家族を探す男、外の音
体育館の空気は、ぬるかった。
人の数が多すぎて、息が循環していない。
汗の匂いと毛布の繊維と、濡れた靴下の匂い。
床の板が軋むたび、誰かの肩が跳ねる。
透は区切られたスペースの端に座り、荷物の口を何度も触っていた。
閉まっているのに、閉まっていない気がする。
"安心"が、まだ掴めない。
澪は毛布を膝にかけたまま、体育館の入口を見ていた。
誰かを待つ目だ。
でも、その“誰か”は口にしない。
母は受付の近くで、係の人と短い話をして戻ってきた。
父の名前を書いた紙が、何枚も重なっていく。
それを持つ指先が、少しだけ白い。
慧は入口が見える位置に座っている。
外を見るわけじゃない。
不安なんだろう。
慧の足元には、細長い袋があった。
中身は、アイアン。
ゴルフのクラブ。
持ってきたことを誰も責められない。
体育館の向こう側で、声が大きくなった。
「……だから、確認してくれって言ってんだよ」
男の声。若い。30代ぐらいだろう。
怒鳴っているようで、声の芯が揺れている。
透は顔を上げた。
受付の列の外で、男が係の人に詰め寄っている。
作業服のまま、袖口が汚れている。
靴の泥が乾いて、固まっている。
係の人が言った。
「今、リスト照合しています。順番に——」
「順番じゃないだろ」
男が笑った。笑えない笑い方だった。
「三日だぞ。三日。連絡つかねえ。避難所、ここだけじゃないって言ったよな。無線あるんだろ」
透は息を止めた。
無線。
避難所同士で情報が回る。
その言葉だけが、胸の奥に刺さる。
男が続けた。
「家族が生きてるかどうかだけ。場所が分かれば俺が行く。——行くって言ったら止めるんだろ? じゃあ教えろよ」
係の人の目が揺れた。
揺れたまま、言葉を選ぶ。
「……あなたのご家族は、登録がまだ——」
「登録? こっちが登録しろって言ってんだよ!」
男の声が割れる。
「職場で避難して、こっちに来た。そしたら家族がいない。どこ行ったか分かんねえ。…何も分かんねえのに、座って待てって?」
その瞬間、体育館の中の視線がいくつも男に刺さった。
刺さるほど、男の逃げ場はなくなる。
透の背中が冷たくなった。
男が言っているのは、透が喉の奥で飲み込んでいる言葉と同じだ。
係の人が言った。
「今、別の避難所にも照会しています。確認には時間が——」
男が一歩前に出た。
その足が、床板を強く鳴らす。
その音に、慧の肩が少しだけ動いた。
慧が小さく言った。
「……音」
透も気づく。
体育館の入口付近の空気が、一段だけ薄くなった。
誰かが扉を見た。
誰かが“外”を思い出した。
男は、係の人の言葉を聞いていない。
「時間、時間って……」
声が落ちる。
怒りじゃない。焦りが底にある。
「じゃあ、俺、外出るわ。自分で探す」
その言葉で、体育館がざわついた。
係の人が慌てて言う。
「出ないでください! 今は——」
男が首を振った。
「出ないと、見つからない」
もう決めてしまった声だった。
そのとき、入口側の自衛官が歩いてきた。
制服の迷彩が、体育館の木床の上では妙に浮く。
銃は見えない位置に下げている。
威圧じゃない。
自衛官が言った。
「外は危険だ。探すなら、照会をする。名前と特徴をもう一度——」
「もうやった」
男が吐き捨てる。
「何回も。何回もだ。で、結果が“見つからない”だろ」
自衛官は言い返さない。
「……今、外で作業してる。動ける人数は限られてる」
それだけ言って、男の視線を真正面から受け止める。
男は、その視線に一瞬だけ押される。
押されて、それでも折れない。
男が言った。
「じゃあ、俺も動く。動ける。——ここで待ってたら、ずっと“見つからない”だろ」
透の胸が痛んだ。
父の欄が、頭の中で白くなる。
澪が、透の袖を指先で掴んだ。
小さく、弱い。
慧が、入口の方を見たまま言った。
「……一人で動くのが一番危ない」
透は頷いた。
でも、言葉にできない。
“父も一人で動いてるかもしれない”が、喉に詰まる。
自衛官が男に言う。
「今は、ここにいろ。照会は続ける」
「待てない」
男が言う。
「待ってたら、死ぬかもしれない」
その瞬間、体育館の外から——鈍い音がした。
ドン。
遠い。
でも、硬い。
金属じゃない。木でもない。
何か重いものが、どこかにぶつかったような音。
体育館の中の会話が、一斉に止まった。
自衛官の顔が変わる。
変わるのは一瞬。
でも、その一瞬で全員に伝わる。
“外で何かが起きた”。
無線が短く鳴る。
自衛官が耳元に手をやって、低く言った。
「……了解」
短い。
そして、視線だけで部下に合図する。
入口側の隊員が、扉の外へ一人出た。
扉は開けない。
隙間を作らない。
ただ、外へ回った。
体育館の中の人間が、息を止める。
息を止める音が、聞こえそうなくらい静かになる。
男も黙った。
黙ったまま、拳を握っている。
震えが、怒りじゃなくなっていく。
慧が、透の方を一瞬だけ見た。
目で言っている。
「今は動くな」。
透は頷く。
頷いたのに、胸の中は逆に騒がしくなる。
動くな、と言われるほど、動きたくなる。
澪は唇を噛んでいた。
噛んだまま、声を出さない。
声を出したら、泣いてしまいそうだから。
外でまた、音がした。
ドン。
さっきより少し近い。
透の背中を冷たい汗が伝う。
体育館の壁は厚いはずなのに、薄く感じてしまう。
透たちを守っているのは壁じゃない。
“外が今たまたまこっちを見ていない”という偶然だけだ。
戻ってきた隊員が、扉の内側で小さく頷いた。
何かを言う代わりに、首だけで。
自衛官が男に言う。
「……今の音、聞こえたな」
男が頷く。
「外はそういう場所になってる。お前が動いても、家族は見つからない。——探す人間が一人減るだけだ」
男の肩が少し落ちた。
落ちたまま、持ちこたえている。
男は、やっと小さく言った。
「……じゃあ、俺は、何すりゃいい」
係の人が一歩前に出た。
手元の紙を見せる。
淡々とした事務の声を、必死に保って。
「ご家族の写真があれば。服装。最後に見た時間。特徴。避難所同士で回します」
「……写真」
男が呟く。
透の胸が苦しくなる。
父の写真。
今どこにある?
スマホは充電がいつまでもつか分からない。
母が、透の横で小さく言った。
「……うちも、写真を探そう」
声は落ち着いている。
透は頷いた。
頷いたまま、体育館の入口を見た。
扉の向こうは見えない。
見えないのに、近い。
慧が、足元のアイアンを拾い上げた。
柄を確かめるように握り、すぐに下ろす。
見せびらかすためじゃない。
“自分の守れる範囲”を確認する動き。
澪が透を見た。
何かが起きたら飛び出してしまいそうな目。
透は言った。
「……動くなよ」
自分に言い聞かせるみたいに。
澪は頷いた。
頷いて、でも完全には止まれない。
体育館の天井の蛍光灯が、微かに唸っている。
それだけが、平常の音に聞こえた。
外で何かが起きている。
中でも何かが崩れそうになっている。
透は思った。
避難所に来たのに、 “待つ”ことは辛い。
待つほど、いないものが増えていく。
そして、父の欄だけが、まだ埋まらない。




