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箱庭の進化 〜世界にダンジョンが現れた日〜  作者: 観測者
1章

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24/80

会える希望、変化

現実とは思えない災害が始まってから、十日目。


体育館の匂いは、もう「最初の匂い」じゃなかった。

汗と毛布と、濡れた靴下。そこに、漂白剤みたいな薄い匂いが混ざっている。

床が一日に何度も拭かれるようになった。


夜はまだ長い。

でも、前よりは“型”があった。


水の配布の時間。

簡単な点呼。

ホワイトボードの更新。

誰かが泣き出したら、係がすぐに毛布を持ってくる。


人間が、崩れながらも、回り始めている。


透はその“回り始めた感じ”が怖かった。

慣れたからじゃない。

慣れたふりをしないと、耐えられない感じがする。


母は、父の病院名が書かれた紙を、何度も開いては閉じていた。

折り目が濃くなっていく。

紙の方が、先に疲れていくみたいだった。


澪は相変わらず、入口を見ないようにして、見ていた。

見ないようにする、というのは分かる。

見てしまうと、期待が生まれる。


慧は入口の見える位置に座っている。

慧の両親の紙も、ポケットに入っている。



その日の昼過ぎ、体育館の空気が一段だけ変わった。


入口側の自衛官が、二人増えた。


係の人が机の前に立ち、紙を一枚掲げた。

ホワイトボードじゃない。

紙だ。


「病院への移送と面会について、案内します」


声は大きくない。

大きくしなくてもいい。

それでも、体育館中の耳がそこへ寄る。


「現在、外周の危険度が下がった区域から順に、護衛付きで移動便を出します」


ざわめきが起きる。

嬉しさというよりは、息を吐く音に近い。


「ただし、誰でも行けるわけではありません。人数制限があります。順番があります。移動できる区域も限定されます」


順番。

また順番だ。

でも今回は、その先に“目的地”がある。


透の喉が鳴った。


「対象の方は、呼びます。呼ばれた方だけ、荷物は最小限。同行者は原則一名。小さい子供は例外があります」


母の指先が、紙を握り直した。

透は母の横顔を見た。

表情は変わらない。

変えない努力が張り付いている。


係の人が続ける。


「面会は短時間です。病院側も手が足りていないので、確認と引き継ぎが中心になります」


引き継ぎ。

その言葉が現実を突き付けてくる。

“助かった”の次は、生活の心配だった。


作業服の男が、壁際で立ち上がった。

昨日までの衝動的な立ち方じゃない。

呼ばれるかもしれない、と期待を抱えてしまった、そんな立ち方。


その男の拳が、握られてほどける。

また握られる。

でも、係に詰め寄らない。

詰め寄ったところで、なにも変わらないと分かっている。



呼ばれたのは、夕方だった。


「——観月さん」


母の名前。


透の心臓が、一拍遅れて鳴った。

母の肩が一瞬だけ固くなり、次に、息を吐いて前へ出る。


係の人が紙を確認する。


「ご主人の搬送先、照合できました。面会便、明日の午前です」


明日。

明日が、いきなり具体的になる。


透の指先が冷たくなる。

嬉しいはずなのに、怖い。


「同行者は——」


係の人が視線を落とし、透を見る。

透の年齢を確認する目。


「息子さんでお願いします。ご本人確認が必要になるので」


母が小さく頷いた。

透も頷いた。


澪が、その瞬間だけ目を伏せた。

連れていってもらえないことが分かってる。

責めていない。

ただ、置いていかれる側の顔。


慧が、透の方を見た。

何も言わない。

でも、目が言っている。


——行くなら、戻ってこい。


透は小さく頷く。


母が係の人に聞く。


「……外は」


係の人は、すぐ答えない。

答えられるほど単純じゃないからだ。


「安全、とは言えません。でも、今は“通れる道”ができました」


通れる道。


それだけで、世界が一ミリ動いた。



その夜、澪は透の荷物を触っていた。

触って、閉めて、また触る。


「……服、これでいいの?」


澪の声は小さい。

透に聞いているようで、自分に聞いている。


透は答える。


「……汚れてないやつ」


汚れてないやつ。

それが“面会”の条件みたいに思えて、透は少しだけ笑いそうになった。


母は何も言わない。

消火器も、もう横にない。

荷物も最小限だ。

それでも母の手元は忙しい。

紙。身分証。父の情報の控え。

“現実”を揃えている。


透は、布団代わりの毛布に潜り込みながら思った。


明日、父に会う。

会える。

でも、それは“終わり”じゃない。


会って、怪我を見て、声を聞いて。

その瞬間、家族の穴が少し埋まる。


世界が回り始めた分だけ、回らないものが目立つ。


体育館の蛍光灯が、微かに唸っている。

それがいつもより“普通”に聞こえて、透は怖くなった。


普通に聞こえるほど、明日が近づく。


透は目を閉じた。


眠ったのか、落ちただけなのか分からないままでもいい。

明日、起きなければならない。

起きて、行かなければならない。


父がいる場所へ。


そして、戻ってこなければならない。


体育館へ。

澪と慧のいる場所へ。

まだ回りきっていない世界へ。


透は、その順番を頭の中で何度もなぞった。

なぞっていないと、明日に飲まれそうだった。

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