守るための一歩、傍観
最初に聞こえたのは、戸の開く音だった。
――がちゃ。
玄関の鍵じゃない。
もっと軽い。もっと遠い。
近隣の家だろう。
透は反射的に息を止めた。
家の中の全員が、同じタイミングで固まる。
次に、声。
「……おい、誰かいないか?」
男の声。近所の人だ。声が震えている。
おそらく、確認しようとした。様子を見ようとした。
一人なんだろう。心細いんだろう。
でも、この状況で“様子を見る”のは、ミスだ。
慧が、透の腕を掴んだ。
止める合図。動くな、という合図。
外の犬の呼吸が変わった。
――ぜー。
――ぜー。
一つが、二つが、音の方向を揃える。
玄関でも庭でもない。男の家へ向かう足音。
草を踏む音。
砂利を踏む音。
急に速くなる。
透はカーテンの隙間を見たくなって、でも見なかった。
見たら、頭の中に焼き付いてしまう。
男の家の庭先で、犬の唸り声が重なった。
――グルル。
――グルル。
「……え?」
男の声が上ずる。
一拍遅れて、慌てた息。
「ちょ、待て、うわ――!」
靴が地面を蹴る音。
逃げる音。
そして、何かが倒れる音。
――ドン。
透は背中に冷たい汗が流れるのを感じた。
想像できる。倒れた。転んだ。起き上がれない。
次に聞こえたのは、犬の荒い呼吸と――
肉が擦れる、嫌な音。
「やめ……っ!」
男の叫びが短く途切れた。
喉の奥が詰まったような、声にならない音に変わる。
母が小さく、息を漏らした。
澪が口を手で塞ぐ。
慧は目を閉じて、開いた。開いた目が冷たい。
透の手が勝手に動いた。
バットを握りしめたまま、立ち上がりかける。
慧が、肩を掴んで押し下げた。
「だめ」
声は小さい。
でも、拒絶だった。
透は歯を食いしばった。
「でも、近所の――」
「出たら、俺らも死ぬ」
「……俺らが二人なら、犬一体は倒せた」
透は言って、自分でも分かった。
倒せたのは一体だった。
今、外には複数いる。
慧が透を見た。
いつもみたいに淡々とした目じゃない。焦りがある。
「犬は一体じゃない。しかも今は“準備”がない」
透は言い返せなかった。
悔しい。
悔しいのに、ほっとしていた。
男の家から、また短い叫び。
何かを叩く音。助けを求める音。
それがどんどん弱くなる。
透の胃が捻れる。
“助けられない”。
母が、泣くのを堪えるように肩を震わせた。
泣けば音が出る。音が出れば、次はこっちだ。
澪が、声にならない声で透の袖を掴む。
指先が冷たい。
透は、男の家の方向を見た。
見ていない。壁しか見ていない。
それでも“そっち”が分かる。
外の叫び声が、途切れた。
犬の息だけが残る。
――ぜー。
――ぜー。
そして、引きずる音。
何かを引きずる音じゃない。足を引きずっている。
もしかしたら、まだ生きている。
透は立ち上がろうとして、また止まった。
動けば、家族が死ぬ。
その計算が、透の中で勝手に成立してしまった。
慧が、小さく言った。
「……覚えとこう」
「何を」
「今の。俺らが、何もしなかったって事実」
透は息を吸った。
吸う音が大きくなりそうで、途中で止めた。
慧は続ける。
「後で、取り返すために必要になる」
透は、その言葉に救われたくて、救われなかった。
取り返すって何だ。
死んだら戻らない。
外で、犬の足音が戻ってきた。
男の家から離れて、またこちらの周りへ散っていく音。
さっきよりは少ないかもしれない。
獣は賢い。
いや、賢い必要なんてない。
ただ、人間を狩るように“作られている”。
透は、握りしめたバットが震えるのを感じた。
手の震えじゃない。腕の奥が震えている。体が遅れている。
母が、透の背中に手を当てた。
押さえるように、そっと。
その手も震えている。
澪が、口だけ動かした。
「……大丈夫」
大丈夫なわけがない。
でも、その強がりが、今はありがたかった。
透は、慧を見た。
慧も透を見て、頷いた。
今は、生き残る。
その当たり前の結論が、今の世界では“選択”になってしまった。
外の呼吸が、また近づく。
――ぜー。
透は、バットを構えたまま、暗い居間の真ん中で息を止めた。
次に音を出すのは、向こうか、こっちか。
そしてその差が、命の差になる。




