第一話 放課後の影
影見町。
どこにでも、ある町だ。
北側に、山。町の端を、川が、静かに、流れている。駅があって、商店街があって、学校がある。コンビニがあって、古い神社があって、バスが、一時間に、二本。春には、桜並木。夏には、うるさいくらいの、蝉の声。秋には、山が、赤く、染まる。
あなたの、町に、似ているかもしれない。
昼の、影見町は。
ただ、ひとつ。
この町には、妙な、言い伝えがある。
「影を見る町」だ、という説。
「影に、見られる町」だ、という説。
どちらが、正しいのかは、誰も、知らない。
ただ、夕方になると。
その、意味が、少しだけ、わかる。
*
その日、颯太は、掃除当番だった。
影見町立第二中学校、二年三組。
同じ班の、田嶋は、剣道部の、練習が、あると言って、早々に、帰った。ほかの、班員も、塾だ、部活だ、と、いなくなった。
結局、教室には、颯太、一人が、残った。
颯太は、それを、嫌だとは、思わなかった。
むしろ、好きだった。
放課後の、誰も、いない、教室。生徒の、ざわめきが、消えて。建物そのものの、静けさが、満ちる。窓の外、グラウンドから、運動部の、かけ声が、遠く、聞こえる。それくらいが、ちょうど、いい。
静かに、していると。
学校という、建物が。少しずつ、音を、立てるのが、わかった。
誰も、いない、隣の、教室で。窓が、風に、かたり、と、鳴る。廊下の、どこかで、配管が、こつ、と、軋む。蛍光灯が、じ、と、低く、唸る。古い、校舎が、息を、しているような。
昼は、生徒の声に、かき消されている、その音が。放課後には、聞こえてくる。
颯太は、その音を、聞きながら、掃除をするのが。好きだった。
自分が、この、大きな建物に。一人だけ、残されている。その感じが。寂しいのでは、なく。守られているような。落ち着く、感じが、した。
颯太は、ほうきで、床を、掃いた。
机を、寄せて、雑巾がけを、した。
最後に、黒板を、消した。
*
窓から、夕日が、差し込んでいた。
西日だった。
オレンジ色の、光が、教室を、斜めに、横切って。机を、床を、黒板を、染めていた。
空気の中に、細かい、ほこりが、舞っていた。
光の、筋の中で。きらきらと。
颯太は、黒板消しを、二つ、手に、取って。
窓際に、立って。
ぱん、ぱん、と、叩き合わせた。
白い、チョークの粉が。夕日の光の中に、舞い上がった。
ぱん。ぱん。
粉が、光の中で、踊った。
颯太は、それを、見るのが、好きだった。
粉が、落ち着くのを、待って。
黒板消しを、トレーに、戻そうと、して。
ふと。
黒板を、見た。
*
黒板に。
影が、あった。
颯太の、影だった。
窓を、背にして、立っている、颯太の。頭があって、肩があって、腕があって。黒板の、緑の、面に、くっきりと、映っていた。
夕日が、後ろから、差している。だから、前の、黒板に、影が、映る。当たり前のことだった。
でも。
颯太は。
その、影を、見て。
動きを、止めた。
黒板の、影は。
一つ、では、なかった。
*
二つ、あった。
颯太の、影が。
黒板に、二つ、並んで、映っていた。
一つは、今、颯太が、立っている、位置に。動くと、一緒に、動く、影。
もう一つは。
その、すぐ、隣に。
動かずに、立っている、影。
颯太は、自分の、腕を、上げてみた。
右の、影の、腕が、上がった。
左の、影は。
腕を、下げたまま。
まっすぐ、立って。
動かなかった。
*
颯太は、ためしに、一歩、横へ、ずれた。
右の、影が、一緒に、ずれた。
左の、影は。
その場に、残った。
颯太から、離れて。黒板の、同じ場所に。一人で、立っていた。
颯太は、もう一歩、ずれた。さらに、離れた。
それでも、左の影は。動かなかった。颯太と、何の、関係も、ない、ように。
そして。
颯太が、見ていると。
左の影の、頭が。
ゆっくりと。
傾いた。
颯太の方へ。
颯太は、首を、動かして、いなかった。なのに、影の、頭だけが。こちらを、見ようと、する、ように。かしいだ。
黒板に、貼りついた、平らな、影が。
颯太を、見て、いた。
*
颯太は、後ろを、振り返った。
誰も、いなかった。
西日の、差す、窓。並んだ、机。誰も、いない、教室。
颯太の、後ろに、立っている、人間は、いなかった。
もう一つの、影を、作る、ものは。
どこにも、なかった。
なのに。
黒板には。
二つの、影が、あった。
颯太は、もう一度、黒板を、見た。
動かない方の、影は。
