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箱庭の進化 〜世界にダンジョンが現れた日〜  作者: 観測者
1章

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犬の足音、包囲

――ぜー。

――ぜー。


呼吸が、ひとつじゃない。


居間の暗がりで、透は耳だけを働かせた。

さっきの音は壁の向こう。今度は、庭側。玄関側。

位置が違う。距離も違う。


慧が、床に膝をついたまま目だけで家の中を見回す。

母と澪は、息を止めたみたいに動かない。


――がり。

――がり。


玄関の方で、何かをひっかく音。

爪が擦れる音。

それから、短い唸り声。


澪が唇を噛んだ。

母の目が透に向く。「どうするの」と言っている。


透は答えられない。

今までの人生で「家を守る」なんて状況があったか。


慧が、ほとんど音にならない声で言った。


「動線、潰すぞ」


透は意味を理解するのに一拍かかった。

侵入される前提――じゃない。侵入“されないようにする”ための準備だ。


慧は手で合図した。

“ゆっくり”。

“音を立てるな”。


透は頷く。


四人は、まるで泥棒みたいに家の中を動き始めた。


まず慧が、玄関に近い廊下の照明スイッチに触れて、つけない。確認だけして戻る。

明かりは危険だ。窓から漏れる。


次に慧は、玄関の靴箱の前に置いてある傘立てを、そっと倒した。

倒したというより、壁に寝かせた。

傘の先が床に当たる音がしないように。


透は居間のカーテンを、指先でつまんで少しだけ重ねる。

隙間を埋める。外からの視線を遮る。

それだけで息が詰まる。窓の向こうに“何か”がいる気がして。


母は台所からタオルを持ってきた。

ドアの隙間に詰める。音を漏らさないための即席のパッキン。


澪は――強がっていた。

強がったまま、母の指示に従って食器棚の扉を押さえる。揺れて音が出ないように。


外で、また爪の音。


――ぎり。

――ぎり。


玄関のドアを引っかいている。

硬い素材に爪が負けて、嫌な音だけが残る。


透は、さっき立てかけた金属バットを見た。

握りたい。握ってないと落ち着かない。


でも、握っても状況は変わらない。


慧が透に近づいて、小声で言った。


「今、外に出るのは無理」


透は頷く。


「父さん……探しに行けない」


「行ったら死ぬ可能性が高い」


慧は淡々と言った。淡々と言うしかない顔だった。


透は、息を吸いすぎないようにした。

泣きそうになると呼吸が乱れる。


母が口を動かす。


「……連絡、まだ?」


透は首を振った。

回線が死んでいる。そう言い訳したい。

でも回線が生きていても、繋がらない可能性はある。


外で、呼吸が増えた気がした。


――ぜー。

――ぜー。

――ぜー。


三つ。いや、もっと。

家の周りを回っている。


慧が、壁に耳を当てる。

それから、透に手で示す。


“玄関だけじゃない。庭も”


透は胃が冷えた。

家は囲まれている。


澪が、今度は小さく言った。


「……犬って、嗅覚すごいんでしょ」


透は答えない。答えたら声が震える。


慧が澪を見て、短く言った。


「匂いもある。でも音が優先だ。たぶん」


“たぶん”。

その一言が怖い。


透はふと、自分の内側を覗こうとした。

ステータス。数字。

何か“できること”を見つけたい。


でも、数字を見たところで今すぐ犬を消せるわけじゃない。

逆に、何もできない現実が輪郭を持つだけだ。


透は、スマホを握りしめる。

画面をつけないまま、父の名前だけを指でなぞった。


――ガン。


玄関の方で、さっきより大きな音。


全員の肩が跳ねた。

母が口を押さえる。澪が目を見開く。


次の瞬間、犬の唸り声が重なった。


――グルル。

――グルル。


透はバットを掴んだ。

今度は音を気にしていられなかった。

指が滑る。汗だ。


慧もアイアンを握り直す。

二人が玄関側に寄る。母と澪はその後ろ。距離を取る。


――ガン。


もう一度。


鍵は、持つ。

チェーンも、持つ。


でも、持ってほしいと願うほど、心臓が暴れる。


慧が、透にだけ聞こえる声で言った。


「来るなら……来させない」


透は頷いた。

来させない。どうやって。

そんなの分からないのに、頷くしかない。


そのときだった。


玄関じゃない。


居間の窓の方――カーテンの向こうで、草を踏む音がした。

ゆっくり。確かめるように。


透は視線をカーテンに向けた。

目を逸らしたくても、逸らせない。


影が、カーテンに滲んだ。


低い影。

首を左右に動かしている。


澪が声にならない声を出した。


慧が透の肩を掴んで、押し下げた。

“しゃがめ”。


透は膝を折った。

母と澪も、息を殺してしゃがむ。


影が、止まる。


――ぜー。


窓のすぐ外。

鼻先がガラスに近い。

息で曇る。そんな距離。


透はバットを構えたまま、思った。


ガラスが割れたら終わりだ。


でも、割れる気配はない。

犬はぶつからない。突進しない。


ただ――待っている。


慧が、指で床を軽く叩いた。

合図。透にだけ向けた、短い確認。


“窓は割れない。なら、焦るな”


透は頷いた。

頷きながら、歯が鳴りそうになるのを必死で止めた。


外の影が、すっと消える。

去ったんじゃない。位置が変わっただけだ。


玄関の方から、また唸り声。


――グルル。


囲まれている。

逃げ道がない。


透は、理解した。


今日という一日は、まだ終わっていない。

むしろ、ここからが本番だ。

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