久しぶりの家、日常
世界が大きく変わってしまった日から、二十日目。
「帰宅許可が出た区域の方は——荷物をまとめてください。移動は指示に従ってください」
体育館の放送は、もう叫んでいなかった。
列ができる。紙が配られる。名簿に線が引かれる。
番号で呼ばれて、番号で動く。
それでも「帰れる」という安堵だけが、床の板の上に落ちていた。
透は、手にした紙を何度も見た。
住所。区画。時間。注意事項。
全部読んでも、身体の方が信じない。
母が落ち着いた声で言った。
「……いい? 家に着いたら、まず窓。次に掃除。次に、寝る場所」
澪は小さく頷いた。
慧は袋を肩に掛け直し、列の端から抜けた。
「……じゃ」
返事は軽いのに、足音が硬い。
透は見送って、手の中の紙を折った。開いて、また折った。
指先の行き場がなくて、角を潰す。
慧の背中が曲がり角で消える。
列はまだ動かない。
帰宅の列は、体育館の外で一度、詰め直された。
「列を崩すな。間を空けるな。喋るな」
自衛官は低い声で説明する。
外は思ったより明るかった。
空が、ちゃんと空の色をしている。
鳥が飛ぶ。風が吹く。道路は乾いている。
なのに、透の目は落ち着かなかった。
歩道の端。電柱の陰。車の下。
「いない」を確認してしまう。
道は、ところどころ封鎖されていた。
赤いコーンとテープ。
「危険区域」の札が貼られたままの路地。
その向こうは見ない方がいい。
自宅のある通りに入ったとき、澪が小さく息を吸った。
「……ある」
家が、そこにある。
鍵穴に指が滑った。
玄関の鍵は回った。
ドアは、昨日までの体育館の扉みたいに重くない。
当たり前の重さで、当たり前に開いた。
それなのに、空気だけが違った。
埃っぽい。
消火器の粉の匂いが、まだ薄く残っている。
靴が玄関の床を踏んだ瞬間に、白い膜が少しだけ舞った。
透は息を止めてから、ゆっくり吐いた。
「……帰ってきたんだな」
母は先に靴を脱いで、玄関に立ったまま家の中を見回した。
声は出さない。
ただ、目だけが忙しく動く。
壊れている場所と、残っている場所を一つずつ確かめている。
澪は一歩遅れて入ってきて、床の白い粉を見て顔をしかめた。
そこに、思い出があった。
「……これ、掃除しなきゃね」
透は頷いた。
「掃除」と口にしただけで、靴下の裏が粉を拾う気がした。
⸻
水は出た。
細く。
蛇口をひねって、すぐには音がしない。
少し遅れて、弱い水が流れ出す。
勢いがなくて、手を洗うだけでも時間がかかる。
電気も点いた。
でも、全部の部屋の灯りをつける気にはならなかった。
帰宅時に配られた紙を見る。
――節電にご協力ください。
――給水圧が不安定です。節水をお願いします。
――通信は混雑します。緊急以外の通話は短く。
避難所で見たホワイトボードより、ずっと小さい紙なのに、手が離れない。
母は紙を一度見ただけで、視線を外した。
澪はリビングの隅に荷物を置いて、窓の方へ目をやった。
割れてはいない。
でも、カーテンの揺れ方が前と違う気がする。
透はトイレの方へ行って、立ち止まった。
段ボールの補修は、そのままだ。
ガムテープは浮いていない。
きっちり貼られている。
綺麗すぎて、触れない。
透は段ボールに触れないまま、視線だけを戻した。
「……窓、直さなきゃね」
母が短く言った。
「業者、すぐは来れない。落ち着いてからでいい」
落ち着いてから。
透は頷いた。
⸻
透のスマホには慧との短いやり取りが残っている。
『家、入れた』
『電気ついた。水は弱い』
『両親、会えた。すぐ戻った』
『落ち着いたら行く』
落ち着いたら。
透は返信を書いて、消した。
“今はどう?”と送っても、慧が返せないのが分かる。
澪が言った。
「……慧、大丈夫かな」
母は「大丈夫」とは言わなかった。
「生きてる。会えた。今はそれでいいと思う」
その言葉が、透の中で少しだけ引っかかった。