颯太より、ほんの少し。
濃かった。
*
颯太の、背筋が、冷たく、なった。
でも。
その、冷たさの、底に。
もう一つ、嫌な、感覚が、あった。
既視感だった。
この、影を。
前にも、見た。
颯太は、思い出そうと、した。
掃除当番。一人で、残った、放課後。夕日の、黒板。
先週も。
その、前の週も。
颯太は、掃除当番のたびに、最後に、一人で、残って。黒板を、消して。夕日の中で、黒板消しを、叩いて。
そのたびに。
黒板に、自分の、影を。
見ていた。
*
颯太は。
ゆっくりと。
黒板に、近づいた。
動かない方の、影を、よく、見るために。
近づくと。
わかった。
影は、二つ、では、なかった。
動かない方の、影の、後ろに。
さらに、薄い、影が、重なっていた。
その、後ろにも。もっと、薄い、影が。
幾重にも。
颯太の、形を、した、影が。少しずつ、ずれて、重なって。黒板に、何枚も、貼りついて、いた。
濃い、ものから。薄い、ものへ。
いちばん、奥の、影は。もう、輪郭が、溶けかけて、いた。
ただ。
幾重にも、重なった、影の、中に。
一つだけ。
颯太の、形では、ない、影が、混じっていた。
颯太より、背の、高い。肩の、いかった。男子の、影。
颯太の、知らない、誰かの、影が。颯太の、影に、紛れて。同じ黒板に、貼りついて、いた。
この黒板に、影を、置いていったのは。
颯太、一人では、なかった。
ずっと、昔から。誰かが。一人で、放課後の、教室に、残って。夕日の中で。影を、置いて、いったのだ。何人も。何十人も。
*
颯太は。
自分の、重なった、影を。もう一度、よく、見た。
気づくと。
一枚、一枚の、影が。少しずつ、違う、かっこうを、して、いた。
いちばん、手前の、動く影は。今の、颯太。
その、次の、影は。黒板消しを、持った、かっこう。先週、叩いていた、ときの、姿。
その、次は。ほうきを、持った、かっこう。
その、次は。机に、向かって、何かを、書いている、かっこう。
幾重にも、重なった、影は。
颯太が、この、教室で。これまで、過ごしてきた、放課後の。一つ一つの、姿だった。
固まって。動かずに。黒板に、貼りついて、いた。
まるで。颯太の、過ごした、時間が。そのまま、影に、なって。ここに、残されて、いるように。
颯太は。その、いちばん、奥の。溶けかけた、影が。
ほんの少し。
手を、振った、気が、した。
こっちへ、おいで、と、いうように。
颯太は、数えようと、して。
やめた。
数えては、いけない、気が、した。
でも、思った。
掃除当番の、回数と。
同じ、数だけ、ある。
*
そのとき。
颯太は、自分の、足元を、見た。
夕日が、後ろから、差している。
本当なら、颯太の、影は。前の、黒板に、向かって、長く、伸びている、はずだった。
でも。
颯太の、足元から、黒板に、向かう、影は。
ひどく、薄かった。
いちばん、手前の、動く影でさえ。輪郭が、ぼんやりして。床の、木目が、透けて、見えた。
颯太の、影は。
薄く、なっていた。
黒板に、貼りついた、影たちの方が。
ずっと、濃かった。
まるで。
颯太の、影が。一回、また一回と。黒板に、置き去りに、されて。
その分だけ。
颯太、本体の、影が。薄く、なっていく、ように。
*
颯太は。
最近の、ことを。
思い出した。
朝の、ホームルームで。先生が、出席を、取る。颯太の、名前を、飛ばすことが、あった。「あれ、今、呼んだっけ」と。颯太が、「呼ばれてません」と、言うと。先生は、不思議そうな、顔を、した。
友達の、村上に、話しかけても。最初の、一回は、気づかれない、ことが、増えた。二回、呼んで。ようやく、「あ、いたの」と、振り返る。
写真。この前の、遠足の、集合写真。颯太は、確かに、写っていた。でも、自分でも、すぐには、見つけられなかった。薄く、なっていたから。
颯太は。
少しずつ。
薄く、なっていた。
学校の、誰の、記憶からも。少しずつ。
その分が。
全部。
この、黒板に。
影として、貼りついて、いた。
*
いちばん、濃い、動かない影が。
ふいに。
動いた。
まっすぐ、立っていた、その影が。
ゆっくりと。
黒板の、面から。
こちらへ。
一歩、踏み出そうと、する、ように。
平らな、影が。
立体に、なろうと、する、ように。
黒板の、緑から。颯太の、形を、した、黒い、ものが。
手前へ。にじり、出てきた。
颯太は。
とっさに。
手に、持っていた、黒板消しを。
黒板に、叩きつけた。
