金属バット、犬戦
玄関の外、爪の音が、さっきより近い。
鼻を鳴らす音。湿った呼吸。
透は動けなかった。
動けば音が出る。音が出れば――外のそれがこちらを向く。
慧が人差し指を口元に当てたまま、ゆっくり首を振る。
“まだ”。
母は壁際で手を握りしめ、澪は強がった顔のまま唇を噛んでいる。
暗い玄関の空気は薄い。息がぶつかって、返ってくる気がした。
そのときだった。
――キィン、キィン、キィン。
甲高い警報音が、いきなり家の中で鳴り響いた。
透のスマホ。
母のスマホ。
澪のスマホ。
時間差で、順番に。逃げ場もない音量で。
画面に赤い表示が踊る。
【緊急速報】
【外出を控えてください】
【不審生物の目撃情報】
【屋内退避】
止めなきゃ。
頭では分かっているのに、体が一瞬遅れる。
音が大きすぎる。現実感がありすぎる。
透がスマホに手を伸ばした瞬間、外の気配が変わった。
――ぐっ。
玄関の向こうで、重いものが体重を乗せた音。
爪が、今までより強く擦れた。
慧が、息だけで言った。
「……寄ってきた」
母が慌ててスマホを握りしめ、画面を連打する。
澪も同じだ。強がっていた顔が一瞬だけ崩れる。
やっと警報が止まる。
止まっても、耳の奥に音が残る。
静かになった途端、外の存在だけが際立った。
――ぜー。
――ぜー。
玄関のすぐ向こうで呼吸している。
匂いを嗅いでいる。探している。
「……最悪」
澪が小さく呟いた。声が震えているのを、笑いで誤魔化そうとした。
慧が透の方を見た。
「居座られたら、詰む」
透は頷くしかなかった。
玄関から出られない。窓も近づけない。
このまま夜が更けたらどうなる? 増えたら? 別のものが来たら?
「武器」と慧が続けた。
透の頭に、家の中の物が浮かぶ。包丁。椅子。傘。
でも、どれも頼りない。
「倉庫」と透が言った。声が自分でも意外なくらい落ち着いていた。
「庭の倉庫に、金属バット……あるはず」
母が顔を上げる。
「外に出るの?」
「玄関は無理」慧が即答した。
「庭側から。……俺が行く」
透が首を振った。
「俺が行く。場所わかるし」
慧は一瞬だけ迷って、言い方を変えた。
「じゃあ二人で。短く。戻るのが最優先」
透は頷いた。
母と澪を見た。
「二人はここ。……絶対に鍵開けないで」
母は何度も頷いた。
澪は強がるみたいに顎を上げた。
「わかってる。子供扱いすんな」
その言い方が、逆に子供っぽくて、透は今だけ少しだけ安心した。
透と慧は台所へ移動した。
足音を殺す。
透は包丁を掴みかけて、やめた。
刺す距離は危険すぎる。躊躇が命取りになる。
代わりに、流しの下から重い鍋を引っ張り出した。
盾になる。打撃にもなる。
慧は居間の隅にあった父のゴルフバッグを開け、アイアンを一本抜いた。
金属が光って、すぐに暗闇に飲まれる。
「行く」と慧が言った。
透は頷いた。
庭へ出る引き戸は、玄関から離れている。
その分、安心――できない。
家の外に“それ”がいるのは同じだ。
透は引き戸の鍵に指をかけ、ゆっくり回した。
音がしないように。息を止めて。
そっと、隙間を作る。
冷たい夜気が入り込む。
外の匂い。湿った土と、どこか獣っぽい匂い。
透と慧は、足を出した。
庭は暗い。街灯の光が塀の上で止まっている。
倉庫は庭の奥、小さな物置だ。
透は一歩ずつ進む。
砂利を踏まない場所を選ぶ。
呼吸がうるさい。心臓が邪魔だ。
倉庫の前に着いた。
鍵は――掛かっていない。父が面倒くさがりで、いつもそうだった。
透は扉に手をかけた。
その瞬間。
――ごと。
どこかで、重いものが落ちたような音がした。
透の背筋が固まる。
慧も動きを止める。
音の方向は、庭の角。
――ぜー。
――ぜー。
さっき玄関にいたはずの呼吸が、違う位置から聞こえる。
来てる。
慧が、歯の隙間から声を出した。
「……来る」
透は倉庫の扉を一気に開けた。
金属の擦れる音が夜に響く。最悪だ。
中は暗い。工具や古い段ボールの匂い。
透は手探りで、棒状のものを掴む。
――金属バット。
握った瞬間、安心なんて来ない。
ただ、“逃げるだけじゃない”という現実が来た。
外で、低い唸り声がした。
家の影から、犬が出てきた。
犬に似ている。
でも、目が違う。
鼻面が短く、筋肉が妙に詰まっていて、口の端から涎が垂れている。
呼吸が荒い。ゼーゼーと、壊れた機械みたいに。
慧が一歩前に出た。アイアンを握り直す。
透はバットを構えた。
腕が震える。止められない。
犬は、唸りながら首を傾げた。
次の瞬間、地面を蹴った。
速い。
透の視界が追いつく前に、慧がバッグ――じゃない、アイアンを横に振った。
金属が空を切る音。
犬が身を沈めて避ける。避けたというより、最初からそこにいなかったみたいだ。
「っ……!」
透は後ろへ下がり、倉庫の扉の縁に背中をぶつけた。
逃げ道が狭い。
ここは戦える場所じゃない。
慧が低く言った。
「家に戻る。ここで噛まれたら終わりだ」
透は頷こうとして――犬が跳んだ。
透の足元へ。
噛みつく角度で。
透は反射でバットを落とした。
鈍い音。
硬い感触。
犬の体が後ろに弾かれた。
でも止まらない。転がりながら立ち上がる。目が透を離さない。
怖い。
怖すぎて、逆に頭が冷える。
透は、口の中で何度も同じ言葉を繰り返した。
“戻れ。戻れ。戻れ。”
慧が横から踏み込んだ。
アイアンが犬の肩を叩く。
――ガッ。
骨に当たったのか、金属が嫌な音を立てた。
犬が一瞬だけよろめく。
その一瞬を、透は逃さなかった。
「今!」
透はバットを振り抜いた。
犬の側頭部へ。
当たる。重い。硬い。
犬が倒れた。
でも、まだ動く。足が地面を掻く。
「嘘だろ……」
透の声が掠れた。
慧が叫ぶ。
「立て直させるな、止めろ!」
透は歯を食いしばり、もう一度、バットを振り下ろした。
――鈍い音。
犬の動きが止まる。
止まって、初めて、透の足が震え始めた。
さっきまで動いていたのに。今になって。
慧も肩で息をしている。
アイアンを握る手が、少しだけ下がった。
静かだ。
……いや。
遠くで、またサイレンが鳴っている。
透はバットを握ったまま、息を吐いた。
吐いた息が白く見えた。
「戻るぞ」と慧が言った。
透は頷く。
犬の死体を――見たくない。
でも、目は勝手にそこへ行く。
暗い庭の地面に、何も残っていないように見える。
ただ、そこに“倒した”という事実だけが残っている。
透は震える足を無理やり動かし、慧の後ろについて家へ走った。
玄関の方角から、また別の呼吸音がした気がした。
――ゼー。
透は、振り返らなかった。




