父の足取り、可能性
体育館の隅、ホワイトボードが動いたのは、夕方だった。
貼られる。
書かれる。
消される。
情報が、更新されていく。
誰かがマジックで太い線を引いて、区切りを作った。
「保護」
「搬送」
「死亡確認」
ボードの前には列ができていた。
泣いている人も、泣いていない人も同じ顔をしていた。
目が乾いて、唇だけが動く。
透は母の横に立ち、澪は一歩後ろで毛布を胸に押し当てている。
慧は列の外側にいて、入口の方角と、ボードの方角を交互に見ていた。
係の人が言った。
「照会が戻ってきた方から、順にお呼びします。呼ばれた方は、こちらへ」
声は大きくない。
大きくできない。
それでも、全員の耳がそこへ集まる。
透の背中の汗が冷えた。
名前が呼ばれるたびに、誰かの世界が動く。
「——柴田さん。照会、返ってきました」
一人が前へ出た。
紙を受け取る。
肩が落ちる。
泣き崩れる。
誰かが腕を支えて、毛布が揺れた。
「——佐々木さん。搬送経路、分かりました」
今度は、声が少しだけ違った。
「分かった」の種類が違う。
透の喉が鳴った。
「——観月さん」
母の名前だった。
母の肩が一瞬だけ固くなる。
透は反射で、母の袖を掴みそうになって、やめた。
母が前へ出る。
係の人が、紙を二枚見比べるようにして言った。
「ご主人の件です。勤務先の位置、武蔵小杉方面で間違いありませんか」
透の頭の中に、地図が浮かぶ。
駅。高いビル。人の流れ。
普通なら、ただの通勤路だ。
母が頷いた。
「……はい」
係の人が続けた。
「この三日間で、武蔵小杉周辺は優先復旧区域として何度か部隊が入っています。通信設備の復旧に動いていた方が、複数、救護所に運ばれている記録があります」
透の胸が、きゅっと縮む。
通信設備。
父がそこにいる理由が、急に現実になる。
逃げなかった。
逃げられなかった。
戻らないはずだ。
係の人の指が紙の上をなぞった。
「救護所での記録がひとつ。負傷者名簿に、ご主人と同姓同名が載っています。——ただ、ここから先は『搬送先が確定していません』」
透の目の前が真っ白になる。
「確定していない……?」
透が思わず口にした。
係の人は、透の方を見て、短く頷いた。
「一度、応急処置の場所に入って、その後、複数の病院に分散搬送されています。搬送の途中で別の救護所に回ることもあります。無線の記録は残るんですけど……まだ全てが綺麗につながってなくて……」
綺麗につながらない。
それはつまり、父は「どこかにいる」。
その「どこか」がまだ一つに定まらない。
母が、紙を受け取る手を少しだけ強く握った。
紙が皺になる。
透はその皺が怖かった。
澪が小さく言った。
「……生きてるよね」
母は頷かなかった。
否定もしなかった。
ただ、係の人を見て言った。
「次は、どうすれば」
係の人は、もう慣れた手つきで説明する。
「搬送先候補の病院が三つ出ています。どれも、武蔵小杉から動ける範囲。ただ、避難者の勝手な移動はできません。収束するまでは、外出は不可です」
透は唇を噛んだ。
また、待つ。
待たされる。
係の人は続けた。
「今日の夜に、病院側から照会の戻りが来る予定です。そこで搬送先が一本に絞れると思います」
透が何か言いかけたとき、隣の列から別の声がした。
「——黒瀬さん。ご両親、安否確認取れました」
透の横で、慧の肩がほんの少し動いた。
慧は列に並んでいなかったはずなのに、名前を呼ばれて、まるで最初からそこにいたみたいに前へ出た。
係の人が紙を差し出す。
「総合病院です。お二人とも、勤務中。医療側として登録されています」
慧は紙を受け取って、目だけで読む。
顔は変わらない。
でも、喉が小さく動いた。
「……会えるのか」
係の人が、首を横に振る。
「今は難しいです。病院側が回っていません。連絡も、医療用の回線を優先しています。——ただ、生存確認は取れています。働いている、ということは……」
働いている。
生きている。
でも、会えない。
透はそれを聞いた瞬間、変な息が出た。
羨ましい、じゃない。
安心した、でもない。
“見つかっても、会えないかもしれない”が胸に落ちた。
慧は紙を丁寧に一度折って、ポケットに入れた。
透が小さく言った。
「……よかったな」
慧は頷かない。
代わりに、短く言った。
「……行けないけどな」
それだけ。
澪が慧を見て、何か言いかけて、やめた。
慰めは、嘘になる。
母が透の肩に手を置いた。
重くない。
「……透。今は、動けない」
透は頷いた。
分かっている。
分かっているのに、体が前へ行きたがる。
体育館の外で、遠くの無線が鳴って、誰かが「了解」と短く返す声がした。
外はまだ、危ない。
危ないから、ここにいる。
その理屈が、透の中で何度も同じところをぐるぐると回る。
作業服の男が、少し離れた場所で、ボードを見上げていた。
手には紙がない。
視線だけが、何度もボードに戻る。
透と目が合いそうになって、透は逸らした。
同じだ。
あの男も、透も。
母が、受け取った紙を透に見せた。
そこには、箇条書きのような情報が並んでいる。
——武蔵小杉周辺/通信設備復旧関連
——救護所で応急処置
——搬送先候補:三件(病院名)
——照会継続中
紙の上の文字が、冷たい。
冷たくても、透はその文字にすがりたくなる。
「……当たりだ」
透が言うと、母が小さく息を吐いた。
「当たり、って言うな」
叱っている声じゃない。
ただ、言葉を選ぶ余裕が、戻ってきているようだった。
透は頷いた。
当たりじゃない。
でも、ゼロじゃなくなった。
ゼロじゃないことが、怖いくらい嬉しい。
澪が母の紙を見て、指先を握りしめた。
「……明日、分かる?」
母は答えない。
係の人が言った“夜に来る照会”が頭にあるのだろう。
慧が、入口の方を見たまま言った。
「……夜は長い」
透は、その言葉の意味が分かった。
待つ時間が増えるほど、想像が膨らむ。
想像が膨らむほど、心が削れていく。
でも、削れても待つ。
今は、ただ。
透は、自分の手のひらを見た。
爪の跡が、まだ薄く残っている。
透は思った。
父の足取りに、線が引かれた。
点と点が、ようやく近づいた。
まだ会えていない。
まだ助けていない。
でも、「どこへ向けばいいか」だけは、初めて見えた。
それが見えた瞬間から、待つのは休むためじゃなくなる。
透の中の“待つ”は、少しだけ違う意味に変わっていた。




