レベルアップ、恐怖
引き戸を閉めた瞬間、透は力が抜けた。
鍵、かけなきゃ。
指がうまく動かない。金属が鳴る音がやけに大きい。
「……静かに」
慧がまた言う。
透は頷く。頷いたつもりで、首が少ししか動かない。
居間の暗がりから、母と澪がこちらへ一歩踏みかけて、すぐ止まった。板床が鳴るのが怖い。
動けば音がする。音は外に漏れる。
分かっているから、誰も動けない。
母が口だけ動かして訊いた。
「……どうだった」
透は口を開いた。
音にならない。唾が飲み込めない。
慧が代わりに小さく言った。
「一体。倒した。……今は、いない」
“今は”。
澪が透の手元を見た。
バットを握ったままの手。指が白い。
「……それ、血?」
透は自分の手を見下ろした。
血じゃない。泥だ。
でも泥と血は、この暗さだと区別がつかない。
「違う」と透は言った。
短く言って、言葉を切った。これ以上説明すると、吐きそうだった。
母が息を飲んで、透の腕を掴みかけて、やめる。
澪は強がるように言った。
「……で、倒せたんだ」
「倒した」
透はそれだけ言って、バットを床に置こうとした。
でも音を立てるのが怖くて、そっと壁に立てかけた。
居間の隅で、テレビが小さな光を漏らしている。音は出していない。
字幕だけが流れていた。
『各地で不審生物が多数目撃』
『屋内退避を』
『警察・自衛隊が対応』
“対応”という二文字が、空々しい。
透はふと、思い出したように自分のポケットを押さえた。
硬い塊がまだ入っている。
それを確かめただけで、胃がきゅっと縮む。
現実だ。
さっきの庭も、犬も、全部。
慧が、透の横で小さく言った。
「……確認しよう」
何を、とは言わない。
透も分かっていた。
透は意識を内側へ向ける。
さっきと同じ、触れる感覚。
――開く。
【観月 透】
【Lv 】2
【MP】35
【筋力】13
【敏捷】14
【魔力】15
透は瞬きした。
「……上がってる」
自分の声が、他人の声みたいに聞こえた。
慧も同時に見ていたのか、短く頷く。
「俺も、Lv2」
澪が眉を寄せる。
「レベルって……ゲーム?」
透は一瞬だけ笑いそうになって、笑えなかった。
「……ゲームの言葉が、勝手に出てくるんだ」
母が顔を強張らせる。
「それ、透にしか見えないの?」
透は頷いた。
「たぶん。慧も同じの見えてる」
慧が母に向けて言う。
「俺ら、最初に倒したときに出てきた。」
母は言葉を失う。
澪は、強がりながらも目を逸らさなかった。
「倒したら、強くなる……ってこと?」
「強くなる、っていうか……」透は言い淀む。
「……数字が増える」
それが強さだ。と口にするのが気持ち悪い。
でも、今の世界ではそれが真実に見えてしまう。
慧が短く整理する。
「少なくとも、条件は“倒す”。」
透は戦った感触を思い出した。
あの犬。止まらない目。荒い息。
それを倒したのが、レベルアップの条件。
考えたくないのに、考えてしまう。
「じゃあ……」澪が小さく言った。
「他の人も、倒せば……」
「倒せればな」と慧が即座に返した。
澪は口を噤む。
強がりが一瞬だけ外れて、現実が顔を出す。
外で、何かが遠くを走る音がした。
近くじゃない。けど、その音のひとつひとつが“生き物”に聞こえる。
母が息を吸って、吐く。
「……お父さん」
その名前が出た途端、家の中の空気が変わる。
透の胸が、遅れて痛んだ。
透はスマホを取り出した。
父にかける。
呼び出し音。
一回、二回――繋がらない。
慧もスマホを見ていた。
家族に連絡している……わけじゃない。画面は暗いまま。
慧は透の手元を見て、言った。
「たぶん、回線が死んでる」
「……それでも、かける」
透はもう一度かけた。
繋がらない。
母が声を絞る。
「会社の近く、ダンジョンがあるってニュースで……」
透は母を見た。
母は今、泣いていない。泣くと音が出るから。
泣けないだけだ。
澪が、強がる声で言った。
「お父さん、帰ってくるよ。絶対」
祈りみたいだった。
慧が、透だけに聞こえるくらいの声で言った。
「俺の親、病院。たぶん今日は帰ってこない」
透は慧を見た。
慧は淡々としている。
「大きい病院だ。救急が回ってるなら、そこが一番忙しい」
“忙しい”が、優しい言葉みたいに聞こえる。
戦場だと言わないための言葉。
透は口を開きかけて、やめた。
慰めの言葉が浮かばない。
代わりに、透は自分のステータスをもう一度見た。
数字が増えたところで、父が帰ってくるわけじゃない。
なのに、目がそこへ行く。
慧が言った。
「まず、守る場所を決める」
「……守る場所?」
「家。今はここしかない。玄関と庭。窓。音」
慧は言いながら、家の構造を頭の中でなぞっているみたいだった。
現実的。冷たい。けど、その冷たさが今は必要だ。
母が震える声で言う。
「じゃあ、どうしたら……」
透は答えられない。
慧も答えない。
代わりに、外の音が答えた。
――がり。
家の外。
玄関の方角じゃない。庭でもない。
壁の向こうから、何かをひっかくような低い音。
全員が止まった。
――がり。
――がり。
今度は、少し近い。
一定の間隔。探っているみたいに。
澪が息を飲む音がした。
母がその口を手で押さえる。
慧が、透にだけ合図する。
“消せ”。
スマホの光。無音のテレビ。
透は慌てて画面を落とした。
暗闇の中で、外の音だけが大きくなる。
――ぜー。
――ぜー。
さっきとは違う。
もっと低い。
もっと重い。
透は喉が鳴りそうになるのを必死で止めた。
慧が、ほとんど音にならない声で言った。
「……増えた」
透は頷くしかなかった。
レベルが上がった。
だから何だ。そんなのが何の役に立つ。
次の一歩を間違えたら、終わる。




