3話 国境で
「人は自分がされたことしか他人にできないのか」――絶望の果てに見つけた我が子との絆と、繰り返してしまう母の優しい嘘。
テレク川流域を離れて数週間経つ。
季節はすっかり初夏だった。
標高の高い山々には太陽が容赦なく照りつけ、黒海とカスピ海が湿気を運んでくる。
北の大陸育ちには慣れない気候だ。
しかしそれが気にならないほど、マリーヤの心はぽっかり穴があいたようだった。
もっと大昔から、ラトビアにいた頃からあった穴だが、今になってはっきりと意識された。
行くあてをなくすということは生きる目的を失うということとよく似ている。
父がもし生きていて、幼い頃から思い描いたそのままの姿だったとして、自分の身に何が起こると期待していたのだろう。
とにかく明日からの暮らしが役人に脅えることもなく、学校にも通えて、収入にも困らない、そんな夢みたいな願いが叶うと思っていた。
ラトビアを出て11年、自分はいまだに誰かの助けなしには一人で立つことができない、そんな勇気さえない未熟な人間なのだと実感する日々だった。
子どもが気に入って摘んでくる花はどれも大ぶりだった。
しかもお墓に植わっているキスゲをよく引っ張るので止めさせたかった。
もっと手を切らない葉をした小さな花が良い。
そこである休みの日、丘の上で花冠を教えてあげた。
仕事の帰りに見つけた場所で、高山特有の小さな花が絨毯のように咲いていた。
地面に座り、鈴状のそれを摘む。
花冠はラトビアのあの家にいた頃、暇を持て余してあみ出した独自の技だった。
子どもの手では難しいかもしれないと思ったが、なんと形になっていた。
(初めてにしては上出来じゃないか……)
ポカンと見ていると、子どもはもじもじして、ぎこちない形のそれを頭にのせてくれた。
「あ、ありがとう」
子どもの視線が地面にそそがれていた。なるほど、これか。
自分が待っている間に作った指輪とネックレスを渡した。
お礼としては質が不釣り合いに良い気がするが、子どもは嬉しそうにそれらへ頬ずりして、堪え切れずに立ち上がり、草地を飛び跳ねた。
マリーヤはその時初めて親子らしい時間を過ごせた気がした。
今まで移動の連続で、他に遊び道具も大して与えてこなかった。
虫を追いかけたり、ごっこ遊びをしたり、泥団子を作ったりしているのを見たことがあったが、一人では限界があったかもしれない。
「お前は手先が器用だね。誰に似たんだろう?」
彼女自身はその昔不器用で、一日中図書館の本とにらめっこした。
父がこんな得意技を持っていたら面白い。
褒めてもらえて気を大きくしたのか、子どもがマリーヤに話しかけた。
「マーマー、うでどけい、みーせーてー!」
金の腕時計は母の形見だった。
ラトビアのものではない民族模様がベルトと文字盤に刻み込まれていた。
太陽をきらきら反射するためか、子どもは昔からそれを気にしていた。
「いつか似たものを買ってあげよう」
マリーヤは子どもに期待するようになっていた。できるなら父のようになって欲しい。あくまで理想上の。
仕事が終わった昼間、一緒に眠る前に繰り返し『お話』をした。
すっかり映像として頭にしみついている母と父の馴れ初めのこと。
思春期の頃スケッチブックに広げた英雄譚。
この子の手先が器用で、辛抱強い性格は良いところだ。
甘えん坊なところがたまに傷だが、きっと成長しても今日のことを覚えていて、夢の実現に走ってくれるだろう。
ある日そこまで考えてふと気付いた。
人は自分がされたことしか他人にできないのか。
1972年の秋、彼女たちはトルコとの国境沿いの町に訪れた。
新しい町に来た時には、丘に登って花を探すのがすっかり習慣になっていた。
花冠を弄んでいた子どもが、気付けば目の前に居なかった。
名前を呼んで歩いていると、前方に見知らぬ男の姿を見つけて、マリーヤの息が止まった。
その視線の先には一人、なにやら屈みこんで話をしていた。
カーキ色の集団の中に真っ白な小さい頭。
男たちは軍服を身につけている。まずい状況だった。
しかし誰からも緊張は伝わってこない。
マリーヤが近づくと、屈んでいた人物は折れそうなほど細い上半身を持ち上げた。
「Таварищ(タヴァーリシ)! 国境の検問で遊んでもらうと都合が悪い」
胸を張って“同志”という意味の敬称を使う、軍人然とした態度だった。
だが子どもが話しかけると一変した。渡された花冠を制帽に乗せるとまたマリーヤの方を向き直って言った。
「このかわいらしい旅券に免じて、我々はあなた方と会わなかったことにしよう」
マリーヤは顔を覚えられてしまったと思った。早々にここを立ち去るしかない。
この出来事がその後の人生を左右するとは、まだ誰にも思いもよらなかった。
次回は恋愛の話です。
どうぞよろしくお願いいたします。




