
缶を、手に、取って。底を、見た。
文字が、あった。
昨日とは、違う、文字。
「左の道を通れ」
朔也は、息を、呑んだ。
左の道。
朔也の、家への、帰り道には、途中で、道が、二つに、分かれる。いつもは、右の、近道を、通る。
でも、缶は、左を、通れ、と、言っている。
朔也は、その日。
左の道を、通って、帰った。
遠回りだった。
何も、起きなかった。
でも、次の日。学校で、噂を、聞いた。昨日、右の近道で、不審者が、出た、と。女子生徒が、追いかけられた、と。
*
朔也は。
自販機を、信じ始めた。
毎日、放課後、校舎裏で、コーラを、買った。
缶の、底の、文字を、読んだ。
「今日は寄り道するな」
その日、朔也は、まっすぐ、帰った。寄り道を、しなかった。翌日、聞いた。いつも、朔也が、寄っていた、ゲームセンターの、近くで。看板が、落ちた。下に、いた人が、怪我を、した、と。
「傘を持て」
空は、晴れていた。それでも、朔也は、傘を、持って、出た。みんなに、笑われた。夕方、急に、雲が、出て。バケツを、ひっくり返したような、夕立が、来た。傘を、持っていない、生徒は、ずぶ濡れに、なった。朔也だけが、濡れずに、帰った。
「電車に乗るな」
その日、朔也は、一本、電車を、見送った。理由は、自分でも、わからなかった。ただ、缶が、そう言ったから。次の、電車を、待った。最初の、電車は。三つ先の、駅で、人身事故を、起こして、止まった。もし、乗っていたら。何時間も、閉じ込められて、いた。
どれも。
当たった。
一つ、残らず。
缶は。
朔也を、守っていた。
毎日。
朔也は、自販機に、感謝、さえ、した。
ありがとう、と。
心の中で、缶に、言った。
*
一度だけ。
朔也は、友達に、その缶を、見せようとした。
同じクラスの、健太。昼休み、朔也は、健太を、校舎裏の、通路に、連れて、行った。
「見せたいものが、ある」
百二十円を、入れて、コーラを、買った。缶の、底を、健太に、向けた。
「ここ。文字、書いてあるだろ」
健太は、缶の、底を、じっと、見て。
首を、傾げた。
「……何も、書いてないけど」
朔也は、自分でも、缶の、底を、見た。
はっきりと。文字が、あった。
「今日は、傘を、持て」
黒い、手書きの、文字。朔也には、読めた。
でも、健太には。
見えて、いなかった。
「ほんとに、何もないって。ただの、缶の底だよ」と、健太は、言った。「お前、最近、疲れてるんじゃない?」
朔也は。
ぞっと、した。
この、文字は。
朔也にしか、見えない。
朔也だけに、宛てて、書かれている。
自販機は、もう。朔也、一人を。選んで、いた。ほかの、誰にも、見えない、文字で。朔也だけを、縛って、いた。
その日の、夕方。
空は、晴れていた。
なのに、やはり。
夕立が、来た。
傘を、持って、いた、朔也だけが。濡れずに、帰った。健太は、ずぶ濡れに、なって、「お前の言うとおりだったわ」と、笑った。
朔也は、笑えなかった。
缶の、言うとおりに、なることが。だんだん、怖く、なって、いた。
*
でも。
怖くても。朔也は、やめられなく、なって、いた。
ある日。朔也は、熱を、出して、学校を、休んだ。
校舎裏の、自販機に、行けなかった。コーラを、買えなかった。缶の、底の、文字を、読めなかった。
布団の中で。朔也は、一日じゅう、不安だった。
今日は、何の、警告だったんだろう。
読まなかったから、わからない。読まなかったから、避けられない。
夕方。母親が、買い物に、出かけようと、した。
朔也は、とっさに、引き止めた。
「行かないで」
理由は、言えなかった。ただ、嫌な、予感が、した。今日、缶を、読んで、いない。今日、誰かに、何かが、起きる。そんな、気が、して、ならなかった。
母親は、笑って、出かけた。
その夜。
母親が、青い顔で、帰ってきた。
行こうと、していた、スーパーの、駐車場で。車の、接触事故が、あった。母親が、いつも、車を、停める、場所で。
「ちょうど、あなたに、引き止められて。十分、遅れて、出たの。もし、いつも通りだったら……」
朔也は。
背筋が、凍った。
缶を、読んで、いなくても。朔也は、母親を、引き止めた。理由も、わからないまま。
まるで。読んで、いない、警告が。直接、朔也の、頭の中に、流れ込んできた、ように。
もう。缶を、買おうが、買うまいが。
朔也は、その自販機と。つながって、しまって、いた。
*
ひと月ほど、たった、ころ。
朔也は、ある朝。
自分の、右手を、見て。
凍りついた。
手のひらに。
文字が、あった。
黒い、マジックで、書いたような、文字。缶の底と、同じ、筆跡。
「次回」
ただ、それだけ。
次回。
朔也は、その手を、握ってみた。
手のひらが。
ひんやりと、冷たかった。
まるで、冷えた、缶を、握っているような。実際には、何も、握って、いないのに。手のひらだけが、缶の、冷たさを、覚えて、いた。
