第6話 怒りのあとに残った冷静さ
「ルミナリア嬢!」
怒りに支配されたまま校舎に向けて走っていると、背後から唐突にめちゃくちゃ良い声で呼び止められる。
推しの、声がした。推しの声がした! 大事なことなので、思わず二度言う。
振り返る。驚いて、悔しさに滲んでいた涙がポロリと落ちた。
後から追ってきたのは、エドワードではなくて——間違いない。赤茶の髪に新緑の瞳。攻略対象の騎士団長の息子、アルベルトだ!
突然の攻略対象との遭遇に、びっくりして少し怒りが散ってしまう。
「ああ、もう大丈夫みたいですね……。さっき、少し危なかったですよ」
私が立ち止まると、アルベルトはそう言った。声が良い。
「アルベルト——様?」
いけない。思わずいつもの癖で呼び捨てにするところだった。
アルベルトは、心配げに眉を顰めてこちらを見下ろしている。うわ、こうして目の前に立たれると、改めて背が高いことを実感するな。
「私の名前をご存知なのですか?」
聞き惚れながらも咄嗟に、そこだけ確認する。攻略対象に存在を認知されているなんて、いったいどういうことだ?
「あなたの父君は、王宮でも有名な外交官です。それに、あなたは一年生の中でもかなり優秀だと、アントン——ベルモント侯爵令息が言っていましたから」
「まあ……」
アントン、学年一位の宰相の息子か。確かに成績は良いほうだけど、まさか彼に捕捉されていたとは。
「それより、私も温室にいたのですが……先ほど、少し魔力が漏れていましたよ?」
「魔力が? え、なんです?」
声が良すぎて、内容がまるで頭に入ってこない。言葉の意味はすり抜けていくのに、ビロードのように滑らかで極上な声だけが、耳に残る。
「まれに、強い感情がきっかけで魔力が漏れることがあります。外に出た魔力が不安定なまま魔法になろうとすると、危険なんです」
少し険しい表情で、そう続けられた。
「はあ」
私は、アルベルトの声に聞き惚れながら、ぼんやりと相槌を打つ。
あれほど攻略対象を避けていたと言うのに、私ときたらこの素晴らしい声をずっと聴いていたくなっている。だって、前世で本当に大好きだった声優さんの声が、目の前で話しているのだ。
「……大丈夫ですか」
少しだけ声のトーンが落ちる。
「かなり、動揺されているように見えましたが」
——いけない。声が良すぎて思わず、上の空になっていた。
「だ、大丈夫です。ご心配をおかけしてすみません」
慌ててそう言うと、いっそう心配げな表情になる。
「あの人とは、婚約破棄……する予定で……いえ、絶対にします」
重ねて、握り拳でそう言ってみせる。空元気に、見えるかもしれない。でも、これでどうにか、声に聞き惚れていたのを誤魔化せるといいんだけど。
推しの声ってすごい。さっきまでの怒りが、どこかへ消えてしまった。
「よろしければ……」
アルベルトは一瞬、迷うように視線を下げた。それから、ドキッとするくらい真っ直ぐに見つめられる。
「私も証言しましょうか? 偶然とはいえ、立ち会ったのですから、本当に婚約破棄をされるのなら、あなたの名誉のために第三者の証言はあったほうがいい」
新緑色の瞳が、責任感に輝く。そうそう、こういう正義感あふれたキャラだった。他の攻略対象より少なめのセリフも実直で、誠実で、理想の騎士様という感じで。
ドキドキしながら、言われた言葉の意味を考える。え、どうしよう。なるべく攻略対象とは絡みたくないんだけど、確かに王太子殿下にも信頼されている伯爵令息に証言してもらえたほうが、婚約破棄の根拠として強い。
「……本当に、よろしいんですか?」
悩んだ末に、そう答えた。
「もちろんです」
良い声の騎士様が、微笑んで頷く。
「それでは、父に証言してもらってもよろしいでしょうか?」
今回だけ。今回だけ特別だから。自分に言い訳をするように、そう言い聞かせながら、私はアルベルトに証言をお願いする。馬車まで送ると言われたけれど、アルベルトとはそこで別れた。
帰りの馬車に乗り込むと、またさっきの浮気現場を思い出してムカムカしてくる。信じてたのに、ひどい裏切りだ。
最低。ゲームに出てくることもないモブのくせに、私みたいなヒロインを婚約者に持ちながら浮気するなんて、本当にありえない。
そう思って、ギクリとした。——今のは、ひどく傲慢な考えではなかったか?
確かに私はヒロインとして転生したけど、ヒロインはやらないと自分で決めて、そうして選んだのがエドワードだった。
将来は結婚するつもりで、子供の頃から交流をしてきた。仲良くなれて安心した。エドワードは私のことを可愛い、素敵だといつも褒めてくれて、それで私は安心していた。
でも、私は信頼はしていたけれど、恋はしていなかったと思う。
どこかで、私はヒロインなんだから、モブなのに付き合えることをありがたいと思え。みたいな、驕りがあったんじゃなかろうか。
……対等に、思っていなかったのかもしれない。
エドワードが浮気をしたことは事実だ。これは間違いない。だから、この婚約は絶対に続ける気にはなれない。
でも、婚約を破棄してしまうと、お互いの家門に傷がつく。学園でも、間違いなく噂になる。果たして、私がスッキリするため以外で、そこまでする必要はあるだろうか。
昔のエドワードを思い出す。学園に入ってすぐくらいまでは、エドワードは理想的な婚約者だった。ちゃんと大事にしてくれていたし、楽しかった思い出だってたくさんある。エドワードのご両親にも、よくしていただいた。
ふと、先ほどのアルベルトの言葉を今になって思い出す。魔力漏れの気配がしたと、そう言っていた。ちょっとゾクっとした。
私は少し集中して、体内の魔力を循環させてみる。身体が、少しずつポカポカと温かくなってきた。大丈夫、今はもう、落ち着いている。
そういえばこれも、子供の頃にエドワードと二人で練習したことだった。
婚約は、破棄じゃなくて解消でもいいかな。怒りはまだあったけれど、私は私がスッキリするためだけではない選択をしようと思った。
帰宅後、私はすぐに父に話をした。学園で流れていたエドワードの不名誉な噂。最近会えずにいて、これまで感じていた不安。そして、マリアンヌからの目撃情報と、先ほど見てしまった、決定的な瞬間のこと——。
悔しくて、悲しくて、涙が滲んだ。
アルベルトが、証言をしてくれると言っていたことまで説明すると、父は眉間に皺を寄せて、うーんと唸った。
「どうしても、許せないんだね?」
涙ぐみながら頷く。信頼していただけに、裏切られたショックが大きい。しかも、本気で私以外の誰かを好きになったのではなく、あんなふうに——遊びみたいな軽い気持ちで浮気をするなんて。
一度浮気をした人間は、何度でもする。前世のSNSでバズっていたそんな呟きが、頭に浮かぶ。これから先の人生で、ずっと疑いながら付き合い続けていくなんて、絶対に嫌だ。婚約破棄まではしなくて良いけれど、このまま婚約を続けるのは到底無理だった。
そういった考えを、つっかえながら父に伝える。私の訴えを聞いた父はしばらく黙り込んで、最後には「ラングレー子爵家に、婚約解消の話し合いを申し込もう」と言ってくれた。
アルベルトの証言がなくても、私の気持ちを尊重して婚約解消に動いてくれる父に、私は心の底から感謝した。政略結婚だってまだまだある世の中で、父は私のことを家のための駒ではなく、かけがえのない娘として大事にしてくれている——。改めてそれがわかって、ホッとした。




