通れる道、面会
十一日目の朝が来た。
朝は、体育館にも来る。
窓の高いところから薄い光が落ちて、床の木目だけが少しだけ明るくなる。
それでも、朝の音はしない。
食器も、テレビも、誰かの笑い声もない。
あるのは、係の声と、靴の擦れる音と、紙がこすれる音。
体育館の床は、夜の間にもう一度拭かれていて、足裏が少しだけ滑った。漂白剤の匂いが薄く残っている。
「——観月さん。移動便です。今から」
係の声は大きくない。大きくできない。
それでも、透の耳にははっきり入った。
母が立つ。透も立つ。
澪は、立たなかった。
毛布の端を握っている。目だけが透を追う。
「すぐ戻る」
透が言うと、澪は頷いた。
小さく頷いた。
慧が一歩だけ寄って、母の方を見てから透の方を見た。
言葉はない。目だけで「帰ってこい」と言っている。
透は頷いた。言葉にすると、喉が詰まりそうだった。
⸻
外に出ると、光が強かった。
十一日も経っているのに、空は青い。鳥の声も遠くで鳴く。
それが腹の奥に冷たく残る。
体育館の外には、迷彩服の列と、車が待っていた。乗用車じゃない。小さな窓、鈍い色。人を運ぶための箱。
「荷物はそれだけだな」
自衛官が言う。胸の無線が小さく震えている。
母は、紙の束を抱えている。父の名前。身分の確認。照会の控え。
紙だけが増えている。
透はそれを見ないようにして、母の隣に乗り込んだ。
扉が閉まる音が、体育館より重く響いた。
⸻
車はゆっくり走った。
道路の端に、テープが張られている。曲がり角ごとに「立入禁止」が置かれている。
空き缶と、折れた傘と、割れたガラスが、片付けられずに端へ寄せられている。
その寄せられたものの中に、子どもの靴が片方だけ混じっていた。
透は目を逸らした。
逸らしても、靴の形だけが頭に残った。
母は窓の外を見ていない。膝の上の紙を、指で一度だけ押さえている。
押さえても、紙はここにある。ここにあることだけが、今は確かだ。
車の中で、無線が短く鳴る。言葉は聞き取れない。
返事だけが落ちてくる。
「了解」
「了解」
その繰り返しが、道路の外側に何かがいることを教える。
見えないまま。
⸻
病院は、病院の形をしていた。
玄関に「総合病院」と書かれた看板がある。自動ドアが動いている。白い壁。消毒の匂い。
それなのに、入口の前には迷彩服がいて、大量の張り紙。
「面会者は、こちら。時間は短い」
案内の声は病院の声だった。疲れていて、慣れていて、優しい声。
廊下を歩く。
白い床に、靴の跡が点々と残っている。
曲がり角で、ストレッチャーがすれ違った。
布の下の形が、人の形をしていた。
透は数を数えないようにした。
数えたら、自分の父がどこかに混ざってしまう。そんな気がした。
⸻
「……こちらです」
母の歩幅が少しだけ乱れた。
乱れて、すぐに戻る。
カーテンが引かれる。
父は、そこにいた。
透は最初、父の顔だけを見た。
次に、胸。次に、腕。次に、足の方へ視線が落ちる。
布団の下で、左脚の形が少しだけ違って見える。
膝のあたりが固定されている。動かないように、動けないように。
父は目を開けていた。開いているのに、焦点が少し遅い。
それでも、母を見た瞬間に、目の奥がはっきりした。
「……来たのか」
声が掠れている。
掠れているのに、父の声だった。
母が一歩前へ出た。
泣かない。泣かないまま、父の頬に手を伸ばす。触れて、すぐ引っ込めない。
「……生きててよかった」
母の声は震えている。
父は、ほんの少しだけ口の端を動かした。
「……澪は」
「体育館にいる。……無事だよ」
透が言うと、父は短く息を吐いた。
長く吐けない息を、できるだけゆっくり吐くみたいに。
「……透」
父が透を見る。
透は視線を外さなかった。外したら、自分が小さくなる気がする。
「……お前、背、伸びたか?」
