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箱庭の進化 〜世界にダンジョンが現れた日〜  作者: 観測者
1章

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15/81

安全の崩壊、侵入

朝なのに薄暗い部屋の中、慧が口を開く。


「……なんか、嫌な感じがする」


細い朝の光が部屋に差しているのに、慧の声だけ夜が明けてない。

透は、その言い方が怖かった。慧は普段、曖昧なことを口にしない。


「嫌な感じ?」

透が小さく聞くと、慧は頷いた。


「うん。いつ、とかは分かんない。けど……何か嫌な予感。何かが起こる」


何かが起こる。

何が。誰が。どこから。

分からないのに、言葉だけが背中に張り付く。


透は黙って玄関の方を見た。

鍵はかかっている。チェーンもかかっている。

夜のうちに、扉の前にはテーブルと棚を寄せた。動かすには、相当な力がいる。


「とりあえず、バリケード増やすか」

透はそう言って、椅子を追加で噛ませた。

母が消火器を持ってくる。


「これ、使えるかな?」

「ピン抜いて、握るだけ。……もしもの時、使えるかもしれない」

透は母の手元を見て確認した。母の指が、僅かに白い。


澪はリビングを見回して、何か掴もうとして手が止まった。

正解が分からないまま、引き出しを開け、ガムテープと紐とハサミをまとめて抱えた。


「……これ、何かに使える?」

声が小さすぎて、頼りない。

役に立ちたい気持ちだけが、ずっと先に立っている。


「……出来ることは、した」

透はそう思い込もうとした。


守れる。

そう思っていた。守った“つもり”だった。


最初の違和感は、玄関から来た。


……ぺた。

……ぺた、ぺた。


素足で歩くみたいな音。

家の外の、玄関のたたきの辺り。

規則的じゃない。迷っているように近づいて、止まって、また動く。


透は息を止めた。

外にいる。何かが。


次に、くぐもった声が聞こえた。


「……ゥ、ゥ……」


言葉じゃない。

でも単なる鳴き声とも違う。

喉の奥で何かを噛み潰すみたいな、癇癪の音。

近づいては止まり、また音の形を変える。


昨夜、警官が言っていた。

人型のやつがいる、と。

倒したら液体を落とす、と。


でも、それは違う世界の話だ。

自分の玄関の前に“人型”が立っている想像なんて、まだ現実味がない。


――ガチャ。


ドアノブが回された。

鍵のかかった金属が、短く鳴く。


ガチャ、ガチャ。

乱暴な回し方。合っていない。

でも「開けたい」という意志だけは分かる。


透は無意識に、玄関とリビングの間に立った。

バットを握る。

握っているのは、安心じゃない。


ドン。

今度は扉を叩く音。


ドン、ドン。

力任せの叩き方。リズムが雑で子どもっぽいのに、家全体が震える重さがある。


「……苛立ってる」

慧が、低く言った。


透は頷いた。

来てる。

でも、入っては来ないはずだ。


鍵とチェーン。

家具。

ここまでやれば、簡単には。


そう思った直後、


コン、と別の場所で音がした。


玄関じゃない。

窓でもない。

家の側面――トイレの方角。


透は、血が引くのを感じた。


叩く音が、また玄関に戻る。

すぐに止まる。

そして今度は、トイレの方で、もう一度。


まるで「こっちはダメだった」と思いついたみたいに、音が移っていく。


玄関前の“ぺた、ぺた”が遠ざかる。

代わりに、家の横を歩く音が近づく。


透は家族の顔を見た。

母は消火器を持って、澪はガムテープを握りしめている。

慧は黙って、すでに廊下へ視線を向けていた。


トイレ前まで行くと、音ははっきりした。


カタ。

カタカタ。

それが、どんどん強くなる。


小窓。

換気用の、上の方にある小さな窓。――下側だけが手前に倒れて、少しずつ換気できる窓。

そこが揺れている。


割るんじゃない。

叩き壊す、というより――揺すっている。

外せるかどうかなんて分からなくても、とにかく“外したい”動き。


カタカタ。

ガタガタ。


透は背中に汗が流れるのを感じた。

頼むから、外れるな。

頼むから、開くな。


――キィ。


嫌な音がした。

留め具がずれて、窓枠が僅かに浮く。


母が消火器のノズルを向けた。

