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箱庭の進化 〜世界にダンジョンが現れた日〜  作者: 観測者
1章

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19/80

守った場所、避難

現実とは思えない災害が始まってから、三日目の朝だった。


朝、という言葉だけが浮いている。

光は入ってくる。鳥の声も遠くで鳴く。

それなのに、家の中はいつもの朝じゃない。


透は目を開けた瞬間、まず喉の渇きを感じた。

舌が張り付いている。

水を飲んでも、口の中の粉っぽさが消えない。


床に敷いた毛布はずれていて、背中が冷たかった。

眠ったのか、落ちただけなのか分からない。

夢の続きみたいに、現実が繋がっている。


段ボールで塞いだトイレの小窓は、朝の光を変な角度で遮っていた。

ガムテープの端が、夜の間に少しだけ浮いた気がする。

それを見るたびに、穴という言葉が頭に残る。


母は先に起きていた。

消火器を玄関に寄せ、荷物をまとめ直している。

淡々というほど冷たくはない。

でも、迷いが少ない。迷っている時間はない。


澪は毛布の中で身を縮めて、目だけを開けた。

泣いてはいないんだろう、そんな顔をしている。


慧は窓の近くに立っていた。

外を見ているわけじゃない。

耳が外に向いている。

息を潜めるみたいに、まばたきが少ない。


静かだった。


昨日の午後みたいな放送車の声も、今は聞こえない。

その代わり、遠くで低い音がした。

ヘリの音。

一定の回転。

近づいたり、離れたりする。

空のどこかで、人が動いている。


透が水を一口飲んだとき、玄関の外で、別の音が止まった。


足音。

硬い靴底。

一定のリズム。

迷いのない歩き方。


そして、叩く音。


――コン。コン。


昨日の警官の叩き方とは違う。

短く、規則的。

“合図”の叩き方。


透は息を止めた。

母も、澪も、慧も、同時に固まる。


玄関の向こうから声がした。


「……中の住人。聞こえるか。救助だ」


救助。

その言葉だけで、透の肩の力が抜けそうになって、すぐに戻った。

助かる、じゃない。

動け、の合図。


「荷物は最小限。出る準備をしろ」


命令形だった。

でもせかすだけの声じゃない。

守るための声。


透は頷いて、玄関の前に寄った。


バリケード。

テーブル。棚。椅子。

自分たちで作った“守り”を、今は自分で崩さなきゃいけない。


動かす音が怖かった。

ガタッ、という音は、家の中で一番大きな音になる。

その音は外に漏れる。


透たちは息を押し殺して、少しずつバリケードを崩した。

母が棚を支える。

澪がテーブルの端を押さえる。

慧が椅子を押さえる。

4人の手が同時に動く。


透は一度だけ、玄関の内側を見た。


貼ったままの紙。

ガムテープで真っ直ぐ留めた置き手紙。

外から見えない場所に、まだ貼られている。


昨日の声が思い出される。

――外から見える位置に残せ。


今なら、貼れる。

今しか、貼れない。


「……待って」


透が小さく言うと、母がすぐ頷いた。

止めない。止められない。


透は置き手紙の端に指をかけた。

ガムテープを剥がす音が、やけに大きく感じる。

ビリ、という音に、澪が肩を跳ねさせる。


慧が息だけで言った。


「……急げ」


責める声じゃない。

“時間があるうちに”という声。


透は紙を一度、二つ折りにした。

雨や風のことを考える暇はない。

でも、飛ばないように、端にテープを貼りつける。


開けたら、これを貼る。


チェーンの金具に指が触れた瞬間、透の背中に汗が出た。

これを外す=玄関が開く。


透はチェーンを外した。

金属が擦れる音が、思ったより響く。

心臓が跳ねる。


鍵を回す。

ドアノブが冷たい。


ドアを開ける。


空気が変わった。


外の空気は、匂いが違った。

雨のあとみたいな湿り気と、埃っぽさ。

そして、どこかで焦げた匂い。


玄関のすぐ外に、人が立っていた。


迷彩の服。ヘルメット。

胸の無線。

銃――と、長い棒みたいな装備。

目だけが見える。疲れている。


自衛隊、と言われなくても分かった。

そういう“統一された人間”の空気があった。


「出る前に一つだけ」

透は言って、紙を見せた。


男が一瞬だけ目を細めた。


「手紙か」

短く言って、頷く。


「貼れ。外から見える位置に」


透は、玄関の外側のドア面に、紙を押し当てた。

テープが、指に貼りつきそうになる。

剥がれないように、角を強く押さえる。


紙が、外の光を受けた。

あの文字が、初めて外に出る。


透はそれを確認して、すぐに手を引っ込めた。


「四人か」

声が言う。


透は反射で頷いた。


「……四人です。怪我はありません」


言いながら、透の胸が痛んだ。

四人。数は合ってる。

なのに、足りない。


自衛官は頷き、短く言った。


「よし。出る。荷物はそれだけだな。列から外れるな。振り返るな」


出ていく。

家を。

守った場所を。


透は一瞬だけ玄関の内側を振り返りそうになって、止めた。

振り返るな、と言われたばかりだ。


母が先に出た。

次に澪。

透。

最後に慧が出る。

慧は出る直前、家の中を見ない。

ドア枠だけを一瞬見て、すぐ外へ向いた。


玄関が閉まる音がした。

カタン。

その音が、なにかを切る音に聞こえた。


外は、川崎の住宅街だった。


見慣れた道路。

見慣れた電柱。

見慣れた家並み。


なのに、全てが少しずつズレている。


自転車が倒れている。

車のドアが開いたままになっている。

コンビニの袋が風で転がって、止まって、また動く。


窓ガラスが割れている家があった。

割れたまま、カーテンが揺れている。

中は見えない。見たくない。


道路の端に、黒い染みがあった。

乾いて、光を吸っている。


血だ、と透は思った。

思った瞬間、喉の奥が冷えた。


そのすぐ近くに、引きずったような跡がある。

擦れた赤。

途切れている。

途中で急に消えている。


誰かがここで襲われた。

助けられたのか、連れていかれたのか。


現実が、そこに残っている。


澪が小さく息を吸った。

喉が鳴る音。

泣きそうな音。

でも泣かない。泣けない。


母は前だけを見て歩いた。

歩き方が硬い。

でも止まらない。


慧は列の端を歩いていた。

顔は動かさないのに、視線だけが少しずつ動く。

角。路地。車の下。

“いない”場所を確認しているみたいだった。


自衛隊の列は、通りごとにまとまっていた。

近所の人たちが、同じ方向へ歩いている。


誰も喋らない。


遠くでサイレンが鳴った。

近くでは鳴らない。

近くの音は、別の音で埋まっている。


無線の短い声。

ブーツの擦れる音。

装備が揺れる音。


「……止まれ」


先頭の自衛官が手を上げた。

列がぴたりと止まる。


透も止まる。

心臓が止まる。


何が見えたのか分からない。

でも止まった。


次に、どこかで、小さな音がした。


「……ゥ」


くぐもった声。

短い。癇癪みたいな音。


透の背中に冷たいものが走った。


慧が、目を細めた。

言わない。


自衛官が小さく指示を出す。


「右、角。二人。確認」


二人の隊員が、音も立てずに角の方へ消える。

銃口の向きだけが見える。

それが恐ろしくて、透は目を逸らした。


数秒。


何かがぶつかる音が一回。

鈍い。

そして、もう一回。


それで終わった。


隊員が戻ってきて、短く頷く。


「クリア」


先頭が手を下げた。


「進め」


列がまた動き出す。


何も説明はない。

説明している時間がない。


澪が小さく震えた。

透は気づいた。

自分も震えている。


それでも歩く。

歩かないと置いていかれる。


公立小学校は、意外なほど近かった。

いつもなら通り過ぎる場所。

子どもの声がして、体育の音がして、当たり前に存在している場所。


校門の前にはテープが張られていた。

「避難所」と書かれた紙が貼られている。

紙が風で揺れている。


敷地に入ると、人の数が増えた。

体育館へ向かう流れが一本になっている。


体育館の扉が開いていて、中から空気が漏れてくる。

汗の匂い。

古い木の床の匂い。

毛布の繊維の匂い。


中は広かった。

広いのに、狭く感じた。

人がいる。

泣いている声。

怒鳴っている声。

名前を呼ぶ声。

全部が混ざって、天井に溜まっている。


透は足が止まりそうになって、慧の背中を見て止まらなかった。

慧は躊躇しない。


受付の机が並んでいる。

名簿。ペン。紙。

“普通の災害”みたいな景色。


でも、聞こえる言葉は違う。


「……魔物に襲われて」

「……緑色の人みたいなのが」

「……犬みたいなやつが」

「……行方不明……」


魔物、という単語が、当たり前に飛び交っている。

透の胃がまた縮む。

昨日まで、そんな言葉は存在しなかったはずなのに。


受付の人が言った。


「お名前と、ご家族の人数を」


透は名前を書いた。

母の名前。澪の名前。慧の名前。


人数。

四人。


ペン先が止まる。

止まったのは、次の欄だった。


「同居のご家族で、行方不明の方はいますか」


透の手が、ほんの少し震えた。

父の名前を書く欄が、紙の上に空いている。


書けば現実になる。

書かなければ、いないことになる。


母が透の手元を見て、短く息を吐いた。

そして、透の代わりに、ゆっくり言った。


「……夫が、戻っていません」


受付の人は一瞬だけ目を上げて、すぐに頷いた。

慣れている頷きだった。

慣れてしまった頷き。


「分かりました。こちらにお名前を。特徴と、最後に確認できた場所」


母が答える。

ゆっくりと。


透はその声を聞きながら、体育館の中を見た。


毛布が敷かれている。

テープで区切られたスペース。

水の箱。

配られるカロリーバー。


ここは安全なのかもしれない。

少なくとも、家よりは“人の目”がある。


でも、透の胸の奥には、まだ穴があった。

家のトイレの穴じゃない。

父のいない穴。


慧が、入口の方を見ていた。

体育館の扉の向こう。

外の光が差し込む場所。


慧は何も言わない。

ただ、目を細めている。


透は思った。


避難所に来た。

助けの中に入った。

世界は少し“形”を取り戻している。


それでも、終わっていない。

終わっていないものだけが、ここにも入ってきてしまう。


そして――

父は、まだ、いない。


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