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箱庭の進化 〜世界にダンジョンが現れた日〜  作者: 観測者
1章

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22/80

照会掲示、番号

体育館の朝は、静かでうるさい。


誰かの咳。

誰かの毛布を引きずる音。

ペットボトルを開ける、乾いた捻り。


それらが混ざって、天井の下で薄い雲みたいに溜まっている。


透は目を開けた瞬間、まず「人の息」を感じた。

家にいたときは、静けさが怖かった。

ここでは、静かにならないことが怖い。


隣で澪が身を起こす。

髪がぐしゃぐしゃのまま、ぼんやり入口を見る。

昨日からずっと、同じ方向だ。


母はもう起きていて、受付の方へ行っていた。

戻ってきたとき、手には紙が増えていた。

折り目がついた紙。コピーされた紙。番号が振られた紙。

紙が増えるほど、安心するわけじゃない。

増えるほど、現実が増えていくみたいだ。


慧は入口の見える位置に座っていた。

視線は扉に固定されていない。

扉の周辺の「空気」を見ているみたいに、少しだけ泳いでいる。


足元の細長い袋――アイアンが、毛布の端から覗いていた。

それがあることを、透は何度も確認してしまう。

必要になる日が来ない方がいいのに、必要になる日を前提にしてしまう。


体育館の隅が、いつの間にか変わっていた。


机が一つ増えている。

その横に、ホワイトボードが立っている。

段ボールの切れ端で作った看板に、太い字で書かれていた。


「照会・掲示」


掲示板の前には、すでに人が集まっていた。

集まっているのに、声がない。

喋っているのに、喋っていないみたいな薄さ。


透は立ち上がって、そこへ近づいた。

澪も遅れてついてくる。

母は、少し後ろから。


ボードには、列があった。


「保護」

「搬送」

そして、短い空白のあとに、「死亡確認」。


透はその最後の文字を見た瞬間、喉の奥が固くなるのを感じた。

“死亡”という言葉は、ニュースの中の言葉だった。

今は、同じ目線にある。


名前は書かれていない。

代わりに、番号が並んでいる。

「受付番号」「照会番号」。

係の人が言っていた。

“個人情報”とか、そういうのではない。


掲示板の前で、誰かが紙を握りしめている。

紙の端が、汗でふやけている。


「……あった」


声が漏れる。

泣き声じゃない。

ただ息が抜ける音。


その人は、崩れなかった。

ボードの近くの係の人に、番号の書かれた紙を差し出す。

係の人が頷き、別の紙を渡す。


そのやりとりを見ているだけで、透は胸が苦しくなった。


番号が見つかる。

それは、希望にもなるし、絶望にもなる。

でも一番怖いのは――番号がどこにもないことだ。


透は自分のポケットを触った。

紙は入っていない。

父の照会番号は、母が持っている。


母が一歩前へ出た。

係の人に、折り目のついた紙を見せる。

係の人がホワイトボードの横のファイルをめくる。

指が速い。速いのに、止まる。


母は、表情を変えない。

変えないようにしている。

その顎の力だけが、硬い。


「……まだ、未確認です」

係の人が言った。


母が頷く。

頷いて、引き下がる。

何も言わない。


透の胸が痛む。

痛くても、何もできない。


澪が、小さく息を吸った。

吸った息が、喉で止まっている。

泣き声にならないように、止めている。


掲示板の前で、別の人が声を上げた。


「死亡確認って……どうやって……」

声が震えていた。


係の人が答える。


「……人の遺体が確認できた場合です。身元が取れた場合に限って、こちらに載ります」

「じゃあ、見つからないのは……?」

「未確認になります」


誰かが、笑った。

笑っていない、乾いた笑い。

喉の奥で鳴る音だけ。


「じゃあさ……死んだって分かった方が、マシってこと?」


体育館の空気が、少しだけ揺れた。


係の人は否定しない。

否定できない。

