会える希望、変化
現実とは思えない災害が始まってから、十日目。
体育館の匂いは、もう「最初の匂い」じゃなかった。
汗と毛布と、濡れた靴下。そこに、漂白剤みたいな薄い匂いが混ざっている。
床が一日に何度も拭かれるようになった。
夜はまだ長い。
でも、前よりは“型”があった。
水の配布の時間。
簡単な点呼。
ホワイトボードの更新。
誰かが泣き出したら、係がすぐに毛布を持ってくる。
人間が、崩れながらも、回り始めている。
透はその“回り始めた感じ”が怖かった。
慣れたからじゃない。
慣れたふりをしないと、耐えられない感じがする。
母は、父の病院名が書かれた紙を、何度も開いては閉じていた。
折り目が濃くなっていく。
紙の方が、先に疲れていくみたいだった。
澪は相変わらず、入口を見ないようにして、見ていた。
見ないようにする、というのは分かる。
見てしまうと、期待が生まれる。
慧は入口の見える位置に座っている。
慧の両親の紙も、ポケットに入っている。
⸻
その日の昼過ぎ、体育館の空気が一段だけ変わった。
入口側の自衛官が、二人増えた。
係の人が机の前に立ち、紙を一枚掲げた。
ホワイトボードじゃない。
紙だ。
「病院への移送と面会について、案内します」
声は大きくない。
大きくしなくてもいい。
それでも、体育館中の耳がそこへ寄る。
「現在、外周の危険度が下がった区域から順に、護衛付きで移動便を出します」
ざわめきが起きる。
嬉しさというよりは、息を吐く音に近い。
「ただし、誰でも行けるわけではありません。人数制限があります。順番があります。移動できる区域も限定されます」
順番。
また順番だ。
でも今回は、その先に“目的地”がある。
透の喉が鳴った。
「対象の方は、呼びます。呼ばれた方だけ、荷物は最小限。同行者は原則一名。小さい子供は例外があります」
母の指先が、紙を握り直した。
透は母の横顔を見た。
表情は変わらない。
変えない努力が張り付いている。
係の人が続ける。
「面会は短時間です。病院側も手が足りていないので、確認と引き継ぎが中心になります」
引き継ぎ。
その言葉が現実を突き付けてくる。
“助かった”の次は、生活の心配だった。
作業服の男が、壁際で立ち上がった。
昨日までの衝動的な立ち方じゃない。
呼ばれるかもしれない、と期待を抱えてしまった、そんな立ち方。
その男の拳が、握られてほどける。
また握られる。
でも、係に詰め寄らない。
詰め寄ったところで、なにも変わらないと分かっている。
⸻
呼ばれたのは、夕方だった。
「——観月さん」
母の名前。
透の心臓が、一拍遅れて鳴った。
母の肩が一瞬だけ固くなり、次に、息を吐いて前へ出る。
係の人が紙を確認する。
「ご主人の搬送先、照合できました。面会便、明日の午前です」
明日。
明日が、いきなり具体的になる。
透の指先が冷たくなる。
嬉しいはずなのに、怖い。
「同行者は——」
係の人が視線を落とし、透を見る。
透の年齢を確認する目。
「息子さんでお願いします。ご本人確認が必要になるので」
母が小さく頷いた。
透も頷いた。
澪が、その瞬間だけ目を伏せた。
連れていってもらえないことが分かってる。
責めていない。
ただ、置いていかれる側の顔。
慧が、透の方を見た。
何も言わない。
でも、目が言っている。
——行くなら、戻ってこい。
透は小さく頷く。
母が係の人に聞く。
「……外は」
係の人は、すぐ答えない。
答えられるほど単純じゃないからだ。
「安全、とは言えません。でも、今は“通れる道”ができました」
通れる道。
それだけで、世界が一ミリ動いた。
⸻
その夜、澪は透の荷物を触っていた。
触って、閉めて、また触る。
「……服、これでいいの?」
澪の声は小さい。
透に聞いているようで、自分に聞いている。
透は答える。
「……汚れてないやつ」
汚れてないやつ。
それが“面会”の条件みたいに思えて、透は少しだけ笑いそうになった。
母は何も言わない。
消火器も、もう横にない。
荷物も最小限だ。
それでも母の手元は忙しい。
紙。身分証。父の情報の控え。
“現実”を揃えている。
透は、布団代わりの毛布に潜り込みながら思った。
明日、父に会う。
会える。
でも、それは“終わり”じゃない。
会って、怪我を見て、声を聞いて。
その瞬間、家族の穴が少し埋まる。
世界が回り始めた分だけ、回らないものが目立つ。
体育館の蛍光灯が、微かに唸っている。
それがいつもより“普通”に聞こえて、透は怖くなった。
普通に聞こえるほど、明日が近づく。
透は目を閉じた。
眠ったのか、落ちただけなのか分からないままでもいい。
明日、起きなければならない。
起きて、行かなければならない。
父がいる場所へ。
そして、戻ってこなければならない。
体育館へ。
澪と慧のいる場所へ。
まだ回りきっていない世界へ。
透は、その順番を頭の中で何度もなぞった。
なぞっていないと、明日に飲まれそうだった。




