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箱庭の進化 〜世界にダンジョンが現れた日〜  作者: 観測者
1章

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26/80

久しぶりの家、日常

世界が大きく変わってしまった日から、二十日目。


「帰宅許可が出た区域の方は——荷物をまとめてください。移動は指示に従ってください」


体育館の放送は、もう叫んでいなかった。


列ができる。紙が配られる。名簿に線が引かれる。

番号で呼ばれて、番号で動く。

それでも「帰れる」という安堵だけが、床の板の上に落ちていた。


透は、手にした紙を何度も見た。

住所。区画。時間。注意事項。

全部読んでも、身体の方が信じない。


母が落ち着いた声で言った。


「……いい? 家に着いたら、まず窓。次に掃除。次に、寝る場所」


澪は小さく頷いた。


慧は袋を肩に掛け直し、列の端から抜けた。

「……じゃ」

返事は軽いのに、足音が硬い。


透は見送って、手の中の紙を折った。開いて、また折った。

指先の行き場がなくて、角を潰す。


慧の背中が曲がり角で消える。

列はまだ動かない。


帰宅の列は、体育館の外で一度、詰め直された。


「列を崩すな。間を空けるな。喋るな」


自衛官は低い声で説明する。


外は思ったより明るかった。

空が、ちゃんと空の色をしている。

鳥が飛ぶ。風が吹く。道路は乾いている。


なのに、透の目は落ち着かなかった。

歩道の端。電柱の陰。車の下。

「いない」を確認してしまう。


道は、ところどころ封鎖されていた。

赤いコーンとテープ。

「危険区域」の札が貼られたままの路地。

その向こうは見ない方がいい。


自宅のある通りに入ったとき、澪が小さく息を吸った。


「……ある」


家が、そこにある。


鍵穴に指が滑った。


玄関の鍵は回った。

ドアは、昨日までの体育館の扉みたいに重くない。

当たり前の重さで、当たり前に開いた。


それなのに、空気だけが違った。


埃っぽい。

消火器の粉の匂いが、まだ薄く残っている。

靴が玄関の床を踏んだ瞬間に、白い膜が少しだけ舞った。


透は息を止めてから、ゆっくり吐いた。


「……帰ってきたんだな」


母は先に靴を脱いで、玄関に立ったまま家の中を見回した。

声は出さない。

ただ、目だけが忙しく動く。

壊れている場所と、残っている場所を一つずつ確かめている。


澪は一歩遅れて入ってきて、床の白い粉を見て顔をしかめた。

そこに、思い出があった。


「……これ、掃除しなきゃね」


透は頷いた。

「掃除」と口にしただけで、靴下の裏が粉を拾う気がした。



水は出た。

細く。


蛇口をひねって、すぐには音がしない。

少し遅れて、弱い水が流れ出す。

勢いがなくて、手を洗うだけでも時間がかかる。


電気も点いた。

でも、全部の部屋の灯りをつける気にはならなかった。


帰宅時に配られた紙を見る。


――節電にご協力ください。

――給水圧が不安定です。節水をお願いします。

――通信は混雑します。緊急以外の通話は短く。


避難所で見たホワイトボードより、ずっと小さい紙なのに、手が離れない。


母は紙を一度見ただけで、視線を外した。


澪はリビングの隅に荷物を置いて、窓の方へ目をやった。

割れてはいない。

でも、カーテンの揺れ方が前と違う気がする。


透はトイレの方へ行って、立ち止まった。


段ボールの補修は、そのままだ。

ガムテープは浮いていない。

きっちり貼られている。

綺麗すぎて、触れない。


透は段ボールに触れないまま、視線だけを戻した。


「……窓、直さなきゃね」


母が短く言った。


「業者、すぐは来れない。落ち着いてからでいい」


落ち着いてから。


透は頷いた。




透のスマホには慧との短いやり取りが残っている。


『家、入れた』

『電気ついた。水は弱い』

『両親、会えた。すぐ戻った』

『落ち着いたら行く』


落ち着いたら。


透は返信を書いて、消した。

“今はどう?”と送っても、慧が返せないのが分かる。


澪が言った。


「……慧、大丈夫かな」


母は「大丈夫」とは言わなかった。


「生きてる。会えた。今はそれでいいと思う」


その言葉が、透の中で少しだけ引っかかった。

