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箱庭の進化 〜世界にダンジョンが現れた日〜  作者: 観測者
1章

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17/80

久しぶりの食事、準備

静かだった。


サイレンはまだ遠くで鳴っている。

でも、さっきまでみたいに空気を裂く音じゃない。

どこかで鳴って、どこかへ流れていく。


家の中はもっと静かだった。


粉が落ちきって、廊下の床に白い膜が残っている。

踏むと、靴下が少しだけ鳴る。

それが嫌で、透は足の裏に力を入れたまま歩いた。


玄関の外からは、もう叩く音がしない。

“ぺた、ぺた”もない。

くぐもった声もない。


……だからこそ、落ち着かなかった。


これは、ただの空白だ。

次が来るまでの。


透はリビングの真ん中で立ち尽くして、みんなの顔を見た。


母は消火器を壁際に置き、ノズルの向きを揃えている。

澪はガムテープを握ったまま、指先の粘つきを気にしている。

慧は窓の方を見て、まばたきの回数が少ない。


誰も何も言わない。


その沈黙を破ったのは、澪の腹の音だった。


ぐぅ、という音が出た瞬間、澪は顔を赤くして口を押さえた。

笑えるような状況じゃないのに、透の喉が少しだけ緩む。


でも、すぐに冷えた。


食べてない。

昨日から、何も。

飲んだのは水だけだ。


「……食べよ」

澪が小さく言った。

提案というより、言い訳みたいな声。


母が頷いた。


「火、使わない方がいいよね」

澪が続ける。


透はキッチンの棚を開けた。

手が震える。

震えているのが寒さなのか、疲れなのか、まだ分からない。


出てきたのは、カロリーバーの箱と、ゼリー飲料。

缶詰もある。

プルタブを起こす音が大きすぎて怖い気がして、透は一旦やめた。


「これで……」

透がバーを配る。

包装を破く音が、やけに響く。

ビリ、とひとつ鳴るたびに、誰かが一瞬だけ止まる。


慧が口をつけた。

咀嚼の音が、思ったより大きい。

透は自分が食べられる気がしなくて、しばらく手の中のバーを眺めていた。


甘い匂いがする。

こういう甘さは、普段なら嫌いじゃない。

でも今は、胃が拒否する。


それでも、噛んだ。


口の中の水分が奪われて、粉っぽさが増す。

透は水を飲む。

冷たい水が喉を通るだけで、少しだけ生き返る気がした。


澪がゼリーを吸って、息を吐いた。


「……生きてる、って感じするね」

自分に言い聞かせるみたいに。


透は返事をしなかった。

返事をしたら、泣いてしまいそうだった。


食べるのが終わったあと、澪がぽつりと言った。


「……お父さんに、残しとこう」

「え?」

「手紙。置いとこう。帰ってきたら、分かるように」


透の胸が、きゅっと縮む。


父のことを口にしたら、急に現実になる。


そう分かっているのに、澪の言葉は正しかった。


母が静かに頷いた。


「……うん。書こう」

淡々としてはいない。

でも、頼れる声だった。

今はそれがありがたい。


透はペンと紙を探した。

引き出しを開ける音を最小にして、メモ帳を見つける。


澪が膝の上で紙を押さえた。

ペン先が紙に触れる音が、妙に大きい。


「どう書く?」

澪が聞く。


透は一瞬言葉に詰まって、結局、情報だけを並べた。


――三人とも無事。

――トイレの小窓が壊れた。

――避難することになったら、学校か公民館へ行く。

――戻ったら連絡して。


最後に、透は自分の名前を書いた。

澪も小さく名前を書いた。

母は迷って、でも書いた。

慧は書かなかった。視線だけで「いい」と言った。


貼る場所を考える。


外に出たくない。

出る必要もない。


透は玄関の内側の、なるべく見える位置を選んだ。

チェーンの隙間から紙を差し出すこともできる。

でも、今はそれすら怖い気がして、内側に貼ることにした。


澪がガムテープを切る。

手が震えて、端が指に貼りつく。

剥がそうとして、余計にぐちゃぐちゃになる。


「……貸して」

母が手を伸ばす。

乱暴ではない。

ただ、迷いなく引っ張って、真っ直ぐ貼る。


それだけのことなのに、透は妙に安心した。


「……ありがとう」

澪が小さく言う。


次は、持ち出すもの。

避難できるかもしれない。


透が言う前に、澪が指を折って数え始めた。


「水。食べ物。薬。身分証。お金。充電……ライト」

「ガムテと紐も」

透が足す。

「あと、靴。外出るとき裸足は無理」


慧が頷く。

当たり前のことが、当たり前じゃなくなっている。


母が棚を開けて、缶詰を選ぶ。

ツナ。サバ。フルーツ。

軽いものから袋に入れていく。


透はペットボトルの水を集める。

二リットルは重い。

重いのに、安心感がある。


澪は薬箱を開けて、風邪薬と絆創膏を見つけた。

絆創膏を見た瞬間、澪の顔が僅かに歪む。

誰かが怪我する前提で準備している、という現実が刺さる。


「……これも」

澪はそれを袋に入れた。

迷いながらでも、入れた。


透はスマホの充電器を探す。

見つかって、コードを握ったとき、急に空虚になる。


繋がるかどうかも分からない。

それでも握る。

握っていないと、何もできない気がするから。


準備が一段落すると、透はトイレの方を見た。


穴。


あれがある限り、この家は完全には守れない。

守った“つもり”になって、また裏切られる。


「……塞ぐか」

透が言うと、澪がすぐ頷いた。

「段ボール、ある」


段ボールは台所の隅に畳んであった。

通販の箱。

生活の跡。


透はそれを広げて、窓の大きさに合わせて折る。

二重にする。

厚みが増えると、それだけで少しだけ安心する。


母が押さえ、澪がガムテープを貼る。

慧はライトを当てて、隙間を見つける。


ガムテープが足りなくなって、澪が焦って引っ張る。

音が大きくなる。


「……ゆっくり」

母が言う。

その一言で、澪の手が止まる。


ゆっくり貼る。

丁寧に押さえる。


段ボールが窓に固定されていく。

“とりあえず”の補修。

それでも、何もしないよりずっといい。


最後に、透は段ボールを拳で軽く叩いた。

ゴン、という鈍い音がした。


外から叩かれたら、同じ音になる。

透はそれを想像して、すぐにやめた。


補修を終えると、家の中にまた静けさが戻った。


食べた。

手紙を貼った。

荷物をまとめた。

穴を塞いだ。


やるべきことをやったはずなのに、安心は来ない。


透は玄関の方を見た。

鍵。チェーン。家具。


守れている、はずだ。


慧が玄関の近くで立ち止まり、耳を澄ませた。

透も息を止める。


何も聞こえない。


――と思った、そのとき。


外のどこかで、一回だけ。


「….ゥ、ゥ」


小さく唸るような音がした。


透の手が、無意識にバットを探す。

母も消火器に視線を走らせる。

澪はガムテープを握りしめて固まる。


慧は何も言わない。

ただ、玄関の方を見たまま、目を細めた。


音は、それきりだった。


だから怖い。


透は思った。


警察が来ても、減っても、

自分たちの不安が片づくわけじゃない。


家の中を整えるほど、

外の世界の穴が、くっきり見えてしまう。


そして、父のいない場所だけが、

まだ何も埋まっていない。


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