帰宅、歪む日常
大通りに出ると、世界は別物になっていた。
車が詰まり、クラクションが鳴り、誰かの泣き声が混じる。
コンビニの前には人が固まり、スマホを掲げている。
撮っているのは怪物じゃない。怪物から逃げてくる人間の波だ。
透と慧は、路地から運び出した男を支えたまま、歩道の端へ押し出されるように出た。
男は足を引きずっている。ふくらはぎのあたりが濡れていて、赤黒い。
「すみません、誰か――」
透が声を張り上げたところで、制服じゃない服装の警官が走ってきた。二人。片方は無線機を握っている。もう片方は拳銃を抜き、視線を左右に走らせていた。
「怪我人か!」
「噛まれて、路地で……」
透が言い終える前に、警官は男の肩を掴んで地面に座らせた。手早い。
無線の警官が止血用の何かを取り出しながら、短く聞く。
「住所、どこだ。救急は向かってる。意識は?」
男がかすれた声で返事をしようとして、咳き込んだ。
遠くで、甲高い悲鳴が上がった。
拳銃を構えた方の警官が、歩道の人間に怒鳴る。
「下がれ! 不審生物から離れろ! 発砲許可が出てる! 近づくな!」
“発砲許可”。
その言葉だけで、周りの空気がひとつ固くなる。
撃っていい。上から許可が出た。
それは、現場の混乱を“戦場”の匂いに変える一言だった。
透は男の顔を見た。唇が震え、目が泳いでいる。
大丈夫なわけがない。
「……大丈夫ですよ」
透がそう言ったとき、自分の声が妙に軽く聞こえた。
言葉だけが先に出た。
慧が透の袖を引く。
「行くぞ」
「……でも」
「ここは警官がいる。俺らがいても邪魔になる」
正しい。腹が立つほどに。
透は唇を噛んで頷いた。
「すみません、お願いします」
無線の警官が短く頷いた。目は透たちじゃなく、周囲の流れを見ている。顔色は悪い。けど手は止まらない。
透と慧は、人の波に押されないように裏道へ入った。
大通りの喧騒が背中に残る。
角を曲がって、ようやく呼吸を取り戻したところで、透は膝に手をついた。
「……やば」
慧も壁に背中を預けて、息を吐く。
いつもなら絶対に見せないような、浅い呼吸だった。
透は自分のポケットを触る。
硬い塊がある。あの“石”。
現実だ、と確かめるように。
「……さっきの、見えたやつ」
透が言うと、慧が目だけ動かした。
「ステータス」
ゲームの単語を口にしたくない。なのに、他に呼び方がない。
「出せると思う?」と慧が続けた。
「知らねえよ……」
透は言いながら、さっきの“感覚”を思い出した。
目の前に文字が浮いたときの、あの気持ち悪さ。
意識を向ける。
目の前じゃない。視界の端でもない。
自分の内側のどこかに触れるみたいに。
――ふっと、視界の奥が開く。
見えた。
誰にも見せていないのに、そこにある。
【観月 透】
【Lv】1
【MP】25
【筋力】11
【敏捷】12
【魔力】13
数字が並んでいる。
意味は分かる。何となくでも分かってしまう。
それがいちばん怖い。
「……出た」
透が呟くと、慧も同時に息を吐いた。
「俺も」
慧の目は、空中の一点じゃなく、内側に沈んでいく。
「Lvって、なに」
透の声が掠れた。
慧が短く言った。
「……倒したからだろ」
透は、路地で殴った感触を思い出す。骨が割れた感触。鳴き声。
そして“ぴたり”と止まった瞬間。
「倒したら、解放」
慧が自分の言葉を噛み締めるように繰り返す。
「じゃあ、みんな……」
「わからない」と慧は言った。
「でも、もしそうなら――」
言い切る前に、慧は視線を落とした。言いたくない結論がそこにある。
遠くでまたサイレンが鳴った。
近い。いくつも。途切れない。
「帰るぞ」と慧が言った。
透は頷いた。
帰る。家に。母と澪がいる。
歩き出したところで、慧が付け足すように言った。
「俺の家はここから遠い。今別れる方が危ない。……一旦、お前の家に行こう」
透は頷いた。
それがいちばん安全だ。
二人は裏道を選んで歩いた。
走らない。走れば目立つ。
目立てば、追われる。
途中、遠くの交差点で何かが跳ねたのが見えた。
白っぽい影。
地面から地面へ、跳ねる。跳ねる。跳ねる。
ウサギ――に似ている。
でも、サイズが違う。動きが違う。
目が、違う。
誰かが転んで、悲鳴を上げた。
影がそちらへ向く。
透の足が止まりかける。
「見るな」と慧が言った。
「……」
「今の俺らじゃ無理だ。距離もある。行っても死ぬ」
慧の言葉は冷たい。
でもそれは、透が自分に言い聞かせたい言葉でもあった。
透は目を逸らした。
逸らした自分が嫌で、胃の奥がきしんだ。
「……夢に出るかもな」
慧が小さく言った。
透は笑えなかった。
住宅街に入ると、景色はいつもと同じに見えた。
同じに見えるだけだ。
家の窓は閉まっている。
カーテンが引かれている。
街灯の下に、人がいない。
静かすぎる。
その静けさの中で、音だけが浮く。
――ぜー。
――ぜー。
獣の呼吸みたいな音。
透は立ち止まった。
慧も止まる。
次に聞こえたのは、硬い爪がコンクリを引っかく音だった。
歩いている。ゆっくり。探しているみたいに。
慧が、口を動かさずに言った。
「……犬」
透の背中に冷たいものが走った。
二人は塀の影に身を寄せた。息が勝手に細くなる。
呼吸の音がうるさい。心臓の音がうるさい。
影が横切った。
低い影。筋肉の塊みたいな体。
口が開いて、舌が覗く。荒い息。
透は反射的に自分のポケットを押さえた。
魔石がある。だから何だ。使い方は分からない。
慧が指で合図をした。
“今じゃない”。
“動くな”。
透は頷くしかなかった。
影が遠ざかる。
足音が、少しずつ薄くなる。
今だ。
二人は、音を立てないように家の前まで移動した。
鍵を回す音が、やけに大きく感じる。
中に滑り込んで、鍵を閉める。
チェーンもかける。
リビングの暗がりに、母と澪がいた。
二人とも息を潜めている。
澪が透を見るなり、強がるみたいに言った。
「……遅い」
声は細い。けど、目は逸らさない。
わかりやすい強がりだった。
母が小声で言った。
「外、ずっと変な音がして……」
透は頷き、慧の方を見た。
慧も頷いた。
それから透は気づく。
この家の中で、一人足りない。
「……父さんは」
母は首を横に振った。
「まだ帰ってない。連絡も――」
その言葉の途中で、外からまた音がした。
――ぜー。
――ぜー。
近い。さっきよりずっと近い。
澪が言葉を飲み込む。
母の手が口元に行く。
透と慧は、ほとんど同時に玄関の方を見た。
外で、爪がコンクリを引っかく音がした。
鼻を鳴らす音。
何かが、匂いを嗅いでいる。
慧が、息だけで言った。
「……静かに」
透は頷いた。
心臓の鼓動が、喉までせり上がってきた。




