第17話 赤い薔薇が好きになった理由
デビュタントの舞踏会が終わって二日後。明後日には冬休みが終わって、いよいよ三学期が始まる。
そんなタイミングで、アルベルトと王都に出かけることになった。これまでは学園の行き帰りと、週末ごとに互いの家を訪ねる形だったが、舞踏会で本格的に社交界に婚約の事実が披露されたため、表立って外でも会うことにしたのだ。
昼食を共にとる約束で、アルベルトが予約してくれた店は貴族向けのそれなりに格式のあるところだと聞いたので、それに見合う服装を選ぶ。冬らしい、温かみのある明るめの茶色のドレス。襟と裾、袖口には、濃い茶色のレースが縁取りされている。薄手のカシミアのコートは赤茶。最後の仕上げに、今日はアルベルトからもらったルビーでできた薔薇の髪飾りをつけることにした。
約束の時間通りに馬車が迎えにきて、アルベルトの手を借りて乗り込む。アルベルトは、今日は暗い緑色の長めのジャケットに、黒のズボンを合わせていた。羽織るだけで前を留めていないコートは暗めのグレー。
「今日行くのは、レオニードの実家がやっている店で、彼から最近評判だと聞いたのですが、ちょっと珍しいものが食べられるそうですよ」
そう言って微笑む。今日も相変わらず礼儀正しくて、安心できる佇まいだ。
「楽しみです」
私も、礼儀正しく微笑んで返す。そのあとは沈黙が続くが、居心地は悪くならない。アルベルト相手だと、変な緊張をしなくて済むのが本当に楽でいい。良い声すぎて、たまに聞き惚れてしまうことはあるけど、そういう時も変な顔をせずにただ少し心配してくれるだけなので、安心して会うことができている。
街中を通り、中心街の少し外れの辺りに、屋根まで真っ白な建物があり、馬車はそこで止まった。店の前には、魚の群れを模った彫刻が置かれている。手を借りて馬車から降りる。
そのままエスコートをされ、アルベルトが扉を開けると、まず足元に小さな池のようなものがあることに驚く。店の奥に向かって橋が渡されており、それを渡って店内に行くようだ。入り口を通り抜けると、今度は大きなガラスでできた水槽が、席の並ぶそこかしこにあることにまた驚く。
「アルベルト様、魚がたくさんいますわ!」
私が思わずそう言うと、アルベルトは少し得意そうに笑った。
「海から生きた魚をそのまま王都まで運ぶ方法を、レオニードの家が開発したそうで……ここは、魚介類専門の店なんです」
つまり生簀割烹ってこと? 王都から海まで遠いのにすごい!
私は目を丸くして店内を見渡す。
よく見ると、席の配置も工夫されていて、ちょうどいい具合に水槽が席同士を隠すようになっている。けれども、間にあるのは光を通す水の入った水槽なので変な圧迫感はなく、店内は広々と明るく見えるのだった。
奥から出てきた店員に案内されて、席につく。私の目は、泳ぐ魚に釘付けだ。
「そろそろ、メニューを見ませんか?」
しばらく待ってくれたあとに、アルベルトがそう言ってメニューをこちらに向けて置いてくれる。
「昼のコースがいくつかあるので、軽めにするか、たっぷり楽しむか、あなたの好きに選んでください」
「王都で新鮮な魚介なんて、とても贅沢ですね。アルベルト様はどうなさいます?」
「私は、このコースにしようと思います」
アルベルトが指差したのは、前菜とサラダ、スープ、メインそれぞれにふんだんに魚介を使ったもので、食後にデザートがついた、たっぷりめのコースだった。
「私も同じものを頼みたいです」
「飲み物はどうなさいますか? 私は軽めの白ワインを合わせますが、もし酒が心配でしたら、冷やしたハーブティーを合わせても良いようですよ」
「それでは、私はハーブティーで」
メニューが決まると、アルベルトはさっと手を上げて合図する。待機していた店員がすぐに寄ってきて、注文と引き換えに、温かいおしぼりと、水の入ったカップを置いて行った。
