閑話。違和感
あの日、サイレンが二回鳴った。
