安全の崩壊、侵入
朝なのに薄暗い部屋の中、慧が口を開く。
「……なんか、嫌な感じがする」
細い朝の光が部屋に差しているのに、慧の声だけ夜が明けてない。
透は、その言い方が怖かった。慧は普段、曖昧なことを口にしない。
「嫌な感じ?」
透が小さく聞くと、慧は頷いた。
「うん。いつ、とかは分かんない。けど……何か嫌な予感。何かが起こる」
何かが起こる。
何が。誰が。どこから。
分からないのに、言葉だけが背中に張り付く。
透は黙って玄関の方を見た。
鍵はかかっている。チェーンもかかっている。
夜のうちに、扉の前にはテーブルと棚を寄せた。動かすには、相当な力がいる。
「とりあえず、バリケード増やすか」
透はそう言って、椅子を追加で噛ませた。
母が消火器を持ってくる。
「これ、使えるかな?」
「ピン抜いて、握るだけ。……もしもの時、使えるかもしれない」
透は母の手元を見て確認した。母の指が、僅かに白い。
澪はリビングを見回して、何か掴もうとして手が止まった。
正解が分からないまま、引き出しを開け、ガムテープと紐とハサミをまとめて抱えた。
「……これ、何かに使える?」
声が小さすぎて、頼りない。
役に立ちたい気持ちだけが、ずっと先に立っている。
「……出来ることは、した」
透はそう思い込もうとした。
守れる。
そう思っていた。守った“つもり”だった。
最初の違和感は、玄関から来た。
……ぺた。
……ぺた、ぺた。
素足で歩くみたいな音。
家の外の、玄関のたたきの辺り。
規則的じゃない。迷っているように近づいて、止まって、また動く。
透は息を止めた。
外にいる。何かが。
次に、くぐもった声が聞こえた。
「……ゥ、ゥ……」
言葉じゃない。
でも単なる鳴き声とも違う。
喉の奥で何かを噛み潰すみたいな、癇癪の音。
近づいては止まり、また音の形を変える。
昨夜、警官が言っていた。
人型のやつがいる、と。
倒したら液体を落とす、と。
でも、それは違う世界の話だ。
自分の玄関の前に“人型”が立っている想像なんて、まだ現実味がない。
――ガチャ。
ドアノブが回された。
鍵のかかった金属が、短く鳴く。
ガチャ、ガチャ。
乱暴な回し方。合っていない。
でも「開けたい」という意志だけは分かる。
透は無意識に、玄関とリビングの間に立った。
バットを握る。
握っているのは、安心じゃない。
ドン。
今度は扉を叩く音。
ドン、ドン。
力任せの叩き方。リズムが雑で子どもっぽいのに、家全体が震える重さがある。
「……苛立ってる」
慧が、低く言った。
透は頷いた。
来てる。
でも、入っては来ないはずだ。
鍵とチェーン。
家具。
ここまでやれば、簡単には。
そう思った直後、
コン、と別の場所で音がした。
玄関じゃない。
窓でもない。
家の側面――トイレの方角。
透は、血が引くのを感じた。
叩く音が、また玄関に戻る。
すぐに止まる。
そして今度は、トイレの方で、もう一度。
まるで「こっちはダメだった」と思いついたみたいに、音が移っていく。
玄関前の“ぺた、ぺた”が遠ざかる。
代わりに、家の横を歩く音が近づく。
透は家族の顔を見た。
母は消火器を持って、澪はガムテープを握りしめている。
慧は黙って、すでに廊下へ視線を向けていた。
トイレ前まで行くと、音ははっきりした。
カタ。
カタカタ。
それが、どんどん強くなる。
小窓。
換気用の、上の方にある小さな窓。――下側だけが手前に倒れて、少しずつ換気できる窓。
そこが揺れている。
割るんじゃない。
叩き壊す、というより――揺すっている。
外せるかどうかなんて分からなくても、とにかく“外したい”動き。
カタカタ。
ガタガタ。
透は背中に汗が流れるのを感じた。
頼むから、外れるな。
頼むから、開くな。
――キィ。
嫌な音がした。
留め具がずれて、窓枠が僅かに浮く。
母が消火器のノズルを向けた。
澪が息を呑む音が、近くで聞こえた。
ガタッ。
窓が、片側だけ外れた。
割れていない。
