第5話 温室で見てしまったもの
次は、噂だった。
「ラングレー子爵令息、ずいぶんと大盤振る舞いしているらしいな」
「実家のやっているカフェに、クラスメイトを招待しては豪遊しているっていう噂か? 同じクラスの奴らが羨ましいな」
「この前は、伯爵家の令息が、特別室に恋人を連れて行ったらしい」
「待て待て? 恋人ってことは……婚約者以外の女を連れ込んだってことか?」
「やるねぇ」
クラスの男子が、そんな噂をしているのを聞いてしまった。どこまで本当かはわからないけれど、あまり良い噂ではない。
おじさまはご存じなのかしら。そんなことを考えながら、友人たちと食堂へ行く。社交が忙しいという理由で、先々週から、週に一度の二人での昼食はお休みになっていた。
月に一度の約束も、今月はまだしていない。ほんの一ヶ月前までは、あれだけ仲が良かったのに……。なんだか最近、エドワードのことがわからなくなってきていた。
「ソフィア様……今、少しよろしいですか?
その日、私たちが食堂へ向かおうとしていた時、フィオナ・モンロー子爵令嬢が、周囲を確認しながら、おずおずとした様子で声をかけてきた。 私は、マリアンヌとセリーナに先に行くように伝えて、教室の隅に立ち止まる。
「なんでしょう?」
「あの、実はあなたの婚約者と、私の婚約者がちょっと仲違いしたらしくて……。あなたの婚約者のラングレー子爵令息に、最近あまり良くない噂があるの、ご存じ?」
先日、クラスメイトたちがしていた下世話な噂話を思い出す。あんな噂が、彼のクラスでもあるのだろうか?
「ごめんなさい。私、よく存じ上げなくて……」
そう答えると、フィオナ様は、言いづらそうに続けた。
「まだ、噂……なのだけど、ラングレー様が最近クラスの女生徒たちを引き連れて、放課後に街で豪遊なさっているとか……、素行のあまりよろしくないと評判の伯爵令息とお付き合いがあるとか……。あくまで、まだ噂、なのですけれど。それが原因で、私の婚約者とも仲違いしたようなの。……私、こんな噂にあなたまで巻き込まれたら、大変だと思って」
私は息を呑んだ。そんな、まさか、そこまでひどい噂が回っているなんて。このまま放っておけば、きっとラングレー家の商売にも影響してしまう。あんなに、家業を誇りに思い、大切にしてきたエドワードが、そんなことを本当にするだろうか?
近いうちに、エドワードときちんと話さなければ——そう考える。
「教えてくださってありがとうございます。私から、きちんと話を聞いてみようと思います」
「ええ、そうね……きっと、お二人で話し合われたほうが良いわ。急に呼び止めて、ごめんなさいね」
フィオナ様はそう言って、友人たちの待つ自分の席に戻って行った。
けれども、エドワードとの月に一度の約束は、結局うやむやのままで過ぎて行った。
「ソフィア……こんなことを言って、嫌われたら怖いのだけど」
マリアンヌが、青ざめた顔で話しかけてきたのは、翌月のある日の放課後のことだった。帰り支度が終わり、鞄を手にしたところだった。
「どうしたの? マリアンヌ」
「あの、ね……。この前、カフェ・ルミエールの予約が取れて、家族で行ってきたのだけれど……その時、見てしまったの」
両手を握りしめて、不安げな口調でマリアンヌが言う。私は、嫌な予感に自然と眉を顰めた。
「——何を?」
訊きたくないのに、訊いてしまった。何かが、崩れてしまう予感。
胸の奥がギュッと締め付けられるような感覚に、私は呼吸を浅くする。
「ラングレー子爵令息が、同じクラスのカロリーナ・モンテフィオーレ伯爵令嬢と、二人で店の奥に消えていくのを、私、見てしまったの……」
「え……?」
なぜ、ここでカロリーナさんの名前が出るのだろう? 私は言われた言葉の意味が飲み込めずに、マリアンヌを凝視した。気まずげに、でも気遣わしげに私を伺う視線に、だんだんと理解が追いついてくる。
でも、そんな——。
だって、エドワードはあの時、『こんなに可愛くて素敵な婚約者がいて、他の女性に目を向けるなんて愚かなことはしない』って、確かにそう言ったもの。そう言って、笑ったもの。
けれども、同時に私のことを意地悪げに見る、カロリーナさんの顔も思い出す。いつも、褒めているようで当てつけのようなことを言って、絡んできていたことを。
「——私……、エドワードに訊いてくる!」
私は、そう言って鞄を握り締め、教室を飛び出した。
そのまま、エドワードのクラスの教室に行く。扉を開けて中を覗き込むと、半数ほどがまだ残っていたが、エドワードの姿はない。カロリーナさんの姿もなかった。気持ちの悪い不安が、胸に湧き起こる。