*
ごし、と。
颯太は、黒板を、こすった。
影の、上から。
黒板消しで。
力いっぱい。
動かない影を。重なった、薄い影を。一枚ずつ。
ごし、ごし、と。
最初の、一枚は。すぐに、消えた。
でも。
奥の、影ほど。
頑固だった。
こすっても、こすっても。黒板に、しがみつくように。残ろうと、した。
黒板消しを、動かす、腕が。だんだん、重く、なった。
まるで、影の方が。颯太の、腕を、内側から、つかんで。やめさせようと、しているように。
消すな。
消すな。
そんな、声が。聞こえた、気が、した。たくさんの、声。これまで、ここに、影を、置いていった。何人もの、声が。重なって。
でも、颯太は。
歯を、食いしばって。腕に、力を、込めた。
ごし。ごし。ごし。
一枚、また一枚。
消していった。
白い、粉が、舞った。夕日の中で。
影が。
黒板から。
拭い取られて、いった。
濃い、ものから。薄い、ものへ。一枚、また一枚。
颯太は、無我夢中で、黒板を、こすった。
最後の、いちばん奥の、溶けかけた影まで。
全部。
消した。
*
黒板は。
元の、緑に、戻った。
影は。
颯太の、動く影が、一つ、だけに、なった。
颯太は、息を、切らして。
自分の、足元を、見た。
影が。
濃く、なっていた。
さっきまで、床の木目が透けるほど、薄かった、颯太の影が。
今は、はっきりと。
黒い、影に、戻っていた。
黒板から、こすり取った、影が。
颯太に、戻ったのだ。
颯太は、黒板消しを、トレーに、置いた。
窓を、閉めた。鞄を、持った。
もう一度、黒板を、振り返った。
何も、なかった。
ただの、消されたばかりの、黒板だった。
颯太は、教室を、出た。
もう、二度と、掃除当番の日に、一人で、最後まで、残るのは、やめよう、と、思いながら。
*
この記録を作成したのは、柴田静流である。
颯太から、直接、話を、聞いた。颯太とは、同じ学年で、わたしは、隣の、組だった。
颯太は、その日から、しばらく。
黒板を、見るのが、怖かった、と、言った。
今でも、時々。
放課後の、教室で。黒板を、じっと、見つめて、しまう、ことが、ある。何を、見ているのか、自分でも、わからない、と、言う。
わたしは、一つだけ、確かめた。
「黒板を、こすって、影を、消したら。自分の影が、濃く、戻った」
「うん」と、颯太は、言った。「消したら、足元の影が、濃くなって。次の日、ちゃんと、出席を、取られた。村上も、すぐ、気づいてくれた」
「黒板に、置いてきた分が。戻ってきた」
「たぶん」
わたしは、ノートに、書いた。
「放課後の影。一人で残った教室で、夕日が黒板に映す影が、日ごとに重なり、置き去りにされる。その分、本人の影が薄れ、存在が薄れる。黒板から消せば、戻る」
*
わたしは、この町の、名前のことを、調べた。
影見町。
由来を、調べた人は、何人か、いた、らしい。けれど、どれも、決定的な、答えには、たどり着けなかった。
「影を見る町」だ、という説。
「影に、見られる町」だ、という説。
わたしは、どちらも、正しいのだと、思う。
昔から、日本では。
影は、その人の、もう一つの、姿だと、された。
影を、踏まれると、嫌な、気がする。影が、薄い人は、長くない、と、言う。影を、取られると、魂を、取られる、と、言う。
影踏み、という、遊びが、ある。鬼が、人の、影を、踏む。踏まれた人が、次の、鬼に、なる。
あれは、ただの、遊びでは、なかった、と、わたしは、思う。
昔の人は、知っていた。影は、踏める。影は、つかめる。影は、その人から、引き剥がせる。だから、遊びの、形にして。子供に、教えた。自分の、影を、踏ませるな、と。夕暮れに、影が、長く、伸びたら。早く、家に、帰れ、と。
影が、いちばん、長く、伸びるのは。夕方。
影が、本体から、いちばん、遠くまで、届くのは。夕方。
そして。その影が。何かに、貼りつきやすいのも。夕方。
逢魔が時。
影見町では、特に。
影は。ただの、光の、欠けた場所、では、ない。
その人の、存在の、一部だ。
影見町では。
その、影が。
夕方になると。
ほんの少し。
本体から、離れたがる。
*
わたしは、影見神社の、縁起を、調べた。
北の端にある、古い、神社。
その、縁起に、こんな、一節が、あった。
「此の地には古より影宿り、夕べになれば世の境ゆらぐ」
この土地には、昔から、影が、宿っている。夕方になると、この世と、あの世の、境目が、ゆらぐ。
夕べ。
逢魔が時。
