重いエンジン音、手紙
午後の光は、家の中に入る角度が変わっていた。
朝みたいな細さじゃない。
傾いて、伸びて、壁の影を長くする。
リビングの床に落ちた影が、ゆっくり動くのを見ていると、時間だけが過ぎていく気がした。
透は座っているのに、ずっと立っているみたいに疲れていた。
身体のどこにも力を入れていないのに、肩が重い。
段ボールで塞いだトイレの小窓は、そのままだ。
貼ったガムテープの端が少し浮いている気がして、透は何度も目をやった。
見たところで、何も変わらないのに。
澪は持ち出し袋の口を開けたり閉じたりしていた。
中身を確認して、また閉じる。
閉じたのに、すぐまた開ける。
「……足りてるかな」
誰に向けたでもない声。
母はソファの端に座って、消火器を手の届く場所に置いたまま、スマホの画面を見ていた。
画面は暗い。
圏外なのか、充電がないのか、透には分からなかった。
慧は窓の近くで立っている。
外を見るわけでもなく、耳だけを外に向けている。
また、静かだった。
透は水を一口飲んだ。
喉を通る音が、自分の中でやけに大きい。
そのとき、外から別の音がした。
サイレンじゃない。
重いエンジン音。
車がゆっくり走る音。
それが近づいてきて、通りのどこかで止まった。
次に、スピーカーのハウリング。
「――……ッ……こちら……川崎……」
言葉が割れて、最初は何を言っているのか分からない。
でも、“人の声”だと分かった瞬間、透の背中が少しだけ緩んだ。
慧が窓際から離れて、玄関の方へ寄る。
透も息を止めて、音を拾う。
「――この地区……避難……案内……」
「――外に……出ない……」
「――合図があるまで……待機……」
断片だけが耳に入る。
でも、意味は分かる。
避難。
案内。
待機。
母が顔を上げた。
澪も袋を握りしめたまま固まる。
スピーカーの声は続いた。
「――誘導は……順番……」
「――荷物は……最小限……」
「――魔物……まだ……残っている……窓を開けるな……」
魔物。
そう呼ばれた瞬間、透の中で昨日の出来事が一つに繋がった。
人に嚙みついていたネズミ。
飛び跳ねる大きなウサギ。
犬みたいなやつ。
人の形をしたやつ。
名前も分からないものを、向こうはまとめて言う。
分かっているのは、まだ残っている、ということだけだ。
透の胃が縮む。
消えてない。
ただ、見えてないだけだ。
放送車は少し移動して、また止まる。
同じ内容を繰り返しているらしい。
この通りだけじゃない。隣の通りも、その先も。
都市の中で、指示が配られていく音。
澪が息を吐いた。
「……避難所、ほんとに開くんだ」
希望みたいな声になりかけて、すぐに萎む。
母が頷いた。
「……でも、今すぐじゃない」
透はその言葉に少し救われた。
“今すぐ出ろ”と言われたら、息が止まっていた。
今すぐじゃない。
待てる。
待っていい。
……待っていい?
透の頭に、父の顔が浮かぶ。
父がいない。
戻ってこない。
透は口を開けかけて、閉じた。
言えばいい。
「父がまだだ」って。
透は息を吸って、別のことを言った。
「……荷物、減らそう」
声が少し掠れていた。
澪がすぐ頷いた。
頷き方が、早すぎる。
焦りが見える。
「水、全部持ってくの無理だよね」
「二リットルは一本だけ。あとは小さいの」
母が言う。
淡々とではない。
澪がライトを出して、点くか確かめる。
カチ、と音がして光がつく。
その光が、妙に心強い。
透は靴をまとめた。
玄関に並べる。
四人分。
透の手が止まる。
玄関の内側に貼った置き手紙が視界に入る。
真っ直ぐ貼られた紙。
そこに書いた文字が、急に薄く見える。
――戻ったら連絡して。
澪が、透の手元を見ていた。
「……透」
小さく呼ぶ。
透は返事をしなかった。
返事をしたら、出てしまう言葉がある。
澪は少し迷って、言った。
「……このまま避難して、お父さんが帰ってきたら……どうなるんだろ」
透の喉が詰まる。
母がその言葉を遮ることはしなかった。
ただ、一拍置いてから言った。
「……帰ってきたら、手紙を見る」
それだけ。
慰めでも、確信でもない。
でも、今言える限界の答えだった。
澪は唇を噛んだ。
噛んだまま、視線を落とす。
慧が、短く口を開いた。
「……焦っても、出られない」
声が低い。
責めてない。
ただ、事実を置く。
透は頷いた。
出られない。
出たら、死ぬかもしれない。
それは分かってる。
分かってるのに、父の不在だけは、ルールの外にいるみたいだった。
外でまたスピーカーが鳴った。
今度は少し近い。
「――この地区……確認……玄関……応答……」
「――合図があった家から……順に……」
玄関。
透の背中が固くなる。
また、叩く音じゃない。
でも、あの扉の向こうで誰かが動いている。
しばらくして、近所のどこかで、短くドアの開く音がした。
すぐに閉まる音。
声。
返事。
それが数件分、繰り返される。
そして――自分の家の前で、足音が止まった。
透は息を止めた。
慧も、母も、澪も、同じ顔をした。
――コン。コン。
叩く音は乱暴じゃない。
でも、それだけで心臓が跳ねる。
玄関の向こうの声が言った。
「……中の人。いるか。応答してくれ」
透は喉が鳴るのを感じた。
声を出すのが怖い。
出さないのも怖い。
慧が、透を見る。
“返せ”と目が言っている。
透は息を吸って、ドアに近づいた。
「……います」
声が震えないように言ったつもりなのに、少し震えた。
向こうが短く返す。
「人数は」
「……四人。怪我はないです」
言いながら、透の胸が痛んだ。
四人だ。......数はあっている。
向こうが少し間を置いた。
「……了解。今は出るな。窓も開けるな。誘導の順番が来るまで待て」
事務的な声。
透は頷いた。
見えないのに、頷いた。
その声が最後に言った。
「……家族が戻る可能性があるなら、手紙を外から見える位置に残せ。分かるように」
透の目が、玄関内側の紙に落ちた。
外から見えない。
澪が息を呑む。
母が一瞬だけ眉を寄せる。
外に出ないで、外から見える位置。
その条件が、透の頭を重くする。
声はもう離れ始めていた。
「……次の家」
足音が遠ざかる。
通りを歩いていく。
残ったのは、家の中の呼吸と、貼った手紙と、出られない扉。
透は思った。
避難所が開く。
助けが回る。
世界が少し“進む”。
それでも、父のいない場所だけが、取り残される。
透は玄関の前で立ち尽くしたまま、
紙をどうするか考え続けた。