朔也は、洗面所で、石鹸を、つけて、ごしごし、洗った。
落ちなかった。
こすっても、こすっても。「次回」の、文字は、手のひらに、残ったままだった。
皮膚の、内側から、書かれている、ように。
*
その日の、放課後。
朔也は、また、自販機に、行った。
怖かった。でも、行かずには、いられなかった。手のひらの、文字の、意味を、知りたかった。
コーラを、買った。
缶の、底を、見た。
文字が、あった。
今までで、いちばん、長い、文章だった。
「お前は、もう、こちら側の客だ。次回からは、底ではなく、手に書く。守ってやる。その代わり、毎日、買え。一日でも、買わなければ、守らない。買わなかった日、お前の身に、何が起きても、知らない」
朔也は。
その、文字を、読んで。
手が、震えた。
缶を、持つ、手と、同じ、右手の、ひらに。「次回」の、二文字が。じくじくと、熱を、持つように、痛んだ。
守ってやる。
その、言葉の、裏に。脅しが、あった。
毎日、買え。買わなければ、守らない。買わなければ、何が、起きても、知らない。
それは。
毎日、買わなければ。お前に、悪いことが、起きるぞ、という、意味だった。
今まで。当たった、警告。看板。夕立。人身事故。
あれは、本当に。たまたま、起きていた、危険を。教えて、くれていた、のか。
それとも。
朔也が、毎日、買うように。買い続けるように。
わざと。朔也の、行く先に。危険を、置いて。それを、避ける道を。一本、百二十円で、売って、いたのか。
ようやく、気づいた。
これは。
守られて、いるのでは、ない。
縛られて、いる。
*
朔也は。
考えた。
自販機が、教えてくれる、危険。
車の事故。不審者。人身事故。
あれは、本当に、偶然に、起きた、危険、だったのか。
それとも――自販機が。朔也の、行く先に。危険を、置いて。
それを、避ける道を、缶に、書いて、売って、いたのか。
毎日。一本、百二十円で。
守ってやる、と言いながら。
守らなければ、ならない危険を、自分で、作って。
朔也を、客に、するために。
一日でも、買わなければ、守らない。
それは。
一日でも、買わなければ、お前を、襲う、という、意味だった。
*
朔也は、その日。
飲みかけの、缶を。
通路に、置いた。
自販機の、前に。
そして、もう、二度と、買わない、と、決めた。
逃げるように、通路を、出た。
四日間。
朔也は、通路に、入らなかった。コーラを、買わなかった。
怖かった。
缶の言うとおりなら。買わなかった日、何かが、起きる、はずだった。
一日目。朔也は、一日じゅう、身構えて、いた。
階段を、下りるとき。手すりを、握って、慎重に、下りた。横断歩道を、渡るとき。左右を、何度も、確かめた。電車に、乗るとき。いちばん、後ろの、車両を、選んだ。
何も、起きなかった。
二日目。三日目。
朔也は、まだ、怖かった。缶が、言っていた。買わなければ、守らない。買わなければ、何が、起きても、知らない、と。
いつ、災いが、来るのか。看板が、落ちるのか。車が、突っ込むのか。
びくびくしながら、過ごした。
でも。
何も、起きなかった。
四日目。
朔也は、ふと、気づいた。
手のひらの、「次回」の、文字が。
薄く、なって、いた。
買うのを、やめてから。少しずつ。文字が、消えかけて、いた。
何も、起きなかった。
日常が、続いた。
五日目。朔也は、教室の、窓から、校舎裏を、見た。通路の、入り口が、見えた。暗い、入り口。
その奥に。
白い、自販機の光が。
点いて、いた。
待っている、ように。
*
この記録を作成したのは、柴田静流である。
水野朔也から、直接、話を聞いた。
朔也の、右手の、手のひらには、今も、うっすらと。
「次回」の、二文字が、残っている。
石鹸でも、消えない。
ただ、買うのを、やめてから。文字は、少しずつ、薄く、なっている、という。
静流は、一つだけ、確かめた。
「買うのを、やめても。四日間、何も、起きなかった」
「うん」と、朔也は、言った。「怖かったけど。何も。たぶん、缶が、言ってたのは、嘘だ。買わなかったら、襲うっていうのは。客を、つなぎとめるための、脅し」
「危険は、最初から。自販機が、作ってた」
「そう、思う」
静流は、ノートに、書いた。
「夜の自販機。缶の底の警告は当たる。しかしその危険は自販機が置いたもの。買わせ続けるための仕掛け。買うのをやめれば、縛りは解ける」
*
静流は、その、自販機のことを、調べた。
校舎裏の、通路。体育館と、旧校舎の、あいだ。
地図で、見ると。
その通路は。
ちょうど、北を、向いていた。
影見神社の、方向だった。
自販機は、その通路の、入り口に、立って。影見神社の方を、向いて、いた。
静流は、旧校舎が、建つ、前の、記録を、調べた。
その場所には、昔、小さな、祠が、あった。