淡々と言った。


「……確認できない限り、扱いは未確認です。照会は続けます」


透は、その会話を聞いてしまって、背中が冷えた。


人間の死体は残る。

だから、見つければ“確定”になる。

でも、見つけられなければ、永遠に“未確認”のままになる。


救助が遅いからじゃない。

遅いのは、救助だけじゃない。

世界そのものが、間に合っていない。


ふと、視線が横へ滑った。


昨日の男――作業服の男が、掲示板の少し離れたところに立っていた。

寝れていないんだろう。

目の下が黒い。

拳を握って、ほどいて、また握る。


男は、ホワイトボードを睨んでいる。

睨んだところで、文字は変わらないのに。


男の近くに、係の人が紙束を置いた。

「特徴」「服装」「最後に確認できた場所」と書かれた用紙。

男はそれを掴んで、乱暴に膝の上で広げた。


ペンがない。

誰かが差し出す。

男は礼を言わない。


ペン先が紙の上を走る。

書く音が、やけに大きく聞こえる。

体育館の中の人間が、同じことをやっている。

探したい人間は、外に出る代わりに、紙に潜る。


係の人が、ホワイトボードの横に別の紙を貼った。

今度は、地図だった。


川崎周辺の地図。

赤い線で囲まれた区域。

黄色い斜線の区域。

緑の点線。


凡例が書かれている。


「危険区域(立入禁止)」

「警戒区域(許可制)」

「避難誘導ルート」


国の発表、というよりは現場の運用だった。

でも、紙に印刷されるだけで、世界が一段形を帯びる気がする。


透はその地図を見て、急に現実味が増すのを感じた。


ここがダメ。

ここはまだマシ。

ここを通れ。


ゲームのマップみたいだ、と一瞬思って、吐き気がした。

ゲームは、死んでもやり直せる。

現実は、やり直せない。


母が、その地図の一点を指でなぞった。


「……ここ」


指先が止まる。


「お父さんの現場、こっち方面だった」

母の声は小さい。

でも、曖昧じゃない。


透は母の指先を追った。


武蔵小杉――までは書かれていない。

でも、川の向こう、線路の集まる辺り。

交通が集中する場所。

透でも分かる。


母は続けた。


「通信の……復旧の手伝い。呼ばれたって」

「復旧……」

澪が呟く。

その単語が、今の世界では別の意味を持つ。


母が頷く。


「停電とか、基地局とか……詳しいことは分かんない。」

母の目が、地図から離れない。


透は、息を吸った。


父がどこにいたか。

どの方向にいる可能性があるか。


それを考えた瞬間、胸の中の“未確認”が、少しだけ形を持った。


怖い形。

でも、形がないよりマシだ。


慧が、地図を見たまま言った。


「……この辺、赤だな」


赤。

危険区域。

立入禁止。


透の喉が鳴った。

出た音が、自分でも分かるくらい乾いていた。


澪が透の袖を掴む。

昨日みたいな強さじゃない。

でも、掴んでいる。

落ちないように、掴んでいる。


母が、透に言った。


「……今日は、写真を出す。照会に回す」

「うん」

透は頷いた。


“今日は”という言葉が、変だった。

普通なら、当たり前の予定の言葉だ。

今は、祈りみたいな言葉になる。


係の人が、ボードの前で言った。


「照会の更新は、昼と夕方です。番号を持っている方は、更新時に確認してください」

誰も返事をしない。

返事をする余裕がない。

でも、全員が聞いている。


更新。

昼。

夕方。


時間が、また動き始める。


透は思った。


待つ、というのは、ただ座ることじゃない。

番号を握って、地図を見て、写真を探す。


体育館の外が戦場で、

中が手続きで、

その間に、家族が挟まっている。


透は指先に力を入れて、ポケットの中のスマホを確かめた。

冷たい板の感触。

まだ、使える。

使えるうちに、やるべきことがある。


父の欄は、まだ埋まらない。


でも――

父がいた場所は、初めて、地図の上に置かれた。


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