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箱庭の進化 〜世界にダンジョンが現れた日〜  作者: 観測者
1章

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金属バット、犬戦

玄関の外、爪の音が、さっきより近い。

鼻を鳴らす音。湿った呼吸。


透は動けなかった。

動けば音が出る。音が出れば――外のそれがこちらを向く。


慧が人差し指を口元に当てたまま、ゆっくり首を振る。

“まだ”。


母は壁際で手を握りしめ、澪は強がった顔のまま唇を噛んでいる。

暗い玄関の空気は薄い。息がぶつかって、返ってくる気がした。


そのときだった。


――キィン、キィン、キィン。


甲高い警報音が、いきなり家の中で鳴り響いた。


透のスマホ。

母のスマホ。

澪のスマホ。

時間差で、順番に。逃げ場もない音量で。


画面に赤い表示が踊る。


【緊急速報】

【外出を控えてください】

【不審生物の目撃情報】

【屋内退避】


止めなきゃ。


頭では分かっているのに、体が一瞬遅れる。

音が大きすぎる。現実感がありすぎる。


透がスマホに手を伸ばした瞬間、外の気配が変わった。


――ぐっ。


玄関の向こうで、重いものが体重を乗せた音。

爪が、今までより強く擦れた。


慧が、息だけで言った。


「……寄ってきた」


母が慌ててスマホを握りしめ、画面を連打する。

澪も同じだ。強がっていた顔が一瞬だけ崩れる。


やっと警報が止まる。

止まっても、耳の奥に音が残る。


静かになった途端、外の存在だけが際立った。


――ぜー。

――ぜー。


玄関のすぐ向こうで呼吸している。

匂いを嗅いでいる。探している。


「……最悪」


澪が小さく呟いた。声が震えているのを、笑いで誤魔化そうとした。


慧が透の方を見た。


「居座られたら、詰む」


透は頷くしかなかった。

玄関から出られない。窓も近づけない。


このまま夜が更けたらどうなる? 増えたら? 別のものが来たら?


「武器」と慧が続けた。


透の頭に、家の中の物が浮かぶ。包丁。椅子。傘。

でも、どれも頼りない。


「倉庫」と透が言った。声が自分でも意外なくらい落ち着いていた。

「庭の倉庫に、金属バット……あるはず」


母が顔を上げる。


「外に出るの?」


「玄関は無理」慧が即答した。

「庭側から。……俺が行く」


透が首を振った。


「俺が行く。場所わかるし」


慧は一瞬だけ迷って、言い方を変えた。


「じゃあ二人で。短く。戻るのが最優先」


透は頷いた。

母と澪を見た。


「二人はここ。……絶対に鍵開けないで」


母は何度も頷いた。

澪は強がるみたいに顎を上げた。


「わかってる。子供扱いすんな」


その言い方が、逆に子供っぽくて、透は今だけ少しだけ安心した。


透と慧は台所へ移動した。

足音を殺す。


透は包丁を掴みかけて、やめた。

刺す距離は危険すぎる。躊躇が命取りになる。


代わりに、流しの下から重い鍋を引っ張り出した。

盾になる。打撃にもなる。


慧は居間の隅にあった父のゴルフバッグを開け、アイアンを一本抜いた。

金属が光って、すぐに暗闇に飲まれる。


「行く」と慧が言った。


透は頷いた。


庭へ出る引き戸は、玄関から離れている。

その分、安心――できない。

家の外に“それ”がいるのは同じだ。


透は引き戸の鍵に指をかけ、ゆっくり回した。

音がしないように。息を止めて。


そっと、隙間を作る。


冷たい夜気が入り込む。

外の匂い。湿った土と、どこか獣っぽい匂い。


透と慧は、足を出した。


庭は暗い。街灯の光が塀の上で止まっている。

倉庫は庭の奥、小さな物置だ。


透は一歩ずつ進む。

砂利を踏まない場所を選ぶ。

呼吸がうるさい。心臓が邪魔だ。


倉庫の前に着いた。

鍵は――掛かっていない。父が面倒くさがりで、いつもそうだった。


透は扉に手をかけた。


その瞬間。


――ごと。


どこかで、重いものが落ちたような音がした。


透の背筋が固まる。

慧も動きを止める。


音の方向は、庭の角。


――ぜー。

――ぜー。


さっき玄関にいたはずの呼吸が、違う位置から聞こえる。


来てる。


慧が、歯の隙間から声を出した。


「……来る」


透は倉庫の扉を一気に開けた。

金属の擦れる音が夜に響く。最悪だ。


中は暗い。工具や古い段ボールの匂い。

透は手探りで、棒状のものを掴む。


――金属バット。


握った瞬間、安心なんて来ない。

ただ、“逃げるだけじゃない”という現実が来た。


外で、低い唸り声がした。


家の影から、犬が出てきた。


犬に似ている。

でも、目が違う。

鼻面が短く、筋肉が妙に詰まっていて、口の端から涎が垂れている。

呼吸が荒い。ゼーゼーと、壊れた機械みたいに。


慧が一歩前に出た。アイアンを握り直す。


透はバットを構えた。

腕が震える。止められない。


犬は、唸りながら首を傾げた。

次の瞬間、地面を蹴った。


速い。


透の視界が追いつく前に、慧がバッグ――じゃない、アイアンを横に振った。

金属が空を切る音。


犬が身を沈めて避ける。避けたというより、最初からそこにいなかったみたいだ。


「っ……!」


透は後ろへ下がり、倉庫の扉の縁に背中をぶつけた。

逃げ道が狭い。

ここは戦える場所じゃない。


慧が低く言った。


「家に戻る。ここで噛まれたら終わりだ」


透は頷こうとして――犬が跳んだ。


透の足元へ。

噛みつく角度で。


透は反射でバットを落とした。


鈍い音。

硬い感触。


犬の体が後ろに弾かれた。

でも止まらない。転がりながら立ち上がる。目が透を離さない。


怖い。

怖すぎて、逆に頭が冷える。


透は、口の中で何度も同じ言葉を繰り返した。


“戻れ。戻れ。戻れ。”


慧が横から踏み込んだ。

アイアンが犬の肩を叩く。


――ガッ。


骨に当たったのか、金属が嫌な音を立てた。

犬が一瞬だけよろめく。


その一瞬を、透は逃さなかった。


「今!」


透はバットを振り抜いた。


犬の側頭部へ。

当たる。重い。硬い。


犬が倒れた。

でも、まだ動く。足が地面を掻く。


「嘘だろ……」


透の声が掠れた。


慧が叫ぶ。


「立て直させるな、止めろ!」


透は歯を食いしばり、もう一度、バットを振り下ろした。


――鈍い音。


犬の動きが止まる。


止まって、初めて、透の足が震え始めた。

さっきまで動いていたのに。今になって。


慧も肩で息をしている。

アイアンを握る手が、少しだけ下がった。


静かだ。


……いや。


遠くで、またサイレンが鳴っている。


透はバットを握ったまま、息を吐いた。

吐いた息が白く見えた。


「戻るぞ」と慧が言った。


透は頷く。

犬の死体を――見たくない。

でも、目は勝手にそこへ行く。


暗い庭の地面に、何も残っていないように見える。

ただ、そこに“倒した”という事実だけが残っている。


透は震える足を無理やり動かし、慧の後ろについて家へ走った。


玄関の方角から、また別の呼吸音がした気がした。


――ゼー。


透は、振り返らなかった。

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