破片も飛んでいない。
ただ、固定が外れて、板みたいにずれてぶら下がった。
そこから、手が入ってきた。
透は、言葉を失った。
気持ち悪い。
緑、と言えば緑。でも絵本の緑じゃない。
くすんで、湿っている。病人の皮膚みたいに、生々しい。
爪は黒く、指が長い。関節の形が人間に似ているのに、人間じゃない。
次に、頭がねじ込まれた。
……人型だ。
警官が言っていた“人型”が、急に現実になる。
なのに、頭が追いつかない。
透の知ってるファンタジーのゴブリン――そういう可愛い悪役みたいなものじゃない。
肌の質感も、顔の作りも、どこかが“気持ち悪い”。
目が小さくて、位置が低い。
鼻が潰れて、口が横に裂けている。
笑っているようにも見えるのに、表情が死んでいる。
人間の形を真似したのに、最後まで似せきれなかった粘土細工みたいな――気持ち悪さ。
夢で見た顔が、起きても残ってるみたいだった。
棍棒が、身体と共に入ってきた。
木の棒。
ただの棒。
でも先端にこびりついた黒い汚れが、何かを思い出させて吐き気がする。
「……っ」
透は動いた。
トイレの扉は開けたまま。
廊下へ出す。
ゴブリン――だと思う“それ”が、体をねじ込み、床に片足を落とした瞬間、棍棒を振り上げた。
狭い。
距離がない。
透はバットを出した。
木と金属がぶつかる、鈍い音。
衝撃が腕に刺さる。
それは怯まない。
ただ次を振る準備に入る。
透が一歩引き、廊下へ誘導する。
慧が背後からライトを当てた。光に照らされた顔が、さらに気持ち悪い。
濡れたゴムみたいに光を返して、皮膚の凹凸だけが強調される。
「透、横!」
慧の声で、透が半歩ずれた瞬間、母が横に来る。
「どいて!」
母が引き金を握る。
白い粉が噴き出す。
狭い廊下の空気が一気に白くなる。
息を吸ったら咳が出る。咳をしたら終わる気がして、透は歯を食いしばった。
“それ”の動きが乱れた。
目を細め、口を開け、くぐもった声を上げる。
言葉じゃない。
ただ、苛立ちみたいな音。
透は、躊躇しなかった。
一発。
棍棒を持つ腕。
二発。
膝。
体がぐらりと沈んで、床に片手をつこうとしている。
狭い廊下で、変に人間っぽい動きが目に入って、透の胃がひゅっと縮んだ。
次は頭だ。とどめを刺さなきゃ。
そう思った瞬間、手が止まった。
怖いとか、ためらいとかじゃない。経験したことのない感覚。
ただ、体が、心が拒否をする。
――でも。
止めたら立ち上がる。
立ち上がったら、やられる。
三発目。
肩。首に近いところ。
嫌な手ごたえ。
骨じゃないのに、硬い。
それが、ひときわ気持ち悪い。
"それ"はよろけて、完全に崩れた。
透は止めなかった。
四発目で、動きが消えた。
――ぴたり。
白い粉が沈んでいく。
透の呼吸だけがうるさい。
透は倒れた“それ”を見た。
死体のはずなのに、輪郭がほどけていく。
皮膚が溶けるんじゃない。——薄くなる。
影が朝の光に負けるみたいに。
「……消え、る……」
誰の声か分からなかった。
数十秒もしないうちに、そこには何も残らなくなった。
……いや。
床に、小さな硬い塊だけが転がっていた。
透は、それを見た瞬間、喉が乾いた。
玄関を守っていたはずなのに。
入ってこないはずだったのに。
家の弱いところから、普通に入ってきた。
そして今、トイレの小窓は穴のままだ。
外から、また“ぺた、ぺた”が聞こえた。
玄関の方角。
くぐもった声も、もう一度だけ聞こえた気がした。
癇癪みたいな、短い音。
透はバットを握り直した。
母は消火器を抱え直す。
慧は何も言わず、窓の穴を見ている。
澪は、唇を噛んだまま動かなかった。
自分だけ、何もできなかった。
それが、顔に出ている。
外にもいるかもしれない。
でも確信はない。
確信がないのに、穴だけは残っている。
透は思った。
守ったつもりでも、家は全部は守れない。
そして、今日中に起こる“何か”は、まだ終わっていないのかもしれない。