「エドワード……様が、どちらにいらっしゃるか、ご存じの方はおられますか?」
チラチラとこちらを伺っている集団に声をかける。
「……温室に向かったようだよ」
教室の後ろのほうにいた、真面目そうな男子生徒が、少し険しい表情でそう教えてくれた。私はお礼を言って、温室に向かうことにした。
温室は、校舎から少し離れた場所にある。銀杏並木の下の小道を、五分ほど歩いたところ。入学直後にエドワードと一度覗きにきたきり、それ以降行ったことはない。植物の並んだ棚が所々にあって人目を避けやすく、ちょっとした『大人のデート』の定番コースのようになっているからだ。
銀杏並木は、初夏の陽射しの中、青々と葉を茂らせていた。不安な気持ちを胸に、トボトボと歩く。
きっと、噂のことを聞いたら驚いた顔をして。そうして、困ったように笑ってくれる。誤解されてしまって困っているんだ。君のことを心配させたくはなかったんだけど——そんなことを言って。
でも、噂がもしも本当だったら? カロリーナさんの何かを含んだような笑みが脳裏に浮かぶ。ダンスの授業の途中で、誤魔化すように歪に笑った、エドワードの顔も。
硬く鞄を握りしめていた手が、冷たくなっていた。意識して少し手の力を緩める。信じたい、でも。
黙々と、歩き続けて、温室までやってきた。扉を押し開けると、初夏の暑さよりもなお温かい、ムワッとした空気が出迎えた。
手前には少し珍しい温帯の植物。そして奥のほうにはこの国では珍しいバナナの木が植わっていて、所々に配置された棚には、どこか異国情緒のある熱帯の植物が雑然と並んでいる。足音を忍ばせ、人影のある場所を探してゆっくりと見て回る。
いくつめかの棚の影に、エドワードの茶色い髪が見えた。——いた。そして、その腕の中には、カロリーナさんが抱き寄せられていた。
「そろそろ帰らなくちゃ。ごめんね。今日はちょっと父に呼ばれていて、君を街には連れていけないんだ」
「あら、そんな……。寂しいですわ。エドワード様」
「カロリーナ嬢、君、そんなことを言って、例の伯爵令息様のことはもう良いの?」
少し意地悪な顔をして、エドワードがカロリーナさんに問いかける。
「まあ、意地悪ね」
カロリーナさんは蠱惑的に微笑んで、エドワードによりいっそう寄り添った。ほとんど、抱き合っているような姿勢だ。
二人は見つめ合ってクスクスと笑う。恋人同士と言うより、共犯者のような笑みだった。
私は、棚の陰から呆然と立ちすくんでそれを見つめた。胸がずきりと痛んだ。呼吸が浅くなる。
ねえ、エドワード。あなた、こんな遊びみたいに、私のことを裏切るの?
「では、お別れに口付けをくださいな。あの可愛らしい小動物のような彼女とは、まだしていないんでしょう?」
「仕方ないな……なんでそんなにソフィアに張り合うんだか」
「ふふふ……。だって、あの方ちょっと、可愛らしすぎるでしょう?」
軽い口付けだった。交わすセリフと同じように、中身のない、軽いキスだった。でも、私にはそれが決定的な、許し難い裏切りにしか見えなかった。
「今、キスしてたよね……? どういうこと? ……信じていたのに。最低。この裏切り者」
私は、わざと足音を立てて二人の前に姿を現した。
「ソ、ソフィア!? いったいいつからここに……!」
「あら、見られてしまいましたわね」
顔を強張らせるエドワードと対照的に、カロリーナさんはどこか得意げに微笑んだ。婚約者がいる男性に言い寄るなどという、淑女にあるまじき恥ずかしい行為。それでいてなぜ、そんなに余裕たっぷりなのか……正直言って、理解に苦しむ。
「——私、学園に入るまではあなたを選んでよかったって、ずっとそう思っていたのに……噂を聞いた時も、あなたがそんな卑劣なことをするはずないって、ずっとそう信じていたのに……こんな裏切り、あんまりだわ。もう許さない。父に話して、この婚約は破棄します!」
頭に血が上っているのに、どこかで冷めている自分がいた。怒りに任せて口走りながらも、なんて言えば一番ダメージが大きいのか、計算している。
「ソフィア、待ってくれ!」
「エドワード様……!」
カロリーナさんの腕を振り解いたエドワードが、焦った顔でこちらに駆け寄ってくる。
「違うんだ、今のは——」
「来ないで!」
怒りで目の前が真っ赤に染まる。伸ばされた手が、触れる寸前――ぱちり、と弾かれた。
「痛っ」
エドワードは驚いたように手を引く。よくわからないけど、触れられなくて良かった。
「あなたとは婚約破棄するから!」
「そんな……ソフィア!」
また近づかれないうちにそう強く言い捨てて、温室から飛び出す。
本当に、信じられない。まさか、こんな不実なことをするなんて——。




