第20話 名前で呼ばれる関係
「私、どうしてあんなにヴィルヘルム様に嫌われているのでしょうか?」
帰りの馬車で、思わずアルベルトに訊いてしまった。ゲームでも王太子の保護者を自認していたヴィルヘルム。王太子を利用しようと近づく相手には容赦のない腹黒キャラではあったが、ヒロインに対してあんな態度が悪かったことはなかったのに。
「あの方は、本当に子供の頃から王太子殿下を大切になさっているので……。それ以外ではむしろ、かなり寛容な方なのですが。きっと、何か誤解があるのだろうと思います」
アルベルトも戸惑いを隠さない。そうよね。私、別に王太子には近づいたりしていないもの。アルベルトが生徒会に入って、サロンで待つようになったから接点ができてしまったけれど、私から王太子殿下に声をかけたことなど一度もないのに。
「私が婚約する際に、先にお伝えしておかなかったことで、不用意に警戒させてしまったのかもしれません」
「先に教えてもらえなくて拗ねていらっしゃるというの? あの方が?」
「そういう可能性もある、ということです。あの方は、内心をほとんど口にされないので、私には推測することしかできません。すみません、ルミナリア嬢。私がもっとうまく立ち回れれば、不快な思いをさせずに済むかもしれないのですが」
今日のアルベルトはいつもよりも饒舌だ。心地の良い声が謝罪するのを、居心地悪く感じる。悪いのはアルベルトではないというのに、なぜ謝罪するのか。
「ずいぶんと仲がよろしいのですね」
思わず、自分まで嫌味が出てしまう。アルベルトの困ったような顔を見て、でもすぐに後悔する。
「まあ、でもヴィルヘルム様はもうじきご卒業なさりますもの。そうしたら、もうあんなふうにからまれることもなくなりますわ」
安心させるように言う。この人の前で泣いてしまってから、私がアルベルトといて安心するように、アルベルトにも私といて安心して欲しいと、そう思うようになった。
「私としては、ルミナリア嬢のいいところをちゃんと見てもらって、誤解を解いておきたいのですが」
「私も、できれば誰とでも仲良くやりたいものですが、気が合わないものは仕方がありませんわ」
私は、コミュ力お化けのゲーム通りのヒロインじゃないのだから、仕方がない。あんなに意地の悪いヴィルヘルムと恋愛できるヒロインって、やっぱり心臓に毛が生えているんだわ、きっと。
「そう言えば、これ、直りましたよ」
アルベルトがそう言って取り出したのは、階段から落ちた時に壊れてしまった、ルビーの薔薇の髪飾りだった。
「金は柔らかくて傷がつきやすいとのことで、少し手直しはしたそうですが」
差し出されたそれを見つめる。あの日、無惨に壊れてしまった髪飾りは、ほんの少しだけ姿を変えて、でも確かにこの手に戻って来た。
「着けてみてくれませんか?」
言われて、おずおずと手を伸ばす。私が触れても、壊れたりしないだろうか。そんな不安が浮かぶけれど、あの日、壊れたら何度でも直せばいいと言ってくれたアルベルトの言葉が、私の背をそっと優しく押す。
「ありがとう、ございます……本当に、もう一度これを着けられるなんて」
私は、今日着けていたエメラルドの髪飾りを外して、ルビーの髪飾りを着け直した。
「髪の色に映えて、よくお似合いです……ルミナリア嬢」
名前を呼ぶタイミングが、いつも少し間があることに気がついたのは、つい最近。ほんの数日前のことだ。
階段から落ちた瞬間——あの時、アルベルトは私のことをソフィアと、そう呼んだ。ゲームではありえない展開。だって、あのゲームでは、ヒロインへの呼び方が変わるのは、確実に攻略対象のルートに入った時だったから。
「ソフィアとは、もう呼ばないのですか?」
これを確認するということは、アルベルトのルートに入るということだ。もう、戻れない。私は、そう思いながらも、その一言を切り出した。
「……呼んでも、構わないのですか? 踏み込んでも、よろしいのですか?」
アルベルトが確認するように答えてくる。思っていたよりも重たい雰囲気だ。
「本当は、婚約した時に呼び方を変えてもいいか、尋ねるつもりでした。——でも」
そこで少し迷うように視線を外し、少ししてからまた、真っ直ぐに見つめてくる。いつだって、誠実なその瞳は、私を優しく見守ってくれている。
「あなたは婚約を解消したばかりで、傷ついておられた。とても、すぐに新しい関係を始められるようなふうではありませんでした。だから、私は無理に距離を詰めるのをやめようと決めました。あなたを、怖がらせたいわけでも、困らせたいわけでもなかった」
どこまでも誠実に、礼儀正しく、敬意をもって扱われる。本当の意味で大事にされるということを、私はアルベルトの態度から知っていった気がする。
だからこそ、今なら応えられると思った。
「確かに……婚約したばかりの頃にそう訊かれていたら、少し身構えてしまったかもしれません。男性なんてもう懲り懲り、そんなふうに思っていましたから」
外したエメラルドの髪飾りを、手のひらで弄ぶ。恥ずかしいけれど、でもちゃんと伝えなければならない。
「けれども、あなたは無理に踏み込んでこないで、ただ守り続けてくれました。私の身体も、名誉も。それがとても心強くて……嬉しくて。私はきっと、安心するたびに、少しずつあなたのことを好きになっていったのだわ」
息を呑む音が聞こえた。好き、と。私のほうから言ってしまった。頬が熱くなる。アルベルトの顔を見るのが怖い。
「ルミナリア嬢……ソフィアと、そう呼んでもよろしいですか?」
ゲームでも聞いた、ルート確定のセリフ。けれども、ゲームの中のボイスとは違って、その声はかすかに掠れ、震えていた。前世でも毎回ドキドキしながら聞いたけれど、今はもっとドキドキしている。心臓が壊れてしまいそう。
アルベルトはどこか苦しそうに、請うように私を見つめている。私は、黙ったままこくりと頷いた。
「ソフィア、私も君が好きです。——やっと、呼べました」
微笑む顔が、スチルでも見たことがないほど赤く染まっていた。照れた顔が可愛く思えて、私は身悶えしそうになりながらこくこく頷く。
変なことを叫んでしまいそう。キュン死する! とかそういう、貴族にあるまじき言葉を口走ってしまいそうで、私は必死に口を噤む。アルベルトはただ、嬉しそうに微笑んでいる。
馬車の中は静かだったけれど、今の私たちにとって沈黙は、ただ心地の良いものだった。私たちは馬車が家に着くまで、この甘い沈黙を分かち合った。