“会えた”の範囲は、まだまだ狭い。
父は、まだいない。
⸻
帰宅してから四日。
家の中の粉は、だいぶ拭き取れた。
それでも、廊下の隅や家具の脚の周りに、白い筋が残る。
消えきらない。
澪は雑巾を洗って、絞って、また床に広げる。
水は弱いから、洗うのに時間がかかる。
力を入れるたびに、澪の眉間が少しだけ寄る。
透は窓の段ボールの前で、工具箱を開けては閉じていた。
直せるわけじゃない。
直せないのに、手だけがなにかを探してしまう。
母は電話を待っていた。
待つと言っても、何もせずに座っているわけじゃない。
食器を洗って、紙を整理して、必要な物をメモして。
母はメモを一枚ずつ揃え直した。揃えて、また揃え直した。
ペンを置いて、すぐ取り上げる。
昼過ぎ、スマホが鳴った。
圏外じゃない。
呼び出し音がちゃんと、リビングに響いた。
母は一度、画面を見てから、息を吸った。
吸って、普通の声で出た。
「……はい」
透はその瞬間、音を立てないように立ち上がった。
澪も雑巾を握ったまま止まった。
母は短い相槌を繰り返す。
「はい」
「分かりました」
「……はい」
最後に、母の声が少しだけ低くなる。
「今から、迎えに行きます」
電話が切れた。
母は画面を伏せるように机に置いて、透を見た。
「退院になる」
透は一瞬、意味が追いつかなかった。
退院。
病院を出る。
家に来る。
「……帰ってくる?」
母は頷いた。
澪が息を呑んだ。
母は続けた。
「病室が足りないってさ。だから、帰っていいって。——動ける範囲なら」
動ける範囲。
その言葉が、透の胸に刺さった。
「……行ってくる。透、澪。家にいて。鍵は閉めて」
母はそう言って、必要な書類だけをバッグに入れた。
身分証。紙。ペン。
病院へ行くのに、武器はいらない。
それが、少しだけ不思議だった。
玄関で靴を履くとき、母は一度だけ家の中を見た。
見て、言った。
「よし。」
褒めているわけじゃない。
確認する声。
家が“受け入れられる”状態になっているかの。
母が出ていって、玄関が閉まる音がした。
カタン。
透はその音を聞いて、変な気持ちになった。
あの日と同じ音なのに、今は違う意味を持っている。
なんだか前向きな音だ。
⸻
日が傾いて、家の中に影が伸びた頃。
玄関の外で、車の気配が止まった。
透は立ち上がった。
澪も立った。
二人とも、どこに手を置けばいいか分からないまま、リビングの真ん中に立つ。
鍵の回る音。
ドアが開く。
母が先に入ってきて、その後ろに、父がいた。
痩せてる。
顔の色が少し悪い。
それでも、目は開いている。
開いて、家を見ている。
父の脇には松葉杖が一本。
足は引きずってはいない。
ただ、踏む瞬間だけ、体がほんの少し揺れる。
透は喉が鳴った。
声を出す前に、父が言った。
「……ただいま」
透はそれを聞いて、返事が遅れた。
返事というより、空気が詰まった。
澪が先に出た。
「おかえり……!」
声が揺れて、すぐに押さえた。
泣いていない。
言葉だけが先に出た。
父は澪を見て、少しだけ笑った。
「澪、いるな」
声が少しだけ擦れた。
次に父の視線が透に来る。
透は何とか言った。
「……おかえり」
父は頷いて、玄関の段差をゆっくり上がった。
段差は上がれる。
でも、その一動作だけで、父の肩に力が入るのが分かった。
透は反射で近づきかけて、止まった。
母が言った。
「無理しないで。座って」
父はリビングの椅子に腰を下ろした。
座るのにも、時間がかかる。
椅子に触れてから、体重を預けるまでの一秒が長い。
父は息を吐いて、天井を一度見上げた。
「……家、あるな」
母が頷いた。
「ある。住めるよ」
住める。
その言葉が、透の胸の奥に広がった。
広がって、すぐに形が変わる。
住める。
でも、前と同じじゃない。
父は足元を見て言った。
「……寝室、二階だよね」
母が短く答える。
「そう。でも、しばらく一階でいい。布団、降ろしたから」