道の、辻に、立つ、祠。旅人が、銭を、供えて、道中の、無事を、祈った。
供えれば、守られる。供えなければ、守られない。
静流は、影見町の、古い言い伝えに、こんな一節を、見つけた。
「辻の神に、日々、供へよ。一日怠れば、その身に祟る。されど、供へ始めなば、生涯、止むべからず」
辻の神には、毎日、供えよ。一日でも、怠れば、祟る。だが、供え始めたら、一生、やめられない。
わたしは、もう少し、その祠のことを、調べた。
古老の、話では。その祠の、神は。旅人を、守る神、では、なかった。
旅人に、災いを、もたらす、神だった。
その神に、銭を、供えれば。その日だけは、災いを、避けてくれる。供えなければ、災いが、来る。
だから、人々は、毎日、供えた。供えれば、避けられる。供えなければ、来る。
でも、それは。
神が、災いを、もたらす、力を、持っている、から、こそ。
供えれば、避けてくれる、のだ。
災いを、起こす者と。それを、避けてくれる者が。同じ、だった。
朔也の、自販機と、同じだ。
危険を、置く者と。それを、避ける道を、教える者が。同じ。一つの、自販機。
*
形は、変わった。
辻の、祠に、銭を、供える、ことが。
自販機に、百二十円を、入れて、コーラを、買う、ことに。
けれど、中身は、変わらない。
供えれば、守られる。守られたければ、毎日、供えよ。
一度、供え始めたら。
やめれば、祟る、と、脅される。
朔也は。
四日間、供えなかった。
そして、祟りは、来なかった。
脅しだった。
でも、と、静流は、思う。
朔也は、運が、よかったのかも、しれない。
供えるのを、やめても、祟られなかった、のは。
手のひらの、文字が、まだ、薄く、残っている、うちに。やめられたから、かもしれない。
文字が、濃く、なりきる、前に。
*
追記。
静流は、過去に、その自販機で、おかしなことが、なかったか、調べた。
数年前、卒業した、先輩の、一人が。
毎日、放課後、校舎裏の、自販機で、飲み物を、買って、いた、という。
その先輩は、右手を、いつも、ポケットに、入れて、いた。
誰にも、手のひらを、見せなかった。
卒業して、しばらく、して。その先輩は、いなくなった。
今、どこに、いるか、わからない。
ただ、その先輩が、最後に、言った、言葉を。同級生が、覚えていた。
「もう、やめられない」
それだけ。
わたしは、その先輩の、ことを、もう少し、調べた。
いなくなる、少し前。その先輩は、保健室で、養護の先生に、右手を、見せて、しまった、ことが、あった、らしい。
手のひら、いっぱいに。
黒い、文字が。
びっしりと、書かれていた、という。
「今日は」「次は」「右へ」「乗るな」「買え」「買え」「買え」――
何重にも、重なって。もう、何が、書いてあるのか、読めないほど。
養護の先生が、驚いて、聞くと。先生は、笑って、こう、言った、そうだ。
「これ、ぜんぶ、あの自販機が、書いてくれたんです。守ってくれてるんです。やめたら、死んじゃうから。やめられないんです」
朔也の、手のひらの、「次回」の、二文字。
あれを、消さずに。買い続けて、いたら。
きっと、あの先輩のように。
手のひらが、文字で、埋まって、いた。
毎日、買わなければ、いられなく、なって。
そして。
いつか。
*
この、第二話を、書き終えた夜。
わたしは、ふと、思った。
守ってくれる、もの。
助けて、くれる、もの。
それが、いちばん、こわい、ことが、ある。
助けて、くれるから。頼ってしまう。頼ると、離れられなく、なる。離れられなく、なると――
助けて、くれる、ふりを、して。本当は、縛って、いるものに。気づけ、なくなる。
朔也は、気づけた。手のひらの、文字が、薄いうちに。
でも、あの先輩は。
気づけ、なかった。
*
この記録を読んでいる、あなたへ。
もし、あなたが、夜、喉が渇いて。
覚えのある、自販機で、缶を、買ったとき。
飲む前に。
缶の、底を、見てほしい。
もし、そこに。手書きのような、文字が、あって。
その文字が、あなたに、警告を、していたら。
その夜だけは、従って、ほしい。今日は帰るな、と書いてあれば、帰り道を、変える。それで、たぶん、助かる。
でも。
次の日、また、買っては、いけない。
文字が、当たったとしても。あなたを、守ってくれたとしても。
その危険を、誰が、あなたの行く先に、置いたのかを。
考えて、ほしい。
一度、供え始めたら。一生、やめられない、と、言われる。
それは、嘘だ。
やめても、いい。
ただし――手のひらに、文字が、書かれる、前に。
手のひらが、冷たく、なる、前に。缶の、冷たさを、握っても、いないのに、覚えて、しまう、前に。
その自販機の、前を、通るたびに。買わなきゃ、と、足が、止まる、前に。
まだ、間に合う、うちに。
やめて、ほしい。
守られている、と、思ったら。
いちばん、危ない。
──第二話 夜の自販機 了──