“会えた”の範囲は、まだまだ狭い。


父は、まだいない。



帰宅してから四日。


家の中の粉は、だいぶ拭き取れた。

それでも、廊下の隅や家具の脚の周りに、白い筋が残る。

消えきらない。


澪は雑巾を洗って、絞って、また床に広げる。

水は弱いから、洗うのに時間がかかる。

力を入れるたびに、澪の眉間が少しだけ寄る。


透は窓の段ボールの前で、工具箱を開けては閉じていた。

直せるわけじゃない。

直せないのに、手だけがなにかを探してしまう。


母は電話を待っていた。


待つと言っても、何もせずに座っているわけじゃない。

食器を洗って、紙を整理して、必要な物をメモして。

母はメモを一枚ずつ揃え直した。揃えて、また揃え直した。

ペンを置いて、すぐ取り上げる。


昼過ぎ、スマホが鳴った。


圏外じゃない。

呼び出し音がちゃんと、リビングに響いた。


母は一度、画面を見てから、息を吸った。

吸って、普通の声で出た。


「……はい」


透はその瞬間、音を立てないように立ち上がった。

澪も雑巾を握ったまま止まった。


母は短い相槌を繰り返す。

「はい」

「分かりました」

「……はい」


最後に、母の声が少しだけ低くなる。


「今から、迎えに行きます」


電話が切れた。


母は画面を伏せるように机に置いて、透を見た。


「退院になる」


透は一瞬、意味が追いつかなかった。


退院。

病院を出る。

家に来る。


「……帰ってくる?」


母は頷いた。


澪が息を呑んだ。


母は続けた。


「病室が足りないってさ。だから、帰っていいって。——動ける範囲なら」


動ける範囲。

その言葉が、透の胸に刺さった。


「……行ってくる。透、澪。家にいて。鍵は閉めて」


母はそう言って、必要な書類だけをバッグに入れた。

身分証。紙。ペン。

病院へ行くのに、武器はいらない。

それが、少しだけ不思議だった。


玄関で靴を履くとき、母は一度だけ家の中を見た。

見て、言った。


「よし。」


褒めているわけじゃない。

確認する声。

家が“受け入れられる”状態になっているかの。


母が出ていって、玄関が閉まる音がした。


カタン。


透はその音を聞いて、変な気持ちになった。

あの日と同じ音なのに、今は違う意味を持っている。


なんだか前向きな音だ。



日が傾いて、家の中に影が伸びた頃。


玄関の外で、車の気配が止まった。


透は立ち上がった。

澪も立った。

二人とも、どこに手を置けばいいか分からないまま、リビングの真ん中に立つ。


鍵の回る音。


ドアが開く。


母が先に入ってきて、その後ろに、父がいた。


痩せてる。

顔の色が少し悪い。

それでも、目は開いている。

開いて、家を見ている。


父の脇には松葉杖が一本。

足は引きずってはいない。

ただ、踏む瞬間だけ、体がほんの少し揺れる。


透は喉が鳴った。


声を出す前に、父が言った。


「……ただいま」


透はそれを聞いて、返事が遅れた。

返事というより、空気が詰まった。


澪が先に出た。


「おかえり……!」


声が揺れて、すぐに押さえた。

泣いていない。

言葉だけが先に出た。


父は澪を見て、少しだけ笑った。


「澪、いるな」

声が少しだけ擦れた。


次に父の視線が透に来る。


透は何とか言った。


「……おかえり」


父は頷いて、玄関の段差をゆっくり上がった。

段差は上がれる。

でも、その一動作だけで、父の肩に力が入るのが分かった。


透は反射で近づきかけて、止まった。


母が言った。


「無理しないで。座って」


父はリビングの椅子に腰を下ろした。

座るのにも、時間がかかる。

椅子に触れてから、体重を預けるまでの一秒が長い。


父は息を吐いて、天井を一度見上げた。


「……家、あるな」


母が頷いた。


「ある。住めるよ」


住める。


その言葉が、透の胸の奥に広がった。

広がって、すぐに形が変わる。


住める。

でも、前と同じじゃない。


父は足元を見て言った。


「……寝室、二階だよね」


母が短く答える。


「そう。でも、しばらく一階でいい。布団、降ろしたから」


父は何も言わない。

言わないまま、松葉杖のグリップを握り直した。


透はその手を見た。

手は動いている。

でも、握り方に力がない。


父はぽつりと言った。