まず、前菜に甘鯛のカルパッチョのようなものが出された。脂が乗っていて、とろけるように甘味がある身に、引き締めるようにハーブとオリーブオイル、レモン果汁が効いていて、とても美味しい。転生してから初めて、生の魚を食べた。アルベルトが生の魚に少し驚いたような様子だったのを見て、これはこの世界では普通の食べ方じゃないんだと初めて気がつく。
「生で魚が食べられるなんて、なかなか得難い経験ですね」
「確かに、生の魚は生まれて初めて食べます。生きたまま運んでくるからでしょうか?」
新鮮でないと生で食べられないのは、前世で知っていた知識だ。感嘆したようなアルベルトの声に、私も調子を合わせる。ペース配分を気をつけないと、あっという間に食べ終わってしまいそう。コース料理は、相手と速度を合わせるのがマナーだ。私が早く食べ終わると、アルベルトもゆっくり食べられない。
感心しながら前菜を食べ終える。
続いて出てきたサラダは、ボタンエビとブロッコリー、ゆで卵をマヨネーズで和えたもので、プリプリとしたエビが、また濃厚で美味しい。
「エビも冬は甘味が増して美味しいとか」
「とても濃厚なお味ですよね」
美味しいものを食べていると、だんだん語彙力が失われていく気がする。美味しい、しか頭に浮かばないのを、必死に言葉を探して口にする。アルベルトが寡黙なタイプで良かった。おしゃべりなタイプだったら、私はグルメ番組のレポーターのように、少ない語彙をフル回転させなくてはならなくなっていただろう。
スープは前世でも食べたブイヤベースを、貴族向けに上品にしたような感じのものだった。貴族にとって貝殻は飾りなので、中身を食べない! この世界で初めて貝殻付きの貝の入った料理を食べた時、これが一番の衝撃だった。出汁を取るためと、見栄えがするように入れているけれど、食べるものではないんだとか。いちいち貝殻から外すのが見苦しいと言う理由らしい。
このスープにも殻の付いたムール貝が入っているけれど、マナー通りそのまま避けて食べる。せっかく身が詰まっているのに、もったいない。
「珍しさで店を選んでしまいましたが、お口に合いますか?」
スープを綺麗に食べ終わったアルベルトが、気遣うように尋ねてくる。
「とても美味しくいただいています。貴重な機会をもらえて嬉しいです。メインも楽しみですわ」
私も、皿の隅に寄せられたムール貝を物悲しく眺めながら、笑顔で答えた。
「それなら良かった」
安心したようにアルベルトが微笑む。ゆっくりと、ワインを楽しんでいる様子を見て、私も安心した。
メインは、前菜と同じ、今が旬の甘鯛のポアレだった。さすがに高級店だけあって、骨は細かいものまで全て抜かれていて、ナイフとフォークだけですんなりと食べられる。前菜と同じように、脂の乗った甘い身をバターを溶かしたレモン果汁が引き締め、皮もパリパリに焼き目がついていて、全てが計算し尽くされた美味しさだった。
デザートはさすがに魚介とは関係のない、さっぱりしたレアチーズケーキだった。メインまでで充分な量があったので、デザートまで食べると少し苦しい。コルセットはゆるめに着けてきたというのに……。
「ご馳走様でした。美味しくて食べすぎたかもしれません。お腹がいっぱいです」
お店を出て、私がお腹を押さえながらそう言うと、アルベルトは少し困ったような顔をした。
「思っていたよりも量がありましたよね」
そう言って、回されてきた馬車に乗り込むのに、また手を貸してくれる。あまりにも当然のように手を差し出されるので、私はすっかり身を預ける楽さに慣れきってしまった。このままでは、一人で移動する時に馬車の乗り降りができなくなりそうで怖い。
