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箱庭の進化 〜世界にダンジョンが現れた日〜  作者: 観測者
1章

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13/80

守るための一歩、傍観

最初に聞こえたのは、戸の開く音だった。


――がちゃ。


玄関の鍵じゃない。

もっと軽い。もっと遠い。

近隣の家だろう。


透は反射的に息を止めた。

家の中の全員が、同じタイミングで固まる。


次に、声。


「……おい、誰かいないか?」


男の声。近所の人だ。声が震えている。

おそらく、確認しようとした。様子を見ようとした。

一人なんだろう。心細いんだろう。

でも、この状況で“様子を見る”のは、ミスだ。


慧が、透の腕を掴んだ。

止める合図。動くな、という合図。


外の犬の呼吸が変わった。


――ぜー。

――ぜー。


一つが、二つが、音の方向を揃える。

玄関でも庭でもない。男の家へ向かう足音。


草を踏む音。

砂利を踏む音。

急に速くなる。


透はカーテンの隙間を見たくなって、でも見なかった。

見たら、頭の中に焼き付いてしまう。


男の家の庭先で、犬の唸り声が重なった。


――グルル。

――グルル。


「……え?」


男の声が上ずる。

一拍遅れて、慌てた息。


「ちょ、待て、うわ――!」


靴が地面を蹴る音。

逃げる音。

そして、何かが倒れる音。


――ドン。


透は背中に冷たい汗が流れるのを感じた。

想像できる。倒れた。転んだ。起き上がれない。


次に聞こえたのは、犬の荒い呼吸と――


肉が擦れる、嫌な音。


「やめ……っ!」


男の叫びが短く途切れた。

喉の奥が詰まったような、声にならない音に変わる。


母が小さく、息を漏らした。

澪が口を手で塞ぐ。

慧は目を閉じて、開いた。開いた目が冷たい。


透の手が勝手に動いた。

バットを握りしめたまま、立ち上がりかける。


慧が、肩を掴んで押し下げた。


「だめ」


声は小さい。

でも、拒絶だった。


透は歯を食いしばった。


「でも、近所の――」


「出たら、俺らも死ぬ」


「……俺らが二人なら、犬一体は倒せた」


透は言って、自分でも分かった。

倒せたのは一体だった。

今、外には複数いる。


慧が透を見た。

いつもみたいに淡々とした目じゃない。焦りがある。


「犬は一体じゃない。しかも今は“準備”がない」


透は言い返せなかった。

悔しい。

悔しいのに、ほっとしていた。


男の家から、また短い叫び。

何かを叩く音。助けを求める音。

それがどんどん弱くなる。


透の胃が捻れる。


“助けられない”。


母が、泣くのを堪えるように肩を震わせた。

泣けば音が出る。音が出れば、次はこっちだ。


澪が、声にならない声で透の袖を掴む。

指先が冷たい。


透は、男の家の方向を見た。

見ていない。壁しか見ていない。

それでも“そっち”が分かる。


外の叫び声が、途切れた。


犬の息だけが残る。


――ぜー。

――ぜー。


そして、引きずる音。

何かを引きずる音じゃない。足を引きずっている。

もしかしたら、まだ生きている。


透は立ち上がろうとして、また止まった。

動けば、家族が死ぬ。


その計算が、透の中で勝手に成立してしまった。


慧が、小さく言った。


「……覚えとこう」


「何を」


「今の。俺らが、何もしなかったって事実」


透は息を吸った。

吸う音が大きくなりそうで、途中で止めた。


慧は続ける。


「後で、取り返すために必要になる」


透は、その言葉に救われたくて、救われなかった。

取り返すって何だ。

死んだら戻らない。


外で、犬の足音が戻ってきた。

男の家から離れて、またこちらの周りへ散っていく音。

さっきよりは少ないかもしれない。


獣は賢い。

いや、賢い必要なんてない。

ただ、人間を狩るように“作られている”。


透は、握りしめたバットが震えるのを感じた。

手の震えじゃない。腕の奥が震えている。体が遅れている。


母が、透の背中に手を当てた。

押さえるように、そっと。

その手も震えている。


澪が、口だけ動かした。


「……大丈夫」


大丈夫なわけがない。

でも、その強がりが、今はありがたかった。


透は、慧を見た。

慧も透を見て、頷いた。


今は、生き残る。


その当たり前の結論が、今の世界では“選択”になってしまった。


外の呼吸が、また近づく。


――ぜー。


透は、バットを構えたまま、暗い居間の真ん中で息を止めた。

次に音を出すのは、向こうか、こっちか。


そしてその差が、命の差になる。


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