照会掲示、番号
体育館の朝は、静かでうるさい。
誰かの咳。
誰かの毛布を引きずる音。
ペットボトルを開ける、乾いた捻り。
それらが混ざって、天井の下で薄い雲みたいに溜まっている。
透は目を開けた瞬間、まず「人の息」を感じた。
家にいたときは、静けさが怖かった。
ここでは、静かにならないことが怖い。
隣で澪が身を起こす。
髪がぐしゃぐしゃのまま、ぼんやり入口を見る。
昨日からずっと、同じ方向だ。
母はもう起きていて、受付の方へ行っていた。
戻ってきたとき、手には紙が増えていた。
折り目がついた紙。コピーされた紙。番号が振られた紙。
紙が増えるほど、安心するわけじゃない。
増えるほど、現実が増えていくみたいだ。
慧は入口の見える位置に座っていた。
視線は扉に固定されていない。
扉の周辺の「空気」を見ているみたいに、少しだけ泳いでいる。
足元の細長い袋――アイアンが、毛布の端から覗いていた。
それがあることを、透は何度も確認してしまう。
必要になる日が来ない方がいいのに、必要になる日を前提にしてしまう。
体育館の隅が、いつの間にか変わっていた。
机が一つ増えている。
その横に、ホワイトボードが立っている。
段ボールの切れ端で作った看板に、太い字で書かれていた。
「照会・掲示」
掲示板の前には、すでに人が集まっていた。
集まっているのに、声がない。
喋っているのに、喋っていないみたいな薄さ。
透は立ち上がって、そこへ近づいた。
澪も遅れてついてくる。
母は、少し後ろから。
ボードには、列があった。
「保護」
「搬送」
そして、短い空白のあとに、「死亡確認」。
透はその最後の文字を見た瞬間、喉の奥が固くなるのを感じた。
“死亡”という言葉は、ニュースの中の言葉だった。
今は、同じ目線にある。
名前は書かれていない。
代わりに、番号が並んでいる。
「受付番号」「照会番号」。
係の人が言っていた。
“個人情報”とか、そういうのではない。
掲示板の前で、誰かが紙を握りしめている。
紙の端が、汗でふやけている。
「……あった」
声が漏れる。
泣き声じゃない。
ただ息が抜ける音。
その人は、崩れなかった。
ボードの近くの係の人に、番号の書かれた紙を差し出す。
係の人が頷き、別の紙を渡す。
そのやりとりを見ているだけで、透は胸が苦しくなった。
番号が見つかる。
それは、希望にもなるし、絶望にもなる。
でも一番怖いのは――番号がどこにもないことだ。
透は自分のポケットを触った。
紙は入っていない。
父の照会番号は、母が持っている。
母が一歩前へ出た。
係の人に、折り目のついた紙を見せる。
係の人がホワイトボードの横のファイルをめくる。
指が速い。速いのに、止まる。
母は、表情を変えない。
変えないようにしている。
その顎の力だけが、硬い。
「……まだ、未確認です」
係の人が言った。
母が頷く。
頷いて、引き下がる。
何も言わない。
透の胸が痛む。
痛くても、何もできない。
澪が、小さく息を吸った。
吸った息が、喉で止まっている。
泣き声にならないように、止めている。
掲示板の前で、別の人が声を上げた。
「死亡確認って……どうやって……」
声が震えていた。
係の人が答える。
「……人の遺体が確認できた場合です。身元が取れた場合に限って、こちらに載ります」
「じゃあ、見つからないのは……?」
「未確認になります」
誰かが、笑った。
笑っていない、乾いた笑い。
喉の奥で鳴る音だけ。
「じゃあさ……死んだって分かった方が、マシってこと?」
体育館の空気が、少しだけ揺れた。
係の人は否定しない。
否定できない。
淡々と言った。
「……確認できない限り、扱いは未確認です。照会は続けます」
透は、その会話を聞いてしまって、背中が冷えた。
人間の死体は残る。
だから、見つければ“確定”になる。
でも、見つけられなければ、永遠に“未確認”のままになる。
救助が遅いからじゃない。
遅いのは、救助だけじゃない。
世界そのものが、間に合っていない。
ふと、視線が横へ滑った。
昨日の男――作業服の男が、掲示板の少し離れたところに立っていた。
寝れていないんだろう。
目の下が黒い。
拳を握って、ほどいて、また握る。
男は、ホワイトボードを睨んでいる。
睨んだところで、文字は変わらないのに。
男の近くに、係の人が紙束を置いた。
「特徴」「服装」「最後に確認できた場所」と書かれた用紙。
男はそれを掴んで、乱暴に膝の上で広げた。
ペンがない。
誰かが差し出す。
男は礼を言わない。
ペン先が紙の上を走る。
書く音が、やけに大きく聞こえる。
体育館の中の人間が、同じことをやっている。
探したい人間は、外に出る代わりに、紙に潜る。
係の人が、ホワイトボードの横に別の紙を貼った。
今度は、地図だった。
川崎周辺の地図。
赤い線で囲まれた区域。
黄色い斜線の区域。
緑の点線。
凡例が書かれている。
「危険区域(立入禁止)」
「警戒区域(許可制)」
「避難誘導ルート」
国の発表、というよりは現場の運用だった。
でも、紙に印刷されるだけで、世界が一段形を帯びる気がする。
透はその地図を見て、急に現実味が増すのを感じた。
ここがダメ。
ここはまだマシ。
ここを通れ。
ゲームのマップみたいだ、と一瞬思って、吐き気がした。
ゲームは、死んでもやり直せる。
現実は、やり直せない。
母が、その地図の一点を指でなぞった。
「……ここ」
指先が止まる。
「お父さんの現場、こっち方面だった」
母の声は小さい。
でも、曖昧じゃない。
透は母の指先を追った。
武蔵小杉――までは書かれていない。
でも、川の向こう、線路の集まる辺り。
交通が集中する場所。
透でも分かる。
母は続けた。
「通信の……復旧の手伝い。呼ばれたって」
「復旧……」
澪が呟く。
その単語が、今の世界では別の意味を持つ。
母が頷く。
「停電とか、基地局とか……詳しいことは分かんない。」
母の目が、地図から離れない。
透は、息を吸った。
父がどこにいたか。
どの方向にいる可能性があるか。
それを考えた瞬間、胸の中の“未確認”が、少しだけ形を持った。
怖い形。
でも、形がないよりマシだ。
慧が、地図を見たまま言った。
「……この辺、赤だな」
赤。
危険区域。
立入禁止。
透の喉が鳴った。
出た音が、自分でも分かるくらい乾いていた。
澪が透の袖を掴む。
昨日みたいな強さじゃない。
でも、掴んでいる。
落ちないように、掴んでいる。
母が、透に言った。
「……今日は、写真を出す。照会に回す」
「うん」
透は頷いた。
“今日は”という言葉が、変だった。
普通なら、当たり前の予定の言葉だ。
今は、祈りみたいな言葉になる。
係の人が、ボードの前で言った。
「照会の更新は、昼と夕方です。番号を持っている方は、更新時に確認してください」
誰も返事をしない。
返事をする余裕がない。
でも、全員が聞いている。
更新。
昼。
夕方。
時間が、また動き始める。
透は思った。
待つ、というのは、ただ座ることじゃない。
番号を握って、地図を見て、写真を探す。
体育館の外が戦場で、
中が手続きで、
その間に、家族が挟まっている。
透は指先に力を入れて、ポケットの中のスマホを確かめた。
冷たい板の感触。
まだ、使える。
使えるうちに、やるべきことがある。
父の欄は、まだ埋まらない。
でも――
父がいた場所は、初めて、地図の上に置かれた。




