体育館の外周、戦場
体育館の空気は、昨日より重かった。
人が増えたわけじゃない。減ってもいない。
ただ、湿り気だけが積もっていく。
毛布の下で膝を抱えた子どもが、無意味に足を揺らしている。
揺れが止まるたび、床板が小さく鳴って、周りの肩が一斉に固くなる。
透は、何度も同じ場所を見ていた。
入口。受付。扉の隙間――じゃない。
扉の向こうの、見えないなにか。
慧は入口の見える位置に座っている。
足元の細長い袋――アイアンが、毛布の端から少し覗いていた。
隠しているわけじゃない。出しているわけでもない。
母は、父の照会に使う紙を小さく畳み直していた。
畳んだところで軽くならないのに、指はそれを続ける。
澪は、体育館の天井を見上げて、目を乾かすみたいに瞬きを繰り返していた。
体育館の向こう側で、昨日の男――作業服の男が、壁にもたれて座り込んでいるのが見えた。
怒ってはいない。けれど、落ち着いてもいない。
拳を握って、ほどいて、また握る。
ぶつけられるものがない。
その男の視線が、何度も入口に吸い寄せられていた。
出たい。
出て、探したい。
でも、出られない。
それを誰より自分が分かっている。
⸻
外から音がしたのは、午後に入った頃だった。
最初は、気のせいみたいな振動だった。
体育館の壁の向こう、地面の遠いところが「一度だけ」重く鳴る。
ドン。
会話が止まる。
止まるというより、吸っていた息が一斉に引っ込む。
次の瞬間、入口側の自衛官が立ち上がった。
体育館の空気が、それだけで変わる。
無線が短く鳴って、誰かが小さく返事をする。
「……了解」
声は低い。感情を削った声だ。
入口付近にいた人が、無意識に後ずさった。
母親が、子どもを毛布ごと引き寄せる。
誰かが「静かに」と言った気がする。でも声はすぐ飲まれて消える。
透は、澪の肩が震えるのを見た。
澪は揺れを止めようとして、逆に硬直している。
慧が小さく言った。
「……大丈夫」
透は息を止めたまま、頷く。
家で聞いた音と違う。
ドアを叩く音でも、窓を揺する音でもない。
“外で何かがぶつかった音”。
体育館の「外周」で起きた音だ。
⸻
入口側の自衛官が、扉に近づいた。
開けない。
代わりに、扉の脇に回って、外周へ抜ける。体育館の中からは見えなくなる。
扉の前に、残る隊員が二人。
視線が前を向く。銃口が下を向く。
それだけで、空気が「戦場の隣」になる。
ドン。
さっきより近い。
今度は壁が震えた気がした。
床板の軋みが連鎖して、どこかで誰かが小さく泣き声を漏らした。
作業服の男が立ち上がった。
椅子が少し擦れて、音が出る。
その音に、入口側の隊員が一瞬だけ視線を向けた。
“止める目”。
男はそれでも、扉に一歩寄る。
透の胸が痛くなる。
その「寄りたい」は、透の中にもある。
男が言った。
「……外、今――」
言い終わらないうちに、自衛官が低く言った。
「戻れ」
命令形。短い。
怖くはない。
でも、逆らえない。
男は止まる。
止まって、拳を握り直す。
衝動を噛み砕くみたいに。
それでも口が動く。
「家族が――」
自衛官は言い返さない。
「今は、戻れ」
同じ言葉を、同じ音量で繰り返す。
男の肩が落ちる。落ちて、持ちこたえる。
その瞬間、体育館の外で、別の音がした。
ガン。
硬い音。金属が触れたような音。
それに続いて、短い足音。二人分。三人分。
そして――ほんの数秒だけ、何かがぶつかる鈍い音が二回。
ドン。ドン。
それで終わった。
終わった、というのが怖い。
何が起きたのか分からないまま。
体育館の中の誰も、説明を求める声を出せない。
声を出したら、外がこっちを向く気がした。
透は、澪の手が自分の袖を掴んでいるのに気づいた。
弱く。
でも離れない。
慧は、足元の袋に指先を置いた。
持ち上げない。
ただ、「そこにある」と確かめるように。
⸻
外周へ回っていた隊員が戻ってきたのは、ほんの少し後だった。
扉は開かない。
扉の脇から、影が戻ってくる。
隊員の靴底が、床を一度だけ鳴らした。
「クリア」
小さな声。
聞こえた人だけが、聞こえたふりをする。
入口側の自衛官は、表情を変えないまま、体育館の中へ向き直った。
「静かに。座れ」
誰も反発しない。
作業服の男も、ゆっくり座った。
男は、自分の膝の上を見つめて、小さく言った。
「……俺、何やってんだろ」
誰に向けたでもない声。
透の胸が、少しだけ締まる。
男が続ける。
「探したいだけなのに……ここで座って……」
透は声を出さなかった。
出せない言葉が、いくつも喉の奥で固まっている。
父のこと。
「探したい」こと。
「でも出られない」こと。
母が、透の横で小さく息を吐いた。
澪は、掴んでいた袖をそっと離した。離して、でも自分の膝を抱き直した。
慧が、入口を見たまま言う。
「……今のは、こっちじゃない」
透は頷く。
“たまたま隣で起きた”。
それが、今いちばん怖い。
体育館は安全じゃない。
ただ、今は「優先順位が低い」だけ。
外が、こっちを見ていないだけ。
外の音が消えたあとも、体育館の中の空気は戻らなかった。
戻らないまま、全員が同じことを考える。
次は、こっちかもしれない。
透は思った。
避難所に来た。
守られている場所に来た。
それでも――ここは、戦場の外じゃない。
戦場の、すぐ隣だ。
そして父は、その戦場のどこかにまだいる。
そう考えた瞬間、透の中で「待つ」という言葉が、少しだけ違う意味に変わった。
休むためじゃない。
すぐに動けるように。
透は、握りしめた手のひらをゆっくり開いた。
爪の跡が、白く残っていた。