澪が息を呑む音が、近くで聞こえた。


ガタッ。


窓が、片側だけ外れた。

割れていない。

破片も飛んでいない。

ただ、固定が外れて、板みたいにずれてぶら下がった。


そこから、手が入ってきた。


透は、言葉を失った。


気持ち悪い。

緑、と言えば緑。でも絵本の緑じゃない。

くすんで、湿っている。病人の皮膚みたいに、生々しい。

爪は黒く、指が長い。関節の形が人間に似ているのに、人間じゃない。


次に、頭がねじ込まれた。


……人型だ。


警官が言っていた“人型”が、急に現実になる。

なのに、頭が追いつかない。


透の知ってるファンタジーのゴブリン――そういう可愛い悪役みたいなものじゃない。

肌の質感も、顔の作りも、どこかが“気持ち悪い”。


目が小さくて、位置が低い。

鼻が潰れて、口が横に裂けている。

笑っているようにも見えるのに、表情が死んでいる。

人間の形を真似したのに、最後まで似せきれなかった粘土細工みたいな――気持ち悪さ。

夢で見た顔が、起きても残ってるみたいだった。


棍棒が、身体と共に入ってきた。


木の棒。

ただの棒。

でも先端にこびりついた黒い汚れが、何かを思い出させて吐き気がする。


「……っ」


透は動いた。

トイレの扉は開けたまま。

廊下へ出す。


ゴブリン――だと思う“それ”が、体をねじ込み、床に片足を落とした瞬間、棍棒を振り上げた。


狭い。

距離がない。


透はバットを出した。

木と金属がぶつかる、鈍い音。

衝撃が腕に刺さる。


それは怯まない。

ただ次を振る準備に入る。


透が一歩引き、廊下へ誘導する。

慧が背後からライトを当てた。光に照らされた顔が、さらに気持ち悪い。

濡れたゴムみたいに光を返して、皮膚の凹凸だけが強調される。


「透、横!」


慧の声で、透が半歩ずれた瞬間、母が横に来る。


「どいて!」


母が引き金を握る。


白い粉が噴き出す。

狭い廊下の空気が一気に白くなる。

息を吸ったら咳が出る。咳をしたら終わる気がして、透は歯を食いしばった。


“それ”の動きが乱れた。

目を細め、口を開け、くぐもった声を上げる。

言葉じゃない。

ただ、苛立ちみたいな音。


透は、躊躇しなかった。


一発。

棍棒を持つ腕。


二発。

膝。

体がぐらりと沈んで、床に片手をつこうとしている。


狭い廊下で、変に人間っぽい動きが目に入って、透の胃がひゅっと縮んだ。


次は頭だ。とどめを刺さなきゃ。

そう思った瞬間、手が止まった。

怖いとか、ためらいとかじゃない。経験したことのない感覚。

ただ、体が、心が拒否をする。


――でも。


止めたら立ち上がる。

立ち上がったら、やられる。


三発目。

肩。首に近いところ。


嫌な手ごたえ。

骨じゃないのに、硬い。

それが、ひときわ気持ち悪い。


"それ"はよろけて、完全に崩れた。

透は止めなかった。


四発目で、動きが消えた。


――ぴたり。


白い粉が沈んでいく。

透の呼吸だけがうるさい。


透は倒れた“それ”を見た。

死体のはずなのに、輪郭がほどけていく。

皮膚が溶けるんじゃない。——薄くなる。

影が朝の光に負けるみたいに。


「……消え、る……」

誰の声か分からなかった。


数十秒もしないうちに、そこには何も残らなくなった。


……いや。

床に、小さな硬い塊だけが転がっていた。


透は、それを見た瞬間、喉が乾いた。


玄関を守っていたはずなのに。

入ってこないはずだったのに。

家の弱いところから、普通に入ってきた。


そして今、トイレの小窓は穴のままだ。


外から、また“ぺた、ぺた”が聞こえた。

玄関の方角。


くぐもった声も、もう一度だけ聞こえた気がした。

癇癪みたいな、短い音。


透はバットを握り直した。

母は消火器を抱え直す。

慧は何も言わず、窓の穴を見ている。


澪は、唇を噛んだまま動かなかった。


自分だけ、何もできなかった。

それが、顔に出ている。


外にもいるかもしれない。

でも確信はない。

確信がないのに、穴だけは残っている。


透は思った。


守ったつもりでも、家は全部は守れない。

そして、今日中に起こる“何か”は、まだ終わっていないのかもしれない。


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