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箱庭の進化 〜世界にダンジョンが現れた日〜  作者: 観測者
1章

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レベルアップ、恐怖

引き戸を閉めた瞬間、透は力が抜けた。


鍵、かけなきゃ。

指がうまく動かない。金属が鳴る音がやけに大きい。


「……静かに」


慧がまた言う。

透は頷く。頷いたつもりで、首が少ししか動かない。


居間の暗がりから、母と澪がこちらへ一歩踏みかけて、すぐ止まった。板床が鳴るのが怖い。

動けば音がする。音は外に漏れる。

分かっているから、誰も動けない。


母が口だけ動かして訊いた。


「……どうだった」


透は口を開いた。

音にならない。唾が飲み込めない。


慧が代わりに小さく言った。

「一体。倒した。……今は、いない」

“今は”。


澪が透の手元を見た。

バットを握ったままの手。指が白い。


「……それ、血?」


透は自分の手を見下ろした。

血じゃない。泥だ。

でも泥と血は、この暗さだと区別がつかない。


「違う」と透は言った。

短く言って、言葉を切った。これ以上説明すると、吐きそうだった。


母が息を飲んで、透の腕を掴みかけて、やめる。


澪は強がるように言った。

「……で、倒せたんだ」


「倒した」

透はそれだけ言って、バットを床に置こうとした。

でも音を立てるのが怖くて、そっと壁に立てかけた。


居間の隅で、テレビが小さな光を漏らしている。音は出していない。

字幕だけが流れていた。


『各地で不審生物が多数目撃』

『屋内退避を』

『警察・自衛隊が対応』


“対応”という二文字が、空々しい。


透はふと、思い出したように自分のポケットを押さえた。

硬い塊がまだ入っている。


それを確かめただけで、胃がきゅっと縮む。

現実だ。

さっきの庭も、犬も、全部。


慧が、透の横で小さく言った。


「……確認しよう」


何を、とは言わない。

透も分かっていた。


透は意識を内側へ向ける。

さっきと同じ、触れる感覚。


――開く。


【観月 透】

【Lv 】2

【MP】35

【筋力】13

【敏捷】14

【魔力】15


透は瞬きした。

「……上がってる」


自分の声が、他人の声みたいに聞こえた。


慧も同時に見ていたのか、短く頷く。


「俺も、Lv2」


澪が眉を寄せる。


「レベルって……ゲーム?」


透は一瞬だけ笑いそうになって、笑えなかった。


「……ゲームの言葉が、勝手に出てくるんだ」


母が顔を強張らせる。


「それ、透にしか見えないの?」


透は頷いた。


「たぶん。慧も同じの見えてる」


慧が母に向けて言う。


「俺ら、最初に倒したときに出てきた。」


母は言葉を失う。

澪は、強がりながらも目を逸らさなかった。


「倒したら、強くなる……ってこと?」


「強くなる、っていうか……」透は言い淀む。


「……数字が増える」


それが強さだ。と口にするのが気持ち悪い。

でも、今の世界ではそれが真実に見えてしまう。


慧が短く整理する。

「少なくとも、条件は“倒す”。」

透は戦った感触を思い出した。


あの犬。止まらない目。荒い息。

それを倒したのが、レベルアップの条件。

考えたくないのに、考えてしまう。


「じゃあ……」澪が小さく言った。

「他の人も、倒せば……」


「倒せればな」と慧が即座に返した。


澪は口を噤む。

強がりが一瞬だけ外れて、現実が顔を出す。


外で、何かが遠くを走る音がした。

近くじゃない。けど、その音のひとつひとつが“生き物”に聞こえる。


母が息を吸って、吐く。

「……お父さん」


その名前が出た途端、家の中の空気が変わる。

透の胸が、遅れて痛んだ。


透はスマホを取り出した。

父にかける。


呼び出し音。

一回、二回――繋がらない。

慧もスマホを見ていた。


家族に連絡している……わけじゃない。画面は暗いまま。

慧は透の手元を見て、言った。


「たぶん、回線が死んでる」

「……それでも、かける」


透はもう一度かけた。

繋がらない。


母が声を絞る。


「会社の近く、ダンジョンがあるってニュースで……」


透は母を見た。


母は今、泣いていない。泣くと音が出るから。

泣けないだけだ。


澪が、強がる声で言った。


「お父さん、帰ってくるよ。絶対」


祈りみたいだった。


慧が、透だけに聞こえるくらいの声で言った。

「俺の親、病院。たぶん今日は帰ってこない」


透は慧を見た。

慧は淡々としている。


「大きい病院だ。救急が回ってるなら、そこが一番忙しい」

“忙しい”が、優しい言葉みたいに聞こえる。


戦場だと言わないための言葉。

透は口を開きかけて、やめた。

慰めの言葉が浮かばない。


代わりに、透は自分のステータスをもう一度見た。

数字が増えたところで、父が帰ってくるわけじゃない。

なのに、目がそこへ行く。


慧が言った。

「まず、守る場所を決める」

「……守る場所?」

「家。今はここしかない。玄関と庭。窓。音」

慧は言いながら、家の構造を頭の中でなぞっているみたいだった。


現実的。冷たい。けど、その冷たさが今は必要だ。


母が震える声で言う。

「じゃあ、どうしたら……」


透は答えられない。

慧も答えない。


代わりに、外の音が答えた。


――がり。


家の外。

玄関の方角じゃない。庭でもない。

壁の向こうから、何かをひっかくような低い音。

全員が止まった。


――がり。

――がり。


今度は、少し近い。

一定の間隔。探っているみたいに。

澪が息を飲む音がした。

母がその口を手で押さえる。

慧が、透にだけ合図する。


“消せ”。

スマホの光。無音のテレビ。

透は慌てて画面を落とした。


暗闇の中で、外の音だけが大きくなる。

――ぜー。

――ぜー。

さっきとは違う。

もっと低い。

もっと重い。


透は喉が鳴りそうになるのを必死で止めた。

慧が、ほとんど音にならない声で言った。

「……増えた」


透は頷くしかなかった。

レベルが上がった。

だから何だ。そんなのが何の役に立つ。


次の一歩を間違えたら、終わる。

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