違う。伸びてるわけがない。
縮んだものが周りに増えただけだ。
透は答えなかった。
代わりに、父の左脚の方を見る。
父は、その視線に気づいて、目を細めた。
「……これは、動かなくなった」
淡々としている。
何度も自分に言い聞かせたんだろう。
母の指先が、父のシーツを掴んだ。掴んで、ほどく。
医療スタッフが横から言う。
「痛みはどうですか。しびれは」
「……大丈夫」
「分かりました。今日は無理しないで。面会、短く」
短く。
また短い。
どこでも「短く」がついてくる。
父が小さく頷いて、透に目を戻す。
「……外は」
透は一瞬、何を答えるべきか迷った。
危ない、と言うのは簡単だ。危ないのは知っている。
でも父が聞きたいのは、その先だ。
透は言う。
「……通れる道があるって。護衛はつくけど」
「……そうか」
父が天井を見る。
天井は白くて、明るい。
それが、透には怖かった。
父が続けた。
「……仕事、行ったんだ。馬鹿だよな」
「……行かなきゃ、って思ったんだろ」
透が言うと、父は目を閉じかけて、また開いた。
「……思った」
「……戻れなくなった」
それだけ。
言い訳じゃない。武勇伝でもない。
ただ、そうなった、という報告。
母が言う。
「……責めないよ」
責めない、という言葉がここで出るのは、母が強いからじゃない。
責めても戻らない。
父は母を見る。
母の目は揺れていない。
父は、透に視線を戻す。
「……澪に、言っとけ」
「……何を」
父は少し考えて、言う。
「……ちゃんと、見てるって」
透の喉が鳴った。
透は頷いた。
「伝えるよ」
父の手が、シーツの上で少し動いた。
透は反射で、その手を取ろうとして、止めた。
父の指が、透の手の甲に触れる。
触れて、離れる。短い。
「……お前ら、戻れよ。ちゃんと」
言葉が胸を打つ。
父は生きている。
でも、前と同じじゃない。
それを言葉にしない。父自身が理解していた。
医療スタッフが言う。
「時間です」
母が一歩下がる。
父は最後に、透を見る。
「……来てくれて、助かった」
何が助かったのか、透は聞かなかった。
透は頷いて、言う。
「……また来る」
父は頷いた。
透はそれだけで、胸が痛くなった。
⸻
病院を出ると、空気が冷たかった。
戻りの車の中、母は紙を見ない。
見ないまま、膝の上に置いている。
透は窓の外を見る。
通れない道はまだ多い。
けれど、通れる道があるという事実だけが、今日の分の希望だった。
体育館が見えてくる。
入口の前で人が並んでいる。
毛布。水。ホワイトボード。抑えられた声。
いつもの景色なのに、いつもと少しだけ違う。
——父は、ここにいない。
当たり前のことが、今日から別の重さになる。
車が止まる。
扉が開く。
体育館の匂いが戻ってくる。
澪がこっちを見ている。
透は澪の前で止まって、短く言った。
「……無事だった」
それだけ。
澪の目が揺れる。
泣かない。泣けない。
「それと……」
透は続ける。
「……ちゃんと、見てるって」
澪の唇が震えて、震えたまま止まった。
頷く。小さく。何度も。
母は澪の頭に手を置いた。
置いて、離さない。
慧が少し離れた場所で見ている。
何も言わない。
でも、透が戻ったことを確認して、視線を入口の方へ戻す。
体育館の天井の蛍光灯が唸っている。
その音が、昨日よりも現実に聞こえた。
透は、自分のポケットの中の感触を確かめた。
父に渡されたものはない。
鍵も、札も、言葉も、増えていない。
増えたのは、場所だけだ。
父がいる場所。
父が戻れないかもしれない場所。
そして、透が「行ける道」があるという事実。
透は息を吸って、吐いた。
体育館の空気は重いままだ。
それでも、透は立った。
座って待つためじゃない。
迷わず動くために。
透は、ホワイトボードの方へ歩き出した。




