久しぶりの食事、準備
静かだった。
サイレンはまだ遠くで鳴っている。
でも、さっきまでみたいに空気を裂く音じゃない。
どこかで鳴って、どこかへ流れていく。
家の中はもっと静かだった。
粉が落ちきって、廊下の床に白い膜が残っている。
踏むと、靴下が少しだけ鳴る。
それが嫌で、透は足の裏に力を入れたまま歩いた。
玄関の外からは、もう叩く音がしない。
“ぺた、ぺた”もない。
くぐもった声もない。
……だからこそ、落ち着かなかった。
これは、ただの空白だ。
次が来るまでの。
透はリビングの真ん中で立ち尽くして、みんなの顔を見た。
母は消火器を壁際に置き、ノズルの向きを揃えている。
澪はガムテープを握ったまま、指先の粘つきを気にしている。
慧は窓の方を見て、まばたきの回数が少ない。
誰も何も言わない。
その沈黙を破ったのは、澪の腹の音だった。
ぐぅ、という音が出た瞬間、澪は顔を赤くして口を押さえた。
笑えるような状況じゃないのに、透の喉が少しだけ緩む。
でも、すぐに冷えた。
食べてない。
昨日から、何も。
飲んだのは水だけだ。
「……食べよ」
澪が小さく言った。
提案というより、言い訳みたいな声。
母が頷いた。
「火、使わない方がいいよね」
澪が続ける。
透はキッチンの棚を開けた。
手が震える。
震えているのが寒さなのか、疲れなのか、まだ分からない。
出てきたのは、カロリーバーの箱と、ゼリー飲料。
缶詰もある。
プルタブを起こす音が大きすぎて怖い気がして、透は一旦やめた。
「これで……」
透がバーを配る。
包装を破く音が、やけに響く。
ビリ、とひとつ鳴るたびに、誰かが一瞬だけ止まる。
慧が口をつけた。
咀嚼の音が、思ったより大きい。
透は自分が食べられる気がしなくて、しばらく手の中のバーを眺めていた。
甘い匂いがする。
こういう甘さは、普段なら嫌いじゃない。
でも今は、胃が拒否する。
それでも、噛んだ。
口の中の水分が奪われて、粉っぽさが増す。
透は水を飲む。
冷たい水が喉を通るだけで、少しだけ生き返る気がした。
澪がゼリーを吸って、息を吐いた。
「……生きてる、って感じするね」
自分に言い聞かせるみたいに。
透は返事をしなかった。
返事をしたら、泣いてしまいそうだった。
食べるのが終わったあと、澪がぽつりと言った。
「……お父さんに、残しとこう」
「え?」
「手紙。置いとこう。帰ってきたら、分かるように」
透の胸が、きゅっと縮む。
父のことを口にしたら、急に現実になる。
そう分かっているのに、澪の言葉は正しかった。
母が静かに頷いた。
「……うん。書こう」
淡々としてはいない。
でも、頼れる声だった。
今はそれがありがたい。
透はペンと紙を探した。
引き出しを開ける音を最小にして、メモ帳を見つける。
澪が膝の上で紙を押さえた。
ペン先が紙に触れる音が、妙に大きい。
「どう書く?」
澪が聞く。
透は一瞬言葉に詰まって、結局、情報だけを並べた。
――三人とも無事。
――トイレの小窓が壊れた。
――避難することになったら、学校か公民館へ行く。
――戻ったら連絡して。
最後に、透は自分の名前を書いた。
澪も小さく名前を書いた。
母は迷って、でも書いた。
慧は書かなかった。視線だけで「いい」と言った。
貼る場所を考える。
外に出たくない。
出る必要もない。
透は玄関の内側の、なるべく見える位置を選んだ。
チェーンの隙間から紙を差し出すこともできる。
でも、今はそれすら怖い気がして、内側に貼ることにした。
澪がガムテープを切る。
手が震えて、端が指に貼りつく。
剥がそうとして、余計にぐちゃぐちゃになる。
「……貸して」
母が手を伸ばす。
乱暴ではない。
ただ、迷いなく引っ張って、真っ直ぐ貼る。
それだけのことなのに、透は妙に安心した。
「……ありがとう」
澪が小さく言う。
次は、持ち出すもの。
避難できるかもしれない。
透が言う前に、澪が指を折って数え始めた。
「水。食べ物。薬。身分証。お金。充電……ライト」
「ガムテと紐も」
透が足す。
「あと、靴。外出るとき裸足は無理」
慧が頷く。
当たり前のことが、当たり前じゃなくなっている。
母が棚を開けて、缶詰を選ぶ。
ツナ。サバ。フルーツ。
軽いものから袋に入れていく。
透はペットボトルの水を集める。
二リットルは重い。
重いのに、安心感がある。
澪は薬箱を開けて、風邪薬と絆創膏を見つけた。
絆創膏を見た瞬間、澪の顔が僅かに歪む。
誰かが怪我する前提で準備している、という現実が刺さる。
「……これも」
澪はそれを袋に入れた。
迷いながらでも、入れた。
透はスマホの充電器を探す。
見つかって、コードを握ったとき、急に空虚になる。
繋がるかどうかも分からない。
それでも握る。
握っていないと、何もできない気がするから。
準備が一段落すると、透はトイレの方を見た。
穴。
あれがある限り、この家は完全には守れない。
守った“つもり”になって、また裏切られる。
「……塞ぐか」
透が言うと、澪がすぐ頷いた。
「段ボール、ある」
段ボールは台所の隅に畳んであった。
通販の箱。
生活の跡。
透はそれを広げて、窓の大きさに合わせて折る。
二重にする。
厚みが増えると、それだけで少しだけ安心する。
母が押さえ、澪がガムテープを貼る。
慧はライトを当てて、隙間を見つける。
ガムテープが足りなくなって、澪が焦って引っ張る。
音が大きくなる。
「……ゆっくり」
母が言う。
その一言で、澪の手が止まる。
ゆっくり貼る。
丁寧に押さえる。
段ボールが窓に固定されていく。
“とりあえず”の補修。
それでも、何もしないよりずっといい。
最後に、透は段ボールを拳で軽く叩いた。
ゴン、という鈍い音がした。
外から叩かれたら、同じ音になる。
透はそれを想像して、すぐにやめた。
補修を終えると、家の中にまた静けさが戻った。
食べた。
手紙を貼った。
荷物をまとめた。
穴を塞いだ。
やるべきことをやったはずなのに、安心は来ない。
透は玄関の方を見た。
鍵。チェーン。家具。
守れている、はずだ。
慧が玄関の近くで立ち止まり、耳を澄ませた。
透も息を止める。
何も聞こえない。
――と思った、そのとき。
外のどこかで、一回だけ。
「….ゥ、ゥ」
小さく唸るような音がした。
透の手が、無意識にバットを探す。
母も消火器に視線を走らせる。
澪はガムテープを握りしめて固まる。
慧は何も言わない。
ただ、玄関の方を見たまま、目を細めた。
音は、それきりだった。
だから怖い。
透は思った。
警察が来ても、減っても、
自分たちの不安が片づくわけじゃない。
家の中を整えるほど、
外の世界の穴が、くっきり見えてしまう。
そして、父のいない場所だけが、
まだ何も埋まっていない。




