第19話 穏やかな時間に差し込む影
階段から落ちた日から数日経った。泣き顔を見せてしまったせいか、なんだか気持ちがすっきりしている。今までは、アルベルトとの婚約を、攻略対象を避けていたのに、私が前の婚約者とうまくやれなかったせいで、結局ゲーム通りの展開になってしまった、と後ろ向きに感じていた。けれど、今はアルベルトとの関係を前向きに考えてもいいかな、という気持ちになっていた。
壊れてしまっても、何度でも直せばいいのだと、アルベルトが言ってくれたから……私は、アルベルトを、安心できるライナスの毛布としてだけではなく、いずれ結婚する予定の男の人として、信じてもいいかなと思い始めている。
アルベルトは、正式に生徒会入りが決まって、引き継ぎが始まることになった。これからは、これまで通りに放課後私を送っていけなくなるというアルベルトに、私は待っていてもいいかと訊いた。これまでなら、決して私からは詰めなかった距離を、自分の意思で詰めることにしたのだ。
来年の生徒会のメンバーは、生徒会長をやっていたヴィルヘルムが卒業し、代わりに副会長だった王太子が会長に。新しい副会長をレオニードが、庶務をアルベルトが引き継ぐ。そこに会計として、一年の総合一位の成績で側近でもあるアントンが入り、もう一人書記として王太子の婚約者であるクラリッサ様が入ることになっている。乙女ゲームらしい、全体的にキラキラしているメンバーだ。ゲーム通りに誘われなくて良かった。私は本気でホッとしている。
引き継ぎが始まると、私は放課後を一人で過ごす場所を探し始めた。最初は教室で持ってきた本を読んで過ごしていたのだが、相変わらず下世話な男子の噂話が遠慮なく聞こえてくるので、居心地が悪くて断念した。
そして次に、図書室に行くことにした。一般的な男爵家である我が家は、外交官の父がいるため他国の本や辞書などは充実しているが、普通の一般書は少ない。流行りの小説となるともっと少ないため、そういった本を読むのにちょうどいいと思ったのだ。
読書はクラスメイトのセリーナの趣味でもあるし、せっかくだからお勧めの本を教えてもらおう。そんな感じで通い始めたが、恋愛小説を読むのにハマっているセリーナに、騎士との恋愛小説ばかり勧められて辟易してしまった。参考にって、したくないわ! こんなキラキラした恋愛、向いてないから!
そうして、居場所を求めて彷徨っていた私に声をかけてくれたのが、アントンの婚約者であるヴィクトリア様だった。ヴィクトリア様もアントンの迎えを待つのに、専用のサロンで時間を潰されているというのだ。生徒会の仕事を終えたあとはクラリッサ様も、王太子とご一緒にたまにヴィクトリア様に会いに立ち寄られるという。
淑女としてのレッスンもしてくれるというので、私はありがたくお邪魔させてもらうことにした。侯爵令嬢のヴィクトリア様からマナーや教養を学べれば、高位貴族向けのものとして間違いがない。
その日は、苦手な刺繍をヴィクトリア様に見てもらっていた。気をつけて少しずつ丁寧に刺しているつもりなのに、均一の厚みにならなくて、たまに布が寄ってしまう。
「もっと肩の力を抜いて。強く刺しすぎているから、枠で固定しているのに布が引っ張られてしまうのよ」
「はい」
強張っている肩を、撫でられて力を抜く。針を刺すたびに緊張してしまって、余計な力が入ってしまうのだ。
「アルステイン家の紋章は、紺色の盾に交差する剣、上に星……モチーフとしては一般的だから、慣れてしまえばうまくできるようになるわ」
ヴィクトリア様の励ましに、頷いて応える。盾を刺し終えて、剣の部分を刺し始めたところだった。前のタオルはかろうじて盾と剣に見える程度のものだったけれど、このハンカチはもっと人前で使えるようなちゃんとしたものに仕上げたい。そんな一心で針を動かしていると、ガヤガヤとした気配が部屋に近づいてきた。
もうアルベルトとアントンが、迎えにきたのだろうか。
「やあ、ヴィクトリア嬢、ソフィア嬢。お邪魔するよ」
「ごきげんよう、ヴィクトリア様、ソフィア様」
二人だけではなく、今日は王太子とクラリッサ様までお立ち寄りになった。さらにその後ろからヴィルヘルムまでついてくる。しかも、私はここでただ刺繍をしていただけなのに、なぜか軽く睨まれた!
