第18話 壊れても終わりじゃない
新学期が始まった。アルベルトをパートナーとしてデビュタントを終えたことで、正式に私とアルベルトの婚約の事実が広がり、登校時や下校時にアルベルトの家の馬車で送り迎えされることを、周りが当然のこととして受け止めるようになった。二学期が始まった直後に悩まされていた、男子生徒たちに絡まれるようなことはもうない。
そのため、周囲にアピールする意図で学園でなるべく一緒に過ごしていたのを、少し元に戻すことにした。元の通り、クラスメイトのマリアンヌとセリーナとの昼食を再開したのだ。エドワードとの時と同じように、アルベルトとは週に一度だけ、昼を共にすることになった。
また、来年三年生になる王太子が生徒会副会長から会長となる関係で、アルベルトも側近として生徒会入りすることになり、正式に引き継ぎが始まったら行き帰りの送迎も減る見込みだ。
これまでが一緒に居すぎただけ、なのよね。放課後、久しぶりに一人で廊下を歩きながら、そう思う。
エドワードと婚約していた時は、一人で帰るのなんて当たり前のことだったのに、今はなんとも心許ない。一人でいるのをこんなに無防備に感じるなんて、私はいつの間に、こんなにも依存していたのだろう? 寡黙な彼が黙っていても、ただそばにいるだけで安心できる相手に、いつのまにかなっていた。
放課後の廊下は、活気のある人のざわめきが逆に、私が今、一人でいることを浮き彫りにする。背後では、男子たちがふざけてはしゃいでいる様子が耳に入った。同い年のはずなのに、まるでうちの弟みたい。少し呆れながら、階段を降り始める。
ふと、階下の踊り場に、アルベルトの姿を見つけた。
「アルベルト様!」
私は、はしたなくない程度に少し声を上げる。アルベルトがすぐに気がついてこちらを見つめて微笑みかけ——その顔が急に強張った。はしゃぐ声。すぐ脇を駆け抜けていく男子生徒たち。階段を駆け降りようとしていた私の背中に、何かがぶつかる衝撃。
あっと思う間もなく、私の身体は傾き、足が宙を踏んだ。
「ソフィア!」
鋭い声がした。けれども、さっきまでいた場所に、アルベルトが見えない。落ちる——。
ほんの一瞬の出来事なのに、妙に長く感じた。アルベルトが、尋常ではない速度で、階段を数段飛ばしに飛んでくる。一目見て理解した。身体強化魔法だ! 一瞬後には、大きな手が、腕が、私を抱きしめるように捕まえていた。
そのまま、二人で階段を転がり落ちる。周りから悲鳴が上がったのが、どこか遠いことのように聞こえていた。
「……大丈夫ですか?」
庇うように抱きすくめられたまま、私は気がつけば踊り場に倒れていた。下敷きにしたアルベルトの身体には、まだ魔力の残滓があるようで、触れた手がほんの少しピリッとする。
そろそろと起き上がる。私が身を起こすと、アルベルトも同じようにゆっくりと上体を起こした。
「さっき、名前……」
まだ心臓がバクバクと脈打っているのに、私はそんなことが気になって思わず口をついて出た。
「すみません、ルミナリア嬢……許可も得ていないのに、思わず呼んでしまいました。どこか、痛いところとかはありますか?」
焦ったように私を気遣う良い声。いつもと同じ気遣いに、私はようやく深く息をつく。
「特にどこも痛くはありません。庇ってもらって申し訳ありません、アルベルト様こそお怪我は……あっ」
私を支える手の甲に引っ掻き傷があって、みみず腫れのように膨らみ、うっすら血が滲んでいた。
「大変、血が出てます!」
私が慌ててポケットからハンカチを取り出すと、アルベルトは優しくその手を押さえて止めた。
「このくらいの傷なら、自己治癒魔法ですぐに治りますから大丈夫ですよ」
「あの……」
そこへ、手に何かを捧げ持つようにした女生徒が、私たちに声をかけてきた。
「これ、今そこに飛んできたんですけど、あなたのものではないかと」
差し出された『それ』を見て、私はギクリと頭に手をやる。アルベルトからもらったルビーの薔薇の髪飾りが、ない。
手渡された髪飾りは、留め金の根元の部分が割れて外れてしまっていた。完全に、壊れてしまっていた。
一瞬、頭が真っ白になって、それからじわじわと、絶望が広がっていく。これまでのことが、次々と頭を過ぎる。前世を思い出した王宮の庭。乙女ゲーム通りにしないと決めた夜。エドワードとの出会い。楽しかったピクニック。学園に入って変わってしまったエドワード。カロリーナさんと口付けを交わしていたエドワード。
ちゃんと自分で選んだはずなのに、駄目になってしまった……失敗してしまった婚約。
最初の婚約も、ルビーの髪飾りも、あんなに大事にしていたのに、壊れてしまった……。また、壊してしまった……。
「……ナリア嬢! ルミナリア嬢! 大丈夫ですか? こちらを向いてください!」
肩を軽く揺さぶられる感覚に、アルベルトをぼんやり見つめる。常になく焦った様子で、どこか必死に、私に声をかけてくる。
「アルベルト……様……せっかくいただいたのに……壊れて……私が、壊してしまって……!」
悲しくて、怖くて、身体が震える。この髪飾りみたいに、あなたとの関係まで壊れてしまいそうで。
「落ち着いてください。あなたに怪我がなくて良かった。それで、良いんです」
「でも、壊れてしまいました……!」
「修理に出せば直ります。もしも直らなかったとしても、その時はまた贈ります。何度でも」
私が壊れてしまった髪飾りを手に、悲鳴のような声を上げると、アルベルトはじっと私の目を見つめて、ゆっくりと、子供に言い聞かせるように言った。
「ルミナリア嬢……。壊れたからといって、終わりではありません。壊れても何度でも直せば、買えばいいんです」
「いいの……? 本当に?」
オウム返しのように口にする。壊れてしまった信頼。壊れてしまった婚約。壊れてしまった髪飾り。どれも、もう二度と戻らない。取り返しのつかないことだと、私は思っていた。
この世界にヒロインとして転生して、一度でも失敗してはいけないと、私はずっと、そう思い込んで生きてきた。
「とりあえず、修理に出してみましょう。いったん、お預かりしますね」
そう言って、アルベルトが壊れてしまった髪飾りをハンカチに包んで、優しい手つきでポケットへしまう。
私はそれを見て——まるで、壊れた自分を優しく扱われているような気がして、ふいに、涙がこぼれ落ちた。
「あれ?」
落ちた雫を指で払う。それでも、涙は次から次へと流れ出して、止まらない。
「あれ、なんで……」
悲しいわけではなかった。アルベルトの言葉が、ただ私には救いのように聞こえて。そうしたら、急に涙が出て止まらなくなってしまった。浮気現場を目撃してしまった時ですら、泣くことはなかったのに。
「ルミナリア嬢、少し、失礼いたします」
アルベルトがそう言って、私を横抱きにして立ち上がる。そうして、泣いている顔が見えないように、胸元に顔を寄せさせた。
「念のため、保健室へ行きましょう。——皆さん、ちょっとどいてください」
抱き上げた私を隠すようにして、アルベルトが歩き出す。私は涙が止まらないまま、身を委ねた。
保健室へ着くと、すぐにベッドの上に下ろされ、外から見えないようにカーテンを引かれる。
「私はここにいます。落ち着いたら、声をかけてください。送っていきますから」
ビロードのように柔らかい声がそう告げて、私は一人になる。けれども、すぐそばで待っていてくれる人がいる今、もう心細さは感じなかった。