「実は、食後に他のカフェにでも行くつもりだったのですが、これだけ食べたあとだともう入りませんよね? どこか、腹ごなしでもできる場所があればいいのですが……女性と食事に出かける経験が少なくて、考えが足りずにすみません」
「それでは、植物園にでも行きませんか? 私、植物が好きですし、歩くにはちょうどいいと思うんです」
「そういえば、先日の装飾品も植物の意匠のものを選ばれていましたね。では、植物園に向かいましょう。私も次はきちんと最後までエスコートできるように、しっかり勉強しておきます」
少し申し訳なさそうにアルベルトが言い、御者に植物園に向かうよう指示を出した。馬車が動き始める。ここでも沈黙が続いたが、重たさは感じられず、むしろとても自然な気がした。
植物園に着いた。春にはたくさんの花が咲くが、真冬の今日は常緑樹だけが葉を残し、あとは枯れた木が並ぶばかりの閑散とした雰囲気だった。
「この季節は、見るものが何もなかったことを失念しておりました……」
今度は私が申し訳ない気持ちでそう言う。けれど、アルベルトは微笑んだ。
「その代わり、空いていますよ。人が少ないほうが、気楽でいいです」
何事もポジティブに受け止めてくれて、本当にいい人だなぁと、私はしみじみ思う。一緒にいて心から安心できる。
ぐるりと外縁をのんびり一周する頃には、苦しさを覚えていたお腹も落ち着いて、少し寒さを感じ始めていた。
「少し、寒くなってきましたね……温室にでも行きますか?」
私がそう提案すると、アルベルトがどこか気遣わしげな顔をする。
「温室に行っても大丈夫そうですか?」
そう訊かれて、私はようやく初夏の学園の温室であったことを思い出した。寄り添って口付け合う、エドワードとカロリーナさんたちの姿が、脳裏に蘇る。一瞬だけ怒りが浮かび、けれどもすぐにその強い感情は消え去った。アルベルトの気遣いが、今はただ嬉しかった。
「ここは学園の温室ではありませんし、もう終わったことですわ。さあ、行きましょう」
私が袖口を軽く引くと、アルベルトは一瞬遅れて横に並んで歩き出す。そのあとも、冷たい風が吹いた時に、そっと私が影になるよう気遣う優しさに、私の胸は温かくなった。
温室に入ると、温かい空気にホッと身体が緩んだ。外の寒々しい雰囲気から打って変わって、南国の花を始めとした色とりどりの花が並んでいる。植物の密集した青臭い匂いが、辺りを漂う。
「さすがに温室は花がいっぱいですね」
私が花々を見ながら上機嫌でそう言うと、アルベルトはゆっくりと歩調を合わせてついてきた。
「そういえば、まだお好きな花を聞いていませんでした。ルミナリア嬢のお好きな花は、なんですか?」
ビロードのような上質な声が、優しく問いかけてくる。私の脳裏に、エドワードと初めて会った時の会話が蘇った。
——薔薇は好き?
——花はなんでも好きよ! もちろん、薔薇もね!
私は、ゆっくりと髪飾りに手をやる。金の台に咲く、可憐なルビーの薔薇。
「花はなんでも好きですわ。……でも、最近は赤い薔薇が好きです」
アルベルトに向かって私はそう告げる。
「もしかして、薔薇が好きというより、ルビーが好きなのかしら。この髪飾りをいただいてから、赤い薔薇とルビーが私にとって特別になりました」
私がそう言うと、アルベルトは嬉しそうに微笑んだ。少し、耳が赤く見える。
「あ、その髪飾り……着けてくださっているのですね。良かった。とても、お似合いです。すぐに気付けず、すみません」
母に叱られてしまうな、そう言って頭を掻く姿が、完璧すぎない等身大で良かった。
甘いものが、それもアップルパイが好物で、ジャガイモの皮剥きが特技で、女性の扱いに慣れていない。婚約者となってから知った、完璧ではない姿こそが、とても好ましかった。