高貴な方々の来場に、部屋の隅に立っていた給仕が、慌ててお茶の支度をする。
「ちょっとお茶でも飲んでから帰りたくなってね」
クラリッサ様と並んで腰を下ろした王太子が、軽く肩をすくめてそう告げる。ヴィルヘルムはクラリッサ様の反対側の隣に腰を下ろした。
「ヴィクトリア嬢、そこの下位貴族に無理に頼まれてサロンに招いたんじゃないか?」
ヴィルヘルムが、心配するような口調でヴィクトリア様に声をかける。明らかに私を揶揄する様子だ。
「ソフィア様とは、昨年よりお手紙を交換する仲ですのよ。成績も優秀ですし、仲良くしていただきたくてお呼びしたの」
鷹揚な声で、ヴィクトリア様が答える。ヴィルヘルムは興味なさそうに「ふぅん?」とだけ返した。王太子に釘を刺されているのか、舞踏会の日のように、決して私には声をかけてこない。それはそれでムカつく。本当に失礼なやつ!
「うちの紋章ですね」
嬉しそうにアルベルトが言う。
「まだ、練習中でお恥ずかしいですが……」
照れながらそう答えると、またヴィルヘルムが横から口を出してきた。
「不慣れな様子なのに、ずいぶんと熱心だね。感心してしまうよ。ただ、あんまり健気に頑張りすぎるのも良くないかな? 色々なものの見方をする人が、世の中にはいるからね。どう思う? アントン」
「ぼ、僕にそういうの訊かれてもわかるはずないじゃないですか! それに、遠回しに下手だって言ってるように聞こえます。そういうの……感じ悪いですよ」
急に話題を振られたアントンが慌てて声を上げる。
表面上は頑張ってるね、だけど、内実は頑張りがわざとらしいという嫌味にしか聞こえない。しかも、あくまでも、私に直接言っているのではないというポーズ。本当に腹立たしい。
「ヴィルヘルム様、何か我々に含むところがおありですか? ……らしくないですよ」
さすがに少し険しい表情で、アルベルトが正面から尋ねる。いつも穏やかなアルベルトにしては珍しい。ヴィルヘルムはそれに、軽く肩をすくめて見せた。
「卒業までは婚約者を決めるつもりがないと言っていた君が、急に婚約してビックリしてね……心配して当然じゃないか? セリオンを守る大事な君の剣が、鈍っていないと良いのだけどね」
「あなたが、王太子殿下を何よりも大事に思っていらっしゃることは、私も充分存じております。ご卒業されたら、そばにいて見守ることができなくなると、焦りを感じておられるのも……。けれども、あなたがそんなふうに一人で悪者になる必要はないと、私は愚考いたします」
「……貴族らしさの欠片もない、ずいぶんと乱暴な暴き方をするね、アルベルト。これまで王太子殿下を支える公爵家の嫡男としての立場を崩したことのない、私が悪者だって? 将来の騎士様に、いったいどこでそんな誤解をされたのかな?」
真面目な様子で言い募るアルベルトに対して、ヴィルヘルムはどこまでもまともに取り合わない、高みにいる調子を崩さない。のらりくらりと言質を取らせないように立ち回る様が、いかにも高位貴族らしい。確かに、ゲームでも腹黒いタイプだったけれど、ここまで嫌味っぽいなんて。
「ルミナリア嬢に対しての当たりがきつすぎます。何をそんなに警戒なさっているんですか?」
「君こそ、ずいぶんと感情的に見える。これからは側近としてますますそばにいる時間が増えるのに、それで大丈夫かい?」
「ヴィルヘルム、あまりアルベルトをいじめないでやってくれないか」
黙って紅茶を飲んでいた王太子が、ようやく口を挟んでくる。アルベルトはいじめられてなんかいないわ。嫌味な小舅みたいな相手に負けてなかったもの。私は内心でそう思う。
「心外だな、セリオン。いじめてなんかいないさ。可愛い後輩だもの。心配しているだけだよ」
「今日ここにお邪魔したのは我々のほうだということだけ、思い出してもらえると嬉しいよ。……すまないね、ヴィクトリア嬢」
「いいえ、王太子殿下。私はいつでも歓迎いたしますわ」
ヴィクトリア様が優雅に礼をする。
「クラリッサ、そろそろお暇しよう。——ヴィルヘルムもだ。お邪魔虫にはなりたくないからね」
王太子が立ち上がる。クラリッサ様とヴィルヘルムも続いて立ち上がった。私たちも立ち上がってカーテシーをし、サロンを出ていく王太子たちを見送る。
「刺繍の上達を祈るよ、薔薇の君」
出ていく直前、ヴィルヘルムが笑顔でそう言い捨てていった。全然励まされている感じがしない。
しかもまた薔薇の君って……小さな子供が薔薇を見て薔薇の歌を歌っていただけのことなのに、なんだか馬鹿にされている気がする。このままでは、好きな薔薇まで嫌いになりそう。ああやって、最後まで嫌味を忘れないところ、本当にムカつくわ。




