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箱庭の進化 〜世界にダンジョンが現れた日〜  作者: 観測者
1章

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18/80

重いエンジン音、手紙

午後の光は、家の中に入る角度が変わっていた。

朝みたいな細さじゃない。

傾いて、伸びて、壁の影を長くする。


リビングの床に落ちた影が、ゆっくり動くのを見ていると、時間だけが過ぎていく気がした。


透は座っているのに、ずっと立っているみたいに疲れていた。

身体のどこにも力を入れていないのに、肩が重い。


段ボールで塞いだトイレの小窓は、そのままだ。

貼ったガムテープの端が少し浮いている気がして、透は何度も目をやった。

見たところで、何も変わらないのに。


澪は持ち出し袋の口を開けたり閉じたりしていた。

中身を確認して、また閉じる。

閉じたのに、すぐまた開ける。


「……足りてるかな」

誰に向けたでもない声。


母はソファの端に座って、消火器を手の届く場所に置いたまま、スマホの画面を見ていた。

画面は暗い。

圏外なのか、充電がないのか、透には分からなかった。


慧は窓の近くで立っている。

外を見るわけでもなく、耳だけを外に向けている。


また、静かだった。


透は水を一口飲んだ。

喉を通る音が、自分の中でやけに大きい。


そのとき、外から別の音がした。


サイレンじゃない。

重いエンジン音。

車がゆっくり走る音。

それが近づいてきて、通りのどこかで止まった。


次に、スピーカーのハウリング。


「――……ッ……こちら……川崎……」


言葉が割れて、最初は何を言っているのか分からない。

でも、“人の声”だと分かった瞬間、透の背中が少しだけ緩んだ。


慧が窓際から離れて、玄関の方へ寄る。

透も息を止めて、音を拾う。


「――この地区……避難……案内……」

「――外に……出ない……」

「――合図があるまで……待機……」


断片だけが耳に入る。

でも、意味は分かる。


避難。

案内。

待機。


母が顔を上げた。

澪も袋を握りしめたまま固まる。


スピーカーの声は続いた。


「――誘導は……順番……」

「――荷物は……最小限……」

「――魔物……まだ……残っている……窓を開けるな……」


魔物。

そう呼ばれた瞬間、透の中で昨日の出来事が一つに繋がった。


人に嚙みついていたネズミ。

飛び跳ねる大きなウサギ。

犬みたいなやつ。

人の形をしたやつ。

名前も分からないものを、向こうはまとめて言う。


分かっているのは、まだ残っている、ということだけだ。

透の胃が縮む。


消えてない。

ただ、見えてないだけだ。


放送車は少し移動して、また止まる。

同じ内容を繰り返しているらしい。

この通りだけじゃない。隣の通りも、その先も。


都市の中で、指示が配られていく音。


澪が息を吐いた。


「……避難所、ほんとに開くんだ」

希望みたいな声になりかけて、すぐに萎む。


母が頷いた。


「……でも、今すぐじゃない」

透はその言葉に少し救われた。

“今すぐ出ろ”と言われたら、息が止まっていた。


今すぐじゃない。

待てる。

待っていい。


……待っていい?


透の頭に、父の顔が浮かぶ。


父がいない。

戻ってこない。


透は口を開けかけて、閉じた。


言えばいい。

「父がまだだ」って。


透は息を吸って、別のことを言った。


「……荷物、減らそう」

声が少し掠れていた。


澪がすぐ頷いた。

頷き方が、早すぎる。

焦りが見える。


「水、全部持ってくの無理だよね」

「二リットルは一本だけ。あとは小さいの」

母が言う。

淡々とではない。


澪がライトを出して、点くか確かめる。

カチ、と音がして光がつく。

その光が、妙に心強い。


透は靴をまとめた。

玄関に並べる。

四人分。


透の手が止まる。


玄関の内側に貼った置き手紙が視界に入る。

真っ直ぐ貼られた紙。

そこに書いた文字が、急に薄く見える。


――戻ったら連絡して。


澪が、透の手元を見ていた。


「……透」

小さく呼ぶ。


透は返事をしなかった。

返事をしたら、出てしまう言葉がある。


澪は少し迷って、言った。


「……このまま避難して、お父さんが帰ってきたら……どうなるんだろ」


透の喉が詰まる。


母がその言葉を遮ることはしなかった。

ただ、一拍置いてから言った。


「……帰ってきたら、手紙を見る」

それだけ。


慰めでも、確信でもない。

でも、今言える限界の答えだった。


澪は唇を噛んだ。

噛んだまま、視線を落とす。


慧が、短く口を開いた。


「……焦っても、出られない」

声が低い。

責めてない。

ただ、事実を置く。


透は頷いた。


出られない。

出たら、死ぬかもしれない。

それは分かってる。


分かってるのに、父の不在だけは、ルールの外にいるみたいだった。


外でまたスピーカーが鳴った。

今度は少し近い。


「――この地区……確認……玄関……応答……」

「――合図があった家から……順に……」


玄関。


透の背中が固くなる。

また、叩く音じゃない。

でも、あの扉の向こうで誰かが動いている。


しばらくして、近所のどこかで、短くドアの開く音がした。

すぐに閉まる音。

声。

返事。

それが数件分、繰り返される。


そして――自分の家の前で、足音が止まった。


透は息を止めた。

慧も、母も、澪も、同じ顔をした。


――コン。コン。


叩く音は乱暴じゃない。

でも、それだけで心臓が跳ねる。


玄関の向こうの声が言った。


「……中の人。いるか。応答してくれ」


透は喉が鳴るのを感じた。

声を出すのが怖い。

出さないのも怖い。


慧が、透を見る。

“返せ”と目が言っている。


透は息を吸って、ドアに近づいた。


「……います」


声が震えないように言ったつもりなのに、少し震えた。


向こうが短く返す。


「人数は」

「……四人。怪我はないです」


言いながら、透の胸が痛んだ。

四人だ。......数はあっている。


向こうが少し間を置いた。


「……了解。今は出るな。窓も開けるな。誘導の順番が来るまで待て」

事務的な声。


透は頷いた。

見えないのに、頷いた。


その声が最後に言った。


「……家族が戻る可能性があるなら、手紙を外から見える位置に残せ。分かるように」


透の目が、玄関内側の紙に落ちた。


外から見えない。


澪が息を呑む。

母が一瞬だけ眉を寄せる。


外に出ないで、外から見える位置。

その条件が、透の頭を重くする。


声はもう離れ始めていた。


「……次の家」


足音が遠ざかる。

通りを歩いていく。


残ったのは、家の中の呼吸と、貼った手紙と、出られない扉。


透は思った。


避難所が開く。

助けが回る。

世界が少し“進む”。


それでも、父のいない場所だけが、取り残される。


透は玄関の前で立ち尽くしたまま、

紙をどうするか考え続けた。


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