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箱庭の進化 〜世界にダンジョンが現れた日〜  作者: 観測者
1章

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9/81

帰宅、歪む日常

大通りに出ると、世界は別物になっていた。


車が詰まり、クラクションが鳴り、誰かの泣き声が混じる。

コンビニの前には人が固まり、スマホを掲げている。


撮っているのは怪物じゃない。怪物から逃げてくる人間の波だ。


透と慧は、路地から運び出した男を支えたまま、歩道の端へ押し出されるように出た。

男は足を引きずっている。ふくらはぎのあたりが濡れていて、赤黒い。


「すみません、誰か――」

透が声を張り上げたところで、制服じゃない服装の警官が走ってきた。二人。片方は無線機を握っている。もう片方は拳銃を抜き、視線を左右に走らせていた。


「怪我人か!」

「噛まれて、路地で……」

透が言い終える前に、警官は男の肩を掴んで地面に座らせた。手早い。


無線の警官が止血用の何かを取り出しながら、短く聞く。

「住所、どこだ。救急は向かってる。意識は?」

男がかすれた声で返事をしようとして、咳き込んだ。


遠くで、甲高い悲鳴が上がった。


拳銃を構えた方の警官が、歩道の人間に怒鳴る。

「下がれ! 不審生物から離れろ! 発砲許可が出てる! 近づくな!」


“発砲許可”。

その言葉だけで、周りの空気がひとつ固くなる。

撃っていい。上から許可が出た。


それは、現場の混乱を“戦場”の匂いに変える一言だった。

透は男の顔を見た。唇が震え、目が泳いでいる。


大丈夫なわけがない。

「……大丈夫ですよ」

透がそう言ったとき、自分の声が妙に軽く聞こえた。

言葉だけが先に出た。


慧が透の袖を引く。

「行くぞ」

「……でも」

「ここは警官がいる。俺らがいても邪魔になる」

正しい。腹が立つほどに。


透は唇を噛んで頷いた。

「すみません、お願いします」


無線の警官が短く頷いた。目は透たちじゃなく、周囲の流れを見ている。顔色は悪い。けど手は止まらない。


透と慧は、人の波に押されないように裏道へ入った。

大通りの喧騒が背中に残る。


角を曲がって、ようやく呼吸を取り戻したところで、透は膝に手をついた。

「……やば」

慧も壁に背中を預けて、息を吐く。

いつもなら絶対に見せないような、浅い呼吸だった。


透は自分のポケットを触る。

硬い塊がある。あの“石”。

現実だ、と確かめるように。


「……さっきの、見えたやつ」

透が言うと、慧が目だけ動かした。

「ステータス」

ゲームの単語を口にしたくない。なのに、他に呼び方がない。


「出せると思う?」と慧が続けた。

「知らねえよ……」


透は言いながら、さっきの“感覚”を思い出した。

目の前に文字が浮いたときの、あの気持ち悪さ。

意識を向ける。


目の前じゃない。視界の端でもない。

自分の内側のどこかに触れるみたいに。


――ふっと、視界の奥が開く。

見えた。

誰にも見せていないのに、そこにある。


【観月 透】

【Lv】1

【MP】25

【筋力】11

【敏捷】12

【魔力】13


数字が並んでいる。

意味は分かる。何となくでも分かってしまう。

それがいちばん怖い。


「……出た」

透が呟くと、慧も同時に息を吐いた。

「俺も」

慧の目は、空中の一点じゃなく、内側に沈んでいく。


「Lvって、なに」

透の声が掠れた。


慧が短く言った。

「……倒したからだろ」

透は、路地で殴った感触を思い出す。骨が割れた感触。鳴き声。

そして“ぴたり”と止まった瞬間。


「倒したら、解放」

慧が自分の言葉を噛み締めるように繰り返す。


「じゃあ、みんな……」

「わからない」と慧は言った。

「でも、もしそうなら――」

言い切る前に、慧は視線を落とした。言いたくない結論がそこにある。


遠くでまたサイレンが鳴った。

近い。いくつも。途切れない。


「帰るぞ」と慧が言った。

透は頷いた。

帰る。家に。母と澪がいる。


歩き出したところで、慧が付け足すように言った。

「俺の家はここから遠い。今別れる方が危ない。……一旦、お前の家に行こう」

透は頷いた。

それがいちばん安全だ。


二人は裏道を選んで歩いた。

走らない。走れば目立つ。

目立てば、追われる。


途中、遠くの交差点で何かが跳ねたのが見えた。

白っぽい影。

地面から地面へ、跳ねる。跳ねる。跳ねる。


ウサギ――に似ている。

でも、サイズが違う。動きが違う。

目が、違う。


誰かが転んで、悲鳴を上げた。

影がそちらへ向く。

透の足が止まりかける。


「見るな」と慧が言った。

「……」

「今の俺らじゃ無理だ。距離もある。行っても死ぬ」

慧の言葉は冷たい。

でもそれは、透が自分に言い聞かせたい言葉でもあった。


透は目を逸らした。

逸らした自分が嫌で、胃の奥がきしんだ。


「……夢に出るかもな」

慧が小さく言った。

透は笑えなかった。


住宅街に入ると、景色はいつもと同じに見えた。

同じに見えるだけだ。

家の窓は閉まっている。

カーテンが引かれている。

街灯の下に、人がいない。


静かすぎる。

その静けさの中で、音だけが浮く。

――ぜー。

――ぜー。

獣の呼吸みたいな音。


透は立ち止まった。

慧も止まる。


次に聞こえたのは、硬い爪がコンクリを引っかく音だった。

歩いている。ゆっくり。探しているみたいに。


慧が、口を動かさずに言った。

「……犬」

透の背中に冷たいものが走った。


二人は塀の影に身を寄せた。息が勝手に細くなる。

呼吸の音がうるさい。心臓の音がうるさい。


影が横切った。

低い影。筋肉の塊みたいな体。

口が開いて、舌が覗く。荒い息。


透は反射的に自分のポケットを押さえた。

魔石がある。だから何だ。使い方は分からない。


慧が指で合図をした。

“今じゃない”。

“動くな”。

透は頷くしかなかった。


影が遠ざかる。

足音が、少しずつ薄くなる。

今だ。

二人は、音を立てないように家の前まで移動した。


鍵を回す音が、やけに大きく感じる。

中に滑り込んで、鍵を閉める。

チェーンもかける。


リビングの暗がりに、母と澪がいた。

二人とも息を潜めている。


澪が透を見るなり、強がるみたいに言った。

「……遅い」

声は細い。けど、目は逸らさない。

わかりやすい強がりだった。


母が小声で言った。

「外、ずっと変な音がして……」

透は頷き、慧の方を見た。

慧も頷いた。


それから透は気づく。

この家の中で、一人足りない。

「……父さんは」

母は首を横に振った。

「まだ帰ってない。連絡も――」


その言葉の途中で、外からまた音がした。

――ぜー。

――ぜー。

近い。さっきよりずっと近い。


澪が言葉を飲み込む。

母の手が口元に行く。

透と慧は、ほとんど同時に玄関の方を見た。


外で、爪がコンクリを引っかく音がした。

鼻を鳴らす音。

何かが、匂いを嗅いでいる。


慧が、息だけで言った。

「……静かに」

透は頷いた。

心臓の鼓動が、喉までせり上がってきた。

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