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箱庭の進化 〜世界にダンジョンが現れた日〜  作者: 観測者
1章

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21/80

体育館の外周、戦場

体育館の空気は、昨日より重かった。


人が増えたわけじゃない。減ってもいない。

ただ、湿り気だけが積もっていく。


毛布の下で膝を抱えた子どもが、無意味に足を揺らしている。

揺れが止まるたび、床板が小さく鳴って、周りの肩が一斉に固くなる。


透は、何度も同じ場所を見ていた。

入口。受付。扉の隙間――じゃない。

扉の向こうの、見えないなにか。


慧は入口の見える位置に座っている。

足元の細長い袋――アイアンが、毛布の端から少し覗いていた。

隠しているわけじゃない。出しているわけでもない。


母は、父の照会に使う紙を小さく畳み直していた。

畳んだところで軽くならないのに、指はそれを続ける。

澪は、体育館の天井を見上げて、目を乾かすみたいに瞬きを繰り返していた。


体育館の向こう側で、昨日の男――作業服の男が、壁にもたれて座り込んでいるのが見えた。

怒ってはいない。けれど、落ち着いてもいない。

拳を握って、ほどいて、また握る。

ぶつけられるものがない。


その男の視線が、何度も入口に吸い寄せられていた。

出たい。

出て、探したい。

でも、出られない。


それを誰より自分が分かっている。



外から音がしたのは、午後に入った頃だった。


最初は、気のせいみたいな振動だった。

体育館の壁の向こう、地面の遠いところが「一度だけ」重く鳴る。


ドン。


会話が止まる。

止まるというより、吸っていた息が一斉に引っ込む。


次の瞬間、入口側の自衛官が立ち上がった。

体育館の空気が、それだけで変わる。


無線が短く鳴って、誰かが小さく返事をする。


「……了解」


声は低い。感情を削った声だ。


入口付近にいた人が、無意識に後ずさった。

母親が、子どもを毛布ごと引き寄せる。

誰かが「静かに」と言った気がする。でも声はすぐ飲まれて消える。


透は、澪の肩が震えるのを見た。

澪は揺れを止めようとして、逆に硬直している。


慧が小さく言った。


「……大丈夫」


透は息を止めたまま、頷く。

家で聞いた音と違う。

ドアを叩く音でも、窓を揺する音でもない。

“外で何かがぶつかった音”。


体育館の「外周」で起きた音だ。



入口側の自衛官が、扉に近づいた。

開けない。

代わりに、扉の脇に回って、外周へ抜ける。体育館の中からは見えなくなる。


扉の前に、残る隊員が二人。

視線が前を向く。銃口が下を向く。

それだけで、空気が「戦場の隣」になる。


ドン。


さっきより近い。

今度は壁が震えた気がした。

床板の軋みが連鎖して、どこかで誰かが小さく泣き声を漏らした。


作業服の男が立ち上がった。

椅子が少し擦れて、音が出る。


その音に、入口側の隊員が一瞬だけ視線を向けた。

“止める目”。

男はそれでも、扉に一歩寄る。


透の胸が痛くなる。

その「寄りたい」は、透の中にもある。


男が言った。


「……外、今――」


言い終わらないうちに、自衛官が低く言った。


「戻れ」


命令形。短い。

怖くはない。

でも、逆らえない。


男は止まる。

止まって、拳を握り直す。

衝動を噛み砕くみたいに。


それでも口が動く。


「家族が――」


自衛官は言い返さない。


「今は、戻れ」


同じ言葉を、同じ音量で繰り返す。


男の肩が落ちる。落ちて、持ちこたえる。

その瞬間、体育館の外で、別の音がした。


ガン。


硬い音。金属が触れたような音。

それに続いて、短い足音。二人分。三人分。

そして――ほんの数秒だけ、何かがぶつかる鈍い音が二回。


ドン。ドン。


それで終わった。


終わった、というのが怖い。

何が起きたのか分からないまま。


体育館の中の誰も、説明を求める声を出せない。

声を出したら、外がこっちを向く気がした。


透は、澪の手が自分の袖を掴んでいるのに気づいた。

弱く。

でも離れない。


慧は、足元の袋に指先を置いた。

持ち上げない。

ただ、「そこにある」と確かめるように。



外周へ回っていた隊員が戻ってきたのは、ほんの少し後だった。


扉は開かない。

扉の脇から、影が戻ってくる。

隊員の靴底が、床を一度だけ鳴らした。


「クリア」


小さな声。

聞こえた人だけが、聞こえたふりをする。


入口側の自衛官は、表情を変えないまま、体育館の中へ向き直った。


「静かに。座れ」


誰も反発しない。


作業服の男も、ゆっくり座った。


男は、自分の膝の上を見つめて、小さく言った。


「……俺、何やってんだろ」


誰に向けたでもない声。

透の胸が、少しだけ締まる。


男が続ける。


「探したいだけなのに……ここで座って……」


透は声を出さなかった。

出せない言葉が、いくつも喉の奥で固まっている。


父のこと。

「探したい」こと。

「でも出られない」こと。


母が、透の横で小さく息を吐いた。

澪は、掴んでいた袖をそっと離した。離して、でも自分の膝を抱き直した。


慧が、入口を見たまま言う。


「……今のは、こっちじゃない」


透は頷く。

“たまたま隣で起きた”。

それが、今いちばん怖い。


体育館は安全じゃない。

ただ、今は「優先順位が低い」だけ。

外が、こっちを見ていないだけ。


外の音が消えたあとも、体育館の中の空気は戻らなかった。

戻らないまま、全員が同じことを考える。


次は、こっちかもしれない。


透は思った。


避難所に来た。

守られている場所に来た。


それでも――ここは、戦場の外じゃない。

戦場の、すぐ隣だ。


そして父は、その戦場のどこかにまだいる。

そう考えた瞬間、透の中で「待つ」という言葉が、少しだけ違う意味に変わった。


休むためじゃない。

すぐに動けるように。


透は、握りしめた手のひらをゆっくり開いた。

爪の跡が、白く残っていた。


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