初めての戦い、崩壊
最初に聞こえたのは、サイレンだった。
救急車の甲高い音。
パトカーの低い音。
それが一台二台じゃない。重なって、街全体がうなっているみたいだった。
「……何これ」
透が呟くと、慧は歩きながらスマホを見た。
「緊急速報」
画面には短い文章が並んでいる。
――不要不急の外出を控えてください
――危険区域に近づかないでください
――不審な生物を発見した場合、距離を取ってください
不審な生物。
言葉の軽さと、サイレンの多さが釣り合ってない。
二人は普段と同じ道を歩いていた。
コンビニの角。細い路地。住宅街へ続く抜け道。
そこから、叫び声が聞こえた。
「――やめて! 誰か!」
透は足を止めた。
慧も止まる。
路地の奥に、人が倒れていた。
中年くらいの男が、片足を抱えて転がっている。
ズボンの裾が赤い。
その足元に、何かがいた。
ネズミに似た形。
でもサイズが違う。中型犬くらいの塊が、地面に張り付くように動いている。
灰色の毛。太い胴。短い脚。
額のあたりに、短い角が二本、ちょこんと突き出ていた。
そいつが、男のふくらはぎに噛みついていた。
男が殴っても、引き剥がそうとしても、離れない。
反応が薄い。怯みもしない。
「……うそだろ」
透の声が掠れた。
慧が低く言った。
「透、近づくな」
「でも――」
「行くなら、役割決める」
慧は周囲を一瞬だけ見た。
逃げ道。足元。使えるもの。
「俺が抑える。お前が仕留めろ」
透は息を呑んだ。
「……仕留めろって」
「噛まれたら終わる。中途半端にやるなよ」
慧の声は淡々としていた。
淡々としているのが逆に怖い。
透の視線が落ちた。
路地の端、植え込みの近くに、石が落ちていた。
手のひらより大きい。角ばっている。工事の欠片みたいな塊。
慧が先に動いた。
慧は鞄を両手で持ち、盾みたいに構えて路地に踏み込む。
ネズミは男から口を離し、すぐに慧へ向いた。
速い。
次の瞬間、慧のカバンから鈍い音がする。
ネズミが鞄に噛みついた。歯が食い込む嫌な音。
でも怯まない。離れない。
ただ、噛む。
慧の顔が一瞬で強張った、喉が鳴るのが見える。
それでも腕は止まらない。鞄を押し込こみ、体重を乗せる。
「今!」
少し裏返った声が聞こえる。
透は走った。
男の横をすり抜け、植え込みの近くにしゃがみ込む。
石を掴む。思ったより重い。手が痛い。
背後で、慧の声が短く響く。
「押さえてる。早く!」
透が振り返ると、慧は鞄ごとネズミを地面へ押しつけていた。
ネズミは暴れる。爪が地面を掻く音。
それでも、怯まない。
慧の腕が震えている。
押さえ込みは長く持たない。
透は石を振り上げた。
ためらいが一瞬だけ透を遅らせる。
動物を殴る。
普通じゃない。
でも、あれも普通じゃない。
理屈じゃなく、そう感じた。人間を襲うための動きだ。
透は歯を食いしばって、石を落とした。
鈍い音。
一発では終わらない。
二発目。
鞄の下から、ネズミがなおも噛む音がする。
三発目。
骨が割れた感触が、石越しに手に返ってきた。
ネズミが甲高く鳴いた。
体がびくりと跳ねる。確かに“痛がっている”。
それでも、噛むのをやめない。
怯えもしない。逃げもしない。
透は息を吐く暇もなく、四発目、五発目と落とした。
――ぴたり。
暴れる力が消えた。
慧が鞄を少しだけ浮かせる。
ネズミは動かない。
透は石を握ったまま、数秒、呼吸の仕方を忘れた。
「……終わった」
声にした瞬間だった。
足が、遅れて震え始めた。膝が笑う、ってこういうことかと思う。
さっきまで前に出ていた体が、勝手に後ろへ下がろうとする。
「やば……」
手も震える。
石を落としそうになる。というか落としたい。
握っているのが気持ち悪い。自分の手じゃないみたいだ。
慧も同じだった。
鞄を盾みたいに構えたまま固まっていて、やっと息を吐いたところで肩が小さく揺れた。
「……遅いな」
慧が、絞り出すように言った。
何が遅いのか分からなくて、透は慧の顔を見た。
「震え。……今来た」
透は、ようやく頷いた。
男が、這うように後ずさる。
「た、助かった……?」
その声で、透は我に返った。
男の足から血が垂れている。路地のコンクリに黒い点が増えていく。
透は視線を戻した。
死体――のはずのそれが、変だった。
毛並みが、輪郭からほどけるみたいに崩れていく。
煙じゃない。灰でもない。
水面に落ちた墨みたいに、にじんで、薄くなっていく。
「……消える」
慧が言った。
透は息を呑んだ。
生々しい現実が、急にゲームのルールみたいに書き換わる。
その境目が気持ち悪い。
数十秒もしないうちに、そこには何も残らなくなった。
――代わりに。
コンクリの上に、小さな“何か”が落ちていた。
拳より小さい、硬そうな塊。石みたいで、でも石じゃない。
変に光を返す。
透はそれを見た瞬間、視界の端がかすかに揺れた気がした。
瞬きすると、揺れは“文字”になって残った。
【ステータス:解放】
透は息を止めた。
スマホじゃない。どこにも映していないのに、目の前の空間に出ている。
「……何だよ、それ」
声が出たのか、自分でも分からない。
隣の慧が固まっている。慧の視線も、同じ空中の一点に吸い寄せられていた。
「お前も?」
透が言うと、慧は小さく頷いた。
「……見えてる。俺にも」
二人の間に、見えないはずのものがある。
その事実だけで、胃の奥が冷たくなった。
透は恐る恐る、意識を向けてみる。
“開け”と願ったわけでもないのに、勝手に続きが見える気配がする。
いや、気配というより――そこに“ある”。
数字と、項目。
意味が分かる形で並んでいるのに、現実味だけが追いつかない。
「……ステータスって」
透が呟くと、慧が短く息を吐いた。
「ゲームかよ」
笑いにするには、喉が乾きすぎていた。
笑わないと、手足の震えがバレそうだった。
透は足元の塊を見た。
拾う? 触る? こんなものを?
一瞬ためらって、それでもしゃがむ。
指先でつまむと、ひやりと冷たかった。石みたいに硬いのに、妙に軽い。
透は反射的にポケットへ押し込んだ。考える暇を潰すために。
「持ってくのか」
慧が言う。責めるでもなく、確認だけ。
「……置いていけないだろ」
透は血の匂いに気づいて、振り返った。
襲われていた男が、壁に背中をつけて座り込んでいる。顔色が悪い。
「大丈夫ですか」
透が近づくと、男はかすれた声で笑おうとした。
「……だ、大丈夫じゃないな」
ふくらはぎの傷から、まだ血がにじんでいた。
透の胃がきゅっと縮む。現実だ。ゲームじゃない。
慧がスマホを取り出した。
「119。あと、場所」
透は頷いて、男の腕を取った。
「立てます? 歩けます?」
「……たぶん」
透と慧で支えるようにして、路地の外へ運び出す。
大通りの方が人がいる。明るい。助けも来る。
そのとき、またどこかで悲鳴が上がった。
サイレンが、さらに近づく。
慧が低く言った。
「……長居できない。人のいるところまで出して、引き継ぐ」
透は唇を噛んで頷いた。
震える足を、無理やり動かす。