昼でも、夜でも、ない、その、わずかな、時間。
影が、いちばん、長く、伸びる、時間。
その時間に。
一人で。動かずに。光を、背にして、立っていると。
影が。本体から、離れて。どこかに、貼りついて、しまう。
壁に。床に。
黒板に。
昔の、子供は。
夕方、一人で、外に、いては、いけない、と、言われた。
影が、伸びて。誰かに、踏まれる、から。取られる、から。
颯太は、放課後、一人で、夕日の、教室に、いた。
毎週。
影が、伸びて。黒板に、貼りつくのに。
ちょうど、いい、時間に。
*
追記。
わたしは、颯太の、ほかにも。
放課後の、教室で、おかしなものを、見た、という、生徒が、いないか、調べた。
一人、いた。
数年前に、卒業した、先輩。
その人も、よく、掃除当番のあと、一人で、教室に、残っていた、らしい。
その人は。
卒業の、少し前から。
誰の、記憶にも、残らなく、なった、という。
卒業アルバムに、写真は、ある。名前も、ある。
でも。
同級生に、聞いても。「そんな人、いたかな」と、言う。
はっきりと、覚えている人が、誰も、いない。
その先輩は。
黒板を、こすって、影を、戻すことを。
知らなかったのだ、と、思う。
毎日、毎日、影を、黒板に、置いて。
最後には。
全部、置いて、しまった。
わたしは、その先輩が、使っていた、教室を、調べた。
今は、別の、クラスが、使っている。
放課後、誰も、いない、その教室に、入って。黒板を、見た。
夕日が、差していた。
黒板の、緑の、面に。目を、凝らすと。
うっすらと。
人の、形をした、染みのような、ものが。幾重にも、重なって、残っている、気が、した。
布で、こすっても、消えない。黒板の、奥に、染み込んだ、何か。
わたしは、それ以上、こすらなかった。
こすって、戻せる、影なら、いい。
でも、もし、こすって、はがれた、影が。わたしの、ものでは、なく。先輩の、ものだったら。
それは、わたしに、戻ってきて、しまう。
わたしは、教室を、出た。
今、その先輩の、影が。
どこかの、黒板に。何十枚も、重なって、貼りついて、いるのかも、しれない。
本体が、いなくなっても。
影だけ。
*
この第一話を書き終えた夜、わたしは、自分の、部屋の、壁を、見た。
電気スタンドの、明かりが。
壁に、わたしの、影を、映していた。
一つ、だけ。
わたしは、少し、安心して。
でも、ふと、思った。
昼間、学校で。わたしは、何度、夕日の、教室に、一人で、いただろう。
黒板を、こすって、消す。
わたしの、影も。
知らないうちに。どこかの、黒板に。
一枚くらい。
置いて、きて、いるかも、しれない。
わたしは、立ち上がって。
壁の、自分の影が。
ちゃんと、自分と、一緒に、動くのを。
確かめた。
影は。
一緒に、動いた。
今夜は。
それで、よかった。
*
この記録を読んでいる、あなたへ。
もし、あなたが。
誰も、いない、部屋に。一人で、いるとき。
夕方の、光が。あなたの、影を。壁に、映していたら。
その、影を。
じっと、見つめないで、ほしい。
長く、見ていると。
影が、二つに、見えてくる、ことが、ある。
一つは、あなたと、一緒に、動く、影。
もう一つは。
動かずに、立っている、影。
それは、あなたが。前にも、その場所に、一人で、いた、ときの。
置いて、いった、影だ。
そして、もし。
壁の、影が。あなたより、濃く、見えたら。
あなたの、足元の、影が。床が透けるほど、薄く、なっていたら。
その、影を。
拭い取って、ほしい。手で。布で。何かで。
壁から。床から。
あなたの、影を、こすり取って。
あなたに、戻して、ほしい。
そして。
夕方の、誰もいない部屋に。
一人で、長く、いるのは。
やめて、ほしい。
逢魔が時に。
影は、伸びて。
あなたから、離れたがる。
そして。もし、あなたが。最近、誰かに、名前を、呼び飛ばされたり。集合写真の中で、自分を、すぐに、見つけられなかったり、することが、増えたら。
気を、つけて、ほしい。
それは。あなたの、影が、もう。どこかに、何枚か、置き去りに、されている、しるしかも、しれない。
夕方の、窓ガラスに、映る、自分の、影が。いつもより、薄く、見えたら。
その日は、早く、家に、帰って。
明るい、部屋で。自分の、影が、ちゃんと、濃いことを。確かめて、ほしい。
ここは、影見町。
影を、見る町。
影に、見られる町。
──第一話 放課後の影 了──