父は何も言わない。
言わないまま、松葉杖のグリップを握り直した。
透はその手を見た。
手は動いている。
でも、握り方に力がない。
父はぽつりと言った。
「……階段、上がれなくなるとは思わなかったな」
澪が唇を噛んだ。
透も、息が浅くなるのを感じた。
父は、少し間を置いて、母を見た。
「……ありがとう。迎え」
母は「うん」とだけ言った。
父は次に透を見て、言った。
「透。……ありがとう。家、守ったな」
透は頷いた。
頷いて、それだけでは足りない気がして、言った。
「……うん、守ったつもり」
父は小さく笑った。
「つもりでも、残ってるだろ」
残ってる。
家が。
人が。
透はその言葉で、胸の奥が少しだけ温かくなった。
温かいのに、同時に冷える。
失ったものが、周りに見えるからだ。
父は視線を床に落として、言った。
「……大変だったんだな」
透は頷いた。
「トイレの窓、壊れて……段ボールで塞いだ」
父は「そうか」と言って、顔をしかめた。
想像が追いついたんだろう。
母が言う。
「窓は、すぐは直らないって。業者も回ってないみたい」
父は頷いた。
「……いいよ。今は、塞がってるなら」
透は、段ボールの方を見た。
塞がっている。
それだけで、十分。
父はそこから視線を戻して、しばらく黙った。
黙って、口を開いた。
「……会社、な。俺、復帰は、すぐは無理だ」
透の胸が、少しだけ沈んだ。
沈んでも、驚きはなかった。
父の足を見れば分かる。
でも、父は続けて言った。
「焦らない。——焦っても、変わらない」
その言い方は、いつもの父だった。
自分に言い聞かせるみたいだ。
母がうなずく。
「うん。今は、生きてる」
生きてる。
避難所で何度も聞いた言葉なのに、家の中で言われると、重さが違う。
澪が小さく言った。
「……ご飯、食べる?」
父は一瞬だけ、困った顔をした。
食べたいのか、食べたくないのか、どっちともとれる顔。
母が言う。
「無理しないで。スープだけでも」
透はキッチンへ向かった。
蛇口をひねる。
細い水。
それでも、水が出る。
出るだけで、世界は少し戻っている。
鍋に水を入れながら、透は思った。
家に帰ってきた。
父も帰ってきた。
張り紙が残っている。
水圧が弱い。
夜は真っ暗なまま。
——それでも、鍋に水が溜まっていく。
父の足が、そこにある。
二階は遠い。
トイレの窓の段ボールがある。
廊下の粉が、まだ少し残っている。
透は鍋を火にかけて、音を立てないように弱火にした。
炎が小さく揺れる。
その揺れを見て、透はようやく、息を吐けた。
透はスープの匂いが立ち上がるのを待ちながら、廊下の先――段ボールの貼られたトイレの小窓をもう一度見た。
そこにある“穴”は、まだ塞がっている。
塞がっているだけだ。元通りではない。
父が戻ってきても、同じ。
塞いだままの場所が、いくつも残っている。
透は鍋の縁に手を置いて、熱を確かめた。
この家で、また暮らす。
前と同じじゃなくても。
背中が少しだけ伸びた気がする。
鍋の火を止めたところで、玄関の方から紙が擦れる音がした。
ポストじゃない。ドアの隙間に差し込まれた紙だ。
透は手を拭いて見に行く。
白い紙。角が少し曲がっている。
印刷された文字が、妙に整っていた。
「危険区域立入者 登録説明会(任意)」
日付は、明日。
透はそれを黙って折った。
折り目がつく音が、家の中でやけに大きい。
背後で父が言う。
「……それ、何だ」
透は振り向かないまま答えた。
「回覧みたいなやつ」
嘘じゃない。
透は紙を台所の隅に置いた。
スープの匂いの横に、明日の紙。
外はまだ、すこし遠い。
第一章はこれで終わりです。閑話を2話挟んでから第二章が始まります。ここまで1日3話投稿でしたが、ストックが減ってきたのでしばらく1日2話投稿になるかもしれません。感想等いただけると幸いです。今後ともよろしくお願い致します。




