落着き、巡回
粉が落ちる。
白い粒が、廊下の空気からゆっくり降りて、床の上に薄い膜を作る。
透は口の中の苦さを飲み込んだ。
床には、落ちたままの小さな塊がある。
石みたいな、でも石じゃない。
透は見ないようにしていたのに、目が吸い寄せられる。
母がそれに視線を落とした瞬間、母の瞳がわずかに揺れた。
焦点が合ったまま、何かを読み取るみたいに。
透は喉の奥が冷たくなるのを感じた。
自分と同じだ。
でも、今それを確かめる余裕はない。
トイレの小窓は穴のままだ。
ぶら下がった枠を、澪がガムテープで引っ張っている。手が震えて、テープがまっすぐ貼れない。
母が横から押さえる。
「……とりあえず、これで」
透が言うと、澪が小さく頷いた。
“これで”が、何を意味するのか分からないまま。
スマホを見ると12時に近い時間になっていた。
外の音が変わった。
サイレンが、散らばる音から、寄っていく音になった。
同じ方向へ流れていく。
遠くの悲鳴が、少しだけ減った気がした。
次いで、家の前の道路に、足音。
複数。一定の間隔。
慧が玄関に寄る。透も息を止めた。
――コン。コン。
扉を叩く音は、乱暴じゃなかった。
近くで抑えた声がする。
「……中の人。聞こえるか。」
慧が息だけで返す。
「聞こえてます」
「何人いる?怪我人は?」
「四人。全員無事です」
返事の間、外の犬の呼吸が荒くなる。
近くにいるのは分かっているのに、踏み込んでこない。
唸り声が、低く、遠い。
「……よし」
声が短く言った。
すぐに別の声が混じる。
「こっち確認、四人。——次」
無線だ。
ここだけじゃない。隣の家も、その隣も。
透は、玄関のすぐ向こうで人が動く気配を感じた。
足音が一瞬だけ止まり、金属が擦れる音がした。
何かを叩く、鈍い音が二回。
犬の鳴き声が跳ね上がって、途切れる。
続けて、別方向でまた鈍い音。
こちらの通りが、少しずつ“薄く”なっていく。
玄関の向こうの声が、もう一度近づいた。
「今からこの辺りを一回片づける。家から出るな。窓も開けるな」
慧が頷き、透も頷いた。
向こうには見えないのに。
声が続ける。
「……次の指示だけ言う」
言い方が、現場のそれだった。
優しいでも冷たいでもない。
間に合わないものを抱えた声。
「避難所が開く。学校と公民館。……案内が回るまで、家にいろ」
透はそこで、言葉が漏れそうになった。
父が。
まだ帰ってこない。
でも口にしたら、急に現実になる。
透は言葉を噛んで飲み込んだ。
玄関の外で、誰かが短く舌打ちした。
「……音、立てんなよ。向こうから来てる」
無線の声が被る。
「南側、人型二。——いや三。……こっち寄ってる」
声の主が即座に返す。
「了解。こっちは——」
言葉の途中で、足音が遠ざかった。
ここに留まれない。留まっていたら、別の場所で死ぬ。
残ったのは、匂いと、遠いサイレン。
そして、家の中の、呼吸。
澪が小さく言った。
「……今の、人たち……」
「回ってる」
慧が答える。言葉が短い。
「守ってくれてる?」
澪が聞く。
慧はすぐに肯定しなかった。
代わりに、玄関の方を見たまま言う。
「……減ってる。でも、まだいる」
透は頷いた。
希望ってほどじゃない。
でも、昨日よりは“余白”がある。
透は床の塊を見た。
拾うべきか迷う時間すら、もったいない気がしてくる。
しゃがんで、指先でつまむ。
冷たい。硬い。
落としたら、二度と見つからない気がした。
母が小さく息を呑んだ。
母の目が、何かを見ている。
透は見ないふりをした。
母も、言わない。
言ったら、何かが変わってしまう。
透は塊をポケットに入れ、トイレの穴を見た。
塞いだ“つもり”の場所。
弱いところ。
狙われるところ。
透は思った。
間引きが進んでも、助けが来ても、
家は勝手に守られない。
そして――
父がいないことだけが、どんどん大きくなる。