「……階段、上がれなくなるとは思わなかったな」


澪が唇を噛んだ。

透も、息が浅くなるのを感じた。


父は、少し間を置いて、母を見た。


「……ありがとう。迎え」


母は「うん」とだけ言った。


父は次に透を見て、言った。


「透。……ありがとう。家、守ったな」


透は頷いた。

頷いて、それだけでは足りない気がして、言った。


「……うん、守ったつもり」


父は小さく笑った。


「つもりでも、残ってるだろ」


残ってる。

家が。

人が。


透はその言葉で、胸の奥が少しだけ温かくなった。

温かいのに、同時に冷える。


失ったものが、周りに見えるからだ。


父は視線を床に落として、言った。


「……大変だったんだな」


透は頷いた。


「トイレの窓、壊れて……段ボールで塞いだ」


父は「そうか」と言って、顔をしかめた。

想像が追いついたんだろう。


母が言う。


「窓は、すぐは直らないって。業者も回ってないみたい」


父は頷いた。


「……いいよ。今は、塞がってるなら」


透は、段ボールの方を見た。

塞がっている。

それだけで、十分。


父はそこから視線を戻して、しばらく黙った。

黙って、口を開いた。


「……会社、な。俺、復帰は、すぐは無理だ」


透の胸が、少しだけ沈んだ。

沈んでも、驚きはなかった。

父の足を見れば分かる。


でも、父は続けて言った。


「焦らない。——焦っても、変わらない」


その言い方は、いつもの父だった。

自分に言い聞かせるみたいだ。


母がうなずく。


「うん。今は、生きてる」


生きてる。


避難所で何度も聞いた言葉なのに、家の中で言われると、重さが違う。


澪が小さく言った。


「……ご飯、食べる?」


父は一瞬だけ、困った顔をした。

食べたいのか、食べたくないのか、どっちともとれる顔。


母が言う。


「無理しないで。スープだけでも」


透はキッチンへ向かった。

蛇口をひねる。

細い水。

それでも、水が出る。


出るだけで、世界は少し戻っている。


鍋に水を入れながら、透は思った。


家に帰ってきた。

父も帰ってきた。


張り紙が残っている。

水圧が弱い。

夜は真っ暗なまま。

——それでも、鍋に水が溜まっていく。


父の足が、そこにある。

二階は遠い。

トイレの窓の段ボールがある。

廊下の粉が、まだ少し残っている。


透は鍋を火にかけて、音を立てないように弱火にした。

炎が小さく揺れる。


その揺れを見て、透はようやく、息を吐けた。


透はスープの匂いが立ち上がるのを待ちながら、廊下の先――段ボールの貼られたトイレの小窓をもう一度見た。


そこにある“穴”は、まだ塞がっている。

塞がっているだけだ。元通りではない。


父が戻ってきても、同じ。


塞いだままの場所が、いくつも残っている。


透は鍋の縁に手を置いて、熱を確かめた。


この家で、また暮らす。

前と同じじゃなくても。


背中が少しだけ伸びた気がする。


鍋の火を止めたところで、玄関の方から紙が擦れる音がした。

ポストじゃない。ドアの隙間に差し込まれた紙だ。


透は手を拭いて見に行く。

白い紙。角が少し曲がっている。

印刷された文字が、妙に整っていた。


「危険区域立入者 登録説明会(任意)」


日付は、明日。


透はそれを黙って折った。

折り目がつく音が、家の中でやけに大きい。


背後で父が言う。

「……それ、何だ」


透は振り向かないまま答えた。

「回覧みたいなやつ」

嘘じゃない。


透は紙を台所の隅に置いた。

スープの匂いの横に、明日の紙。


外はまだ、すこし遠い。

第一章はこれで終わりです。閑話を2話挟んでから第二章が始まります。ここまで1日3話投稿でしたが、ストックが減ってきたのでしばらく1日2話投稿になるかもしれません。感想等いただけると幸いです。今後ともよろしくお願い致します。

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― 新着の感想 ―
ここまで読んだ感想は、かなり丁寧でじっくり読めそうな印象ですね。 三人称+シリアスが大好物なのでここからも期待して読ませてもらいます。
設定は面白いけど長い割に話が進まんし読みづらいっすな
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