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箱庭の進化 〜世界にダンジョンが現れた日〜  作者: 観測者
1章

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27/80

閑話。違和感

あの日、サイレンが二回鳴った。

そのどちらも、俺のせいじゃなかった…


初めて“それ”に気づいたのは、もっと前だ。

小学校に上がったばかりの頃。ランドセルが背中で跳ねて、教室の椅子がやけに硬く感じた頃。


校門の鉄柵が、ほんの少しだけ歪んで見えた。


曲がっているわけじゃない。

目を細めると治るような錯覚でもない。真っすぐなはずの線が、そこだけ「揺れている」。水面に映った棒みたいに、輪郭が落ち着かない。


俺は立ち止まって、何度も瞬きをした。

指でなぞって確かめようとして、鉄の冷たさに触れて、余計に分からなくなった。


不思議だった。なんだか気持ちが悪かった。

熱の前触れみたいな、薄い吐き気。


「慧、なにしてんの」


後ろから同級生に肩を叩かれて、俺は手を引っ込めた。

振り向いた瞬間、歪みは消えていた。


その日、何かが起きたわけじゃない。

少なくとも、俺の目の前では。

だから俺は、それを忘れた。


——


二回目——忘れられなくなったのは、四年生の冬だった。


昼休みの校庭は乾いていて、ボールの跳ねる音がやけに大きい。

息の白さだけが、冬を主張していた。


「慧、サッカーやろうぜ」


誘われて、俺は頷いた。

ゴールを出して、枠を組み立てる。鉄の棒を差し込み、固定用の金具を回す。いつもの作業だ。


その時だ。


ゴールポストの角が——歪んで見えた。


ほんの少し。

角の直線がまっすぐであることを、世界が忘れてしまったみたいに、輪郭が揺れている。


俺は、息を止めた。


一瞬で分かった。

これだ。前に経験した感覚。

違うのは、今回は歪みが消えないことだった。


見なかったことにしようとしても、視界の端に残る。

目をそらしても、戻すとそこにある。

まるで「ここを見ろ」と言われているみたいに。


「どうした? 」


同じチームのやつが笑いながら声をかけてきた。

俺は、咄嗟に金具から手を離した。指先が冷えて、感覚が薄い。


俺はゴールポストを見た。

歪みは、そこにある。


「早くしろよ、試合始めるぞ」


急かされて、俺は結局、何も言わないまま金具を締め直した。

手順は、いつも通りに終わった。


ボールが蹴り出される。

走る。息が切れる。足が重い。

目の端で、ゴールポストの歪みがずっと揺れている。


それは、視界の外に逃げてくれない。


シュートが飛ぶ。

誰かが叫ぶ。

砂埃が舞う。


——次の瞬間、金属が鳴った。


低くて、体に響く音。

嫌な音。骨に近い音。


俺が振り向いた時には、枠が傾いていた。

傾く、というより——突然、支えがなくなったみたいに落ちる。


時間が遅くなったように感じた。

横棒が落ちてくる。


その下に、同級生の頭があった。


俺は走った。

足が地面に吸い付くみたいに重い。距離がやけに遠い。

声が出ない。


間に合わない。


横から誰かが飛び込んで、同級生を突き飛ばした。

上級生だった。ボールを追っていたやつ。

同級生は土まみれになって泣いた。


上級生は、すぐには起き上がれなかった。


横棒は上級生の肩をかすめた。

直撃したわけじゃない。


肩が変な角度で落ちて、息を吸うたびに顔が歪む。


先生が駆け寄ってきて、周りがざわめいて。

俺は立ち尽くしていた。心臓だけが暴れて、世界が薄くなる。


「救急車!」

「早く、誰か!」


校庭の上を切り裂いて、サイレンが近づいてきた。


一回目。


担架が運ばれて、上級生が乗せられた。唇が白くて、目だけが変に大きい。

先生が「大丈夫」と言っていた。

その一言だけが、場違いに浮いた。


少し遅れて、別のサイレンが来た。


二回目。


上級生を助けようとした先生が、途中で崩れ落ちた。

過呼吸だったのか、何か持病があったのか。

その時の俺には、ただ「もう一回鳴った」という事実だけが残った。


俺は自分の耳を塞ぎたかった。

音は皮膚の内側に入ってくる。骨の奥に残る。


俺は理解してしまった。


ゴールポストの歪み。

昼休み。

落ちてくる横棒。

全部がつながっている。


でも俺は、言わなかった。

言えなかった。

言う理由がなかった。言える証拠がなかった。言ったところで誰も信じない。


それでも——俺は見てしまった。


そのどちらも、俺のせいじゃない。


——


それから俺は、歪みを無視しないようになった。


無視しない、というより、“歪みが出た日は余計なことをしない”。

寄り道をしない。走らない。危ない場所には近づかない。

列から外れない。人の多い場所では端に寄る。

階段は手すり側。交差点は一歩引いて待つ。


理由は説明できない。

だから「なんとなく」で押し通す。

周りに合わせて笑って、合わせて頷いて、黙って自分のルールを守る。


救えるものが増えるかは分からない。

救えない日だってある。

ただ、何もしないで立っている自分を、二度と見たくなかった。


——


中学に上がって、周りがやたらと先の話をするようになった頃。


「慧って、将来どうすんの」


そう聞かれて、俺は答えた。


「医者…かな」


最善というのは、正しいことじゃない。

一番マシな道を選ぶことだ。

歪みが見えても、歩ける道を残すことだ。


——


そして——。


世界が壊れてから、俺の中の“気持ち悪さ”は薄まるどころか濃くなった。

歪みは、校庭の鉄だけじゃない。人の輪郭にも、影の縁にも、空気の境目にも出る。


それでも、まだ名前はついていない。

誰にも説明できないまま、俺だけが知っている。


歪みが出たら、そこに何かが起きる。

“そこ”が俺なのか、誰なのか、場所なのか。

分からないから、最善を選ぶ。


——透のいる方へ。


俺は一度だけ息を整えた。

肺が小さくなる感覚を押し潰すように、肩を落として、視線を上げる。


歪みは、消えていなかった。

こちらを見ているみたいに、そこにあった。

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