守った場所、避難
現実とは思えない災害が始まってから、三日目の朝だった。
朝、という言葉だけが浮いている。
光は入ってくる。鳥の声も遠くで鳴く。
それなのに、家の中はいつもの朝じゃない。
透は目を開けた瞬間、まず喉の渇きを感じた。
舌が張り付いている。
水を飲んでも、口の中の粉っぽさが消えない。
床に敷いた毛布はずれていて、背中が冷たかった。
眠ったのか、落ちただけなのか分からない。
夢の続きみたいに、現実が繋がっている。
段ボールで塞いだトイレの小窓は、朝の光を変な角度で遮っていた。
ガムテープの端が、夜の間に少しだけ浮いた気がする。
それを見るたびに、穴という言葉が頭に残る。
母は先に起きていた。
消火器を玄関に寄せ、荷物をまとめ直している。
淡々というほど冷たくはない。
でも、迷いが少ない。迷っている時間はない。
澪は毛布の中で身を縮めて、目だけを開けた。
泣いてはいないんだろう、そんな顔をしている。
慧は窓の近くに立っていた。
外を見ているわけじゃない。
耳が外に向いている。
息を潜めるみたいに、まばたきが少ない。
静かだった。
昨日の午後みたいな放送車の声も、今は聞こえない。
その代わり、遠くで低い音がした。
ヘリの音。
一定の回転。
近づいたり、離れたりする。
空のどこかで、人が動いている。
透が水を一口飲んだとき、玄関の外で、別の音が止まった。
足音。
硬い靴底。
一定のリズム。
迷いのない歩き方。
そして、叩く音。
――コン。コン。
昨日の警官の叩き方とは違う。
短く、規則的。
“合図”の叩き方。
透は息を止めた。
母も、澪も、慧も、同時に固まる。
玄関の向こうから声がした。
「……中の住人。聞こえるか。救助だ」
救助。
その言葉だけで、透の肩の力が抜けそうになって、すぐに戻った。
助かる、じゃない。
動け、の合図。
「荷物は最小限。出る準備をしろ」
命令形だった。
でもせかすだけの声じゃない。
守るための声。
透は頷いて、玄関の前に寄った。
バリケード。
テーブル。棚。椅子。
自分たちで作った“守り”を、今は自分で崩さなきゃいけない。
動かす音が怖かった。
ガタッ、という音は、家の中で一番大きな音になる。
その音は外に漏れる。
透たちは息を押し殺して、少しずつバリケードを崩した。
母が棚を支える。
澪がテーブルの端を押さえる。
慧が椅子を押さえる。
4人の手が同時に動く。
透は一度だけ、玄関の内側を見た。
貼ったままの紙。
ガムテープで真っ直ぐ留めた置き手紙。
外から見えない場所に、まだ貼られている。
昨日の声が思い出される。
――外から見える位置に残せ。
今なら、貼れる。
今しか、貼れない。
「……待って」
透が小さく言うと、母がすぐ頷いた。
止めない。止められない。
透は置き手紙の端に指をかけた。
ガムテープを剥がす音が、やけに大きく感じる。
ビリ、という音に、澪が肩を跳ねさせる。
慧が息だけで言った。
「……急げ」
責める声じゃない。
“時間があるうちに”という声。
透は紙を一度、二つ折りにした。
雨や風のことを考える暇はない。
でも、飛ばないように、端にテープを貼りつける。
開けたら、これを貼る。
チェーンの金具に指が触れた瞬間、透の背中に汗が出た。
これを外す=玄関が開く。
透はチェーンを外した。
金属が擦れる音が、思ったより響く。
心臓が跳ねる。
鍵を回す。
ドアノブが冷たい。
ドアを開ける。
空気が変わった。
外の空気は、匂いが違った。
雨のあとみたいな湿り気と、埃っぽさ。
そして、どこかで焦げた匂い。
玄関のすぐ外に、人が立っていた。
迷彩の服。ヘルメット。
胸の無線。
銃――と、長い棒みたいな装備。
目だけが見える。疲れている。
自衛隊、と言われなくても分かった。
そういう“統一された人間”の空気があった。
「出る前に一つだけ」
透は言って、紙を見せた。
男が一瞬だけ目を細めた。
「手紙か」
短く言って、頷く。
「貼れ。外から見える位置に」
透は、玄関の外側のドア面に、紙を押し当てた。
テープが、指に貼りつきそうになる。
剥がれないように、角を強く押さえる。
紙が、外の光を受けた。
あの文字が、初めて外に出る。
透はそれを確認して、すぐに手を引っ込めた。
「四人か」
声が言う。
透は反射で頷いた。
「……四人です。怪我はありません」
言いながら、透の胸が痛んだ。
四人。数は合ってる。
なのに、足りない。
自衛官は頷き、短く言った。
「よし。出る。荷物はそれだけだな。列から外れるな。振り返るな」
出ていく。
家を。
守った場所を。
透は一瞬だけ玄関の内側を振り返りそうになって、止めた。
振り返るな、と言われたばかりだ。
母が先に出た。
次に澪。
透。
最後に慧が出る。
慧は出る直前、家の中を見ない。
ドア枠だけを一瞬見て、すぐ外へ向いた。
玄関が閉まる音がした。
カタン。
その音が、なにかを切る音に聞こえた。
外は、川崎の住宅街だった。
見慣れた道路。
見慣れた電柱。
見慣れた家並み。
なのに、全てが少しずつズレている。
自転車が倒れている。
車のドアが開いたままになっている。
コンビニの袋が風で転がって、止まって、また動く。
窓ガラスが割れている家があった。
割れたまま、カーテンが揺れている。
中は見えない。見たくない。
道路の端に、黒い染みがあった。
乾いて、光を吸っている。
血だ、と透は思った。
思った瞬間、喉の奥が冷えた。
そのすぐ近くに、引きずったような跡がある。
擦れた赤。
途切れている。
途中で急に消えている。
誰かがここで襲われた。
助けられたのか、連れていかれたのか。
現実が、そこに残っている。
澪が小さく息を吸った。
喉が鳴る音。
泣きそうな音。
でも泣かない。泣けない。
母は前だけを見て歩いた。
歩き方が硬い。
でも止まらない。
慧は列の端を歩いていた。
顔は動かさないのに、視線だけが少しずつ動く。
角。路地。車の下。
“いない”場所を確認しているみたいだった。
自衛隊の列は、通りごとにまとまっていた。
近所の人たちが、同じ方向へ歩いている。
誰も喋らない。
遠くでサイレンが鳴った。
近くでは鳴らない。
近くの音は、別の音で埋まっている。
無線の短い声。
ブーツの擦れる音。
装備が揺れる音。
「……止まれ」
先頭の自衛官が手を上げた。
列がぴたりと止まる。
透も止まる。
心臓が止まる。
何が見えたのか分からない。
でも止まった。
次に、どこかで、小さな音がした。
「……ゥ」
くぐもった声。
短い。癇癪みたいな音。
透の背中に冷たいものが走った。
慧が、目を細めた。
言わない。
自衛官が小さく指示を出す。
「右、角。二人。確認」
二人の隊員が、音も立てずに角の方へ消える。
銃口の向きだけが見える。
それが恐ろしくて、透は目を逸らした。
数秒。
何かがぶつかる音が一回。
鈍い。
そして、もう一回。
それで終わった。
隊員が戻ってきて、短く頷く。
「クリア」
先頭が手を下げた。
「進め」
列がまた動き出す。
何も説明はない。
説明している時間がない。
澪が小さく震えた。
透は気づいた。
自分も震えている。
それでも歩く。
歩かないと置いていかれる。
公立小学校は、意外なほど近かった。
いつもなら通り過ぎる場所。
子どもの声がして、体育の音がして、当たり前に存在している場所。
校門の前にはテープが張られていた。
「避難所」と書かれた紙が貼られている。
紙が風で揺れている。
敷地に入ると、人の数が増えた。
体育館へ向かう流れが一本になっている。
体育館の扉が開いていて、中から空気が漏れてくる。
汗の匂い。
古い木の床の匂い。
毛布の繊維の匂い。
中は広かった。
広いのに、狭く感じた。
人がいる。
泣いている声。
怒鳴っている声。
名前を呼ぶ声。
全部が混ざって、天井に溜まっている。
透は足が止まりそうになって、慧の背中を見て止まらなかった。
慧は躊躇しない。
受付の机が並んでいる。
名簿。ペン。紙。
“普通の災害”みたいな景色。
でも、聞こえる言葉は違う。
「……魔物に襲われて」
「……緑色の人みたいなのが」
「……犬みたいなやつが」
「……行方不明……」
魔物、という単語が、当たり前に飛び交っている。
透の胃がまた縮む。
昨日まで、そんな言葉は存在しなかったはずなのに。
受付の人が言った。
「お名前と、ご家族の人数を」
透は名前を書いた。
母の名前。澪の名前。慧の名前。
人数。
四人。
ペン先が止まる。
止まったのは、次の欄だった。
「同居のご家族で、行方不明の方はいますか」
透の手が、ほんの少し震えた。
父の名前を書く欄が、紙の上に空いている。
書けば現実になる。
書かなければ、いないことになる。
母が透の手元を見て、短く息を吐いた。
そして、透の代わりに、ゆっくり言った。
「……夫が、戻っていません」
受付の人は一瞬だけ目を上げて、すぐに頷いた。
慣れている頷きだった。
慣れてしまった頷き。
「分かりました。こちらにお名前を。特徴と、最後に確認できた場所」
母が答える。
ゆっくりと。
透はその声を聞きながら、体育館の中を見た。
毛布が敷かれている。
テープで区切られたスペース。
水の箱。
配られるカロリーバー。
ここは安全なのかもしれない。
少なくとも、家よりは“人の目”がある。
でも、透の胸の奥には、まだ穴があった。
家のトイレの穴じゃない。
父のいない穴。
慧が、入口の方を見ていた。
体育館の扉の向こう。
外の光が差し込む場所。
慧は何も言わない。
ただ、目を細めている。
透は思った。
避難所に来た。
助けの中に入った。
世界は少し“形”を取り戻している。
それでも、終わっていない。
終わっていないものだけが、ここにも入ってきてしまう。
そして――
父は、まだ、いない。




