犬の足音、包囲
――ぜー。
――ぜー。
呼吸が、ひとつじゃない。
居間の暗がりで、透は耳だけを働かせた。
さっきの音は壁の向こう。今度は、庭側。玄関側。
位置が違う。距離も違う。
慧が、床に膝をついたまま目だけで家の中を見回す。
母と澪は、息を止めたみたいに動かない。
――がり。
――がり。
玄関の方で、何かをひっかく音。
爪が擦れる音。
それから、短い唸り声。
澪が唇を噛んだ。
母の目が透に向く。「どうするの」と言っている。
透は答えられない。
今までの人生で「家を守る」なんて状況があったか。
慧が、ほとんど音にならない声で言った。
「動線、潰すぞ」
透は意味を理解するのに一拍かかった。
侵入される前提――じゃない。侵入“されないようにする”ための準備だ。
慧は手で合図した。
“ゆっくり”。
“音を立てるな”。
透は頷く。
四人は、まるで泥棒みたいに家の中を動き始めた。
まず慧が、玄関に近い廊下の照明スイッチに触れて、つけない。確認だけして戻る。
明かりは危険だ。窓から漏れる。
次に慧は、玄関の靴箱の前に置いてある傘立てを、そっと倒した。
倒したというより、壁に寝かせた。
傘の先が床に当たる音がしないように。
透は居間のカーテンを、指先でつまんで少しだけ重ねる。
隙間を埋める。外からの視線を遮る。
それだけで息が詰まる。窓の向こうに“何か”がいる気がして。
母は台所からタオルを持ってきた。
ドアの隙間に詰める。音を漏らさないための即席のパッキン。
澪は――強がっていた。
強がったまま、母の指示に従って食器棚の扉を押さえる。揺れて音が出ないように。
外で、また爪の音。
――ぎり。
――ぎり。
玄関のドアを引っかいている。
硬い素材に爪が負けて、嫌な音だけが残る。
透は、さっき立てかけた金属バットを見た。
握りたい。握ってないと落ち着かない。
でも、握っても状況は変わらない。
慧が透に近づいて、小声で言った。
「今、外に出るのは無理」
透は頷く。
「父さん……探しに行けない」
「行ったら死ぬ可能性が高い」
慧は淡々と言った。淡々と言うしかない顔だった。
透は、息を吸いすぎないようにした。
泣きそうになると呼吸が乱れる。
母が口を動かす。
「……連絡、まだ?」
透は首を振った。
回線が死んでいる。そう言い訳したい。
でも回線が生きていても、繋がらない可能性はある。
外で、呼吸が増えた気がした。
――ぜー。
――ぜー。
――ぜー。
三つ。いや、もっと。
家の周りを回っている。
慧が、壁に耳を当てる。
それから、透に手で示す。
“玄関だけじゃない。庭も”
透は胃が冷えた。
家は囲まれている。
澪が、今度は小さく言った。
「……犬って、嗅覚すごいんでしょ」
透は答えない。答えたら声が震える。
慧が澪を見て、短く言った。
「匂いもある。でも音が優先だ。たぶん」
“たぶん”。
その一言が怖い。
透はふと、自分の内側を覗こうとした。
ステータス。数字。
何か“できること”を見つけたい。
でも、数字を見たところで今すぐ犬を消せるわけじゃない。
逆に、何もできない現実が輪郭を持つだけだ。
透は、スマホを握りしめる。
画面をつけないまま、父の名前だけを指でなぞった。
――ガン。
玄関の方で、さっきより大きな音。
全員の肩が跳ねた。
母が口を押さえる。澪が目を見開く。
次の瞬間、犬の唸り声が重なった。
――グルル。
――グルル。
透はバットを掴んだ。
今度は音を気にしていられなかった。
指が滑る。汗だ。
慧もアイアンを握り直す。
二人が玄関側に寄る。母と澪はその後ろ。距離を取る。
――ガン。
もう一度。
鍵は、持つ。
チェーンも、持つ。
でも、持ってほしいと願うほど、心臓が暴れる。
慧が、透にだけ聞こえる声で言った。
「来るなら……来させない」
透は頷いた。
来させない。どうやって。
そんなの分からないのに、頷くしかない。
そのときだった。
玄関じゃない。
居間の窓の方――カーテンの向こうで、草を踏む音がした。
ゆっくり。確かめるように。
透は視線をカーテンに向けた。
目を逸らしたくても、逸らせない。
影が、カーテンに滲んだ。
低い影。
首を左右に動かしている。
澪が声にならない声を出した。
慧が透の肩を掴んで、押し下げた。
“しゃがめ”。
透は膝を折った。
母と澪も、息を殺してしゃがむ。
影が、止まる。
――ぜー。
窓のすぐ外。
鼻先がガラスに近い。
息で曇る。そんな距離。
透はバットを構えたまま、思った。
ガラスが割れたら終わりだ。
でも、割れる気配はない。
犬はぶつからない。突進しない。
ただ――待っている。
慧が、指で床を軽く叩いた。
合図。透にだけ向けた、短い確認。
“窓は割れない。なら、焦るな”
透は頷いた。
頷きながら、歯が鳴りそうになるのを必死で止めた。
外の影が、すっと消える。
去ったんじゃない。位置が変わっただけだ。
玄関の方から、また唸り声。
――グルル。
囲まれている。
逃げ道がない。
透は、理解した。
今日という一日は、まだ終わっていない。
むしろ、ここからが本番だ。




