生き残るために、希望
夜が少しだけ薄くなった頃、玄関の向こうから人の足音がした。
一定の間隔。複数。走ってはいない、が、急いでいる。
慧が玄関へ寄る。透も息を止めた。
外の犬の呼吸が、一瞬だけ止まり、すぐに乱れた。
――ぜっ、ぜ。
次の瞬間、鼻を殴る匂いが扉の隙間から入り込んできた。
腐った肉と薬品を混ぜたみたいな、喉の奥が反射で拒否する匂い。
透は鼻を押さえたくなって、拳を握りしめた。動けば音が出る。
玄関の外で、低い声がした。
「……中にいる人、聞こえるか。大丈夫。開けなくていい」
命令じゃない。――それが逆に怖いくらい、ちゃんと人の声だった。
慧が扉に顔を近づけ、息だけで返す。
「います」
外の声が、ほんの少しだけ柔らかくなる。
「よかった。怪我は? 家族は?」
「全員無事です」
「OK。よくやった。……そのまま静かにしててくれ」
外で、犬が低く唸った。
――グルル。
けれど飛びかかっていない。
呼吸が乱れて、踏み込む足が止まる気配だけがある。
その直後、一体だけ影が堪えきれないみたいに跳ねた。
低い影が、足元へ一直線。
「来る!」
声より先に金属が鳴った。
警官が短い棒で、叩くというより押し潰すみたいに犬を制圧する。
鈍い音が二度。影が地面に落ち、動きが止まる。
銃声はしない。
撃たないんじゃない。撃てないんだろう。音はやつらを呼ぶ。
慧が扉越しに、抑えた声で聞いた。
「……今、犬が嫌がっていた?あなた方のせいですか。この匂い……何を撒いたんです」
外で一拍、迷う沈黙。
言うべきかどうか。
でも、言わないとこの家は持たない。
「……上のほうのやつが落とす、液体だ」
声が少しだけ苦くなる。
「人型のやつ。臭いだろ。人間にとっても最悪だ。けど、こいつらはこれを嫌がるらしい」
透は息を止めたまま、喉の奥で“人型”という言葉を反芻した。
慧が続ける。
「それがあるなら……くれませんか」
外の声はすぐには返ってこなかった。
その沈黙は、申し訳なさじゃなく、現実の重さだった。
「……数がない」
短く言い切る。言い切ってから、すぐに補う。
「ドロップは出る。けど全員分には回らない。俺らも撒きながら歩いてる。撒かないと噛まれる。撒くと足りなくなる」
透は歯を食いしばった。
あるのに、もらえない。
その理屈が、むしろ分かってしまうのが腹立たしい。
外の声が、少しだけ強くなる。
「まだ、救助は回り切ってない。被害が多すぎる」
透の胃が沈む。
想像していた。でも言葉にされると現実になる。
「この辺だけじゃない。街中。県内。全国で同時だ。——だから、今すぐ助けるのは無理だ」
慧が喉を鳴らす。
「国は、何を——」
「動いてる。来る。手配してる。自衛隊。……要請もかけてる」
言葉が一瞬濁る。
政治とか手続きとか、そういう“上”が絡む言い方。
それでも、外の声は逃げない。
「ただ、来るまで時間がかかる。だから、何とか耐えてほしい」
“耐えてほしい”。
申し訳なさ、を飲み込んだ頼み方だった。
「やってほしいことは一つ。無事でいてくれ。音を出すな。窓もドアも開けるな。照明もできるだけ消せ」
隣の家のことが頭をよぎって、透の胸が詰まる。
外の声が少しだけ間を置いた。
「……誰かが助けを求めても、絶対に出るな」
辛い言葉のはずだ。
「……生きててくれ」
その最後の一言が、妙に温度を持っていた。
仕事の言葉じゃなく、人間の言葉。
「朝になったら、もう一度この辺を押さえる予定だ。連絡が遅れても落ち着け。今は耐えろ」
「……はい」
慧が短く答えた。透も頷いた。扉の向こうに誰も見えないのに。
外の足音が遠ざかる。
巡回は続く。ここに留まれない。
玄関の前に残ったのは、匂いと、遠いサイレンと、犬の呼吸。
――ぜー。
透はバットを握り直して、思った。
助けが来る。
でも、助けは“間に合う”とは限らない。
それでも、生き残るしかない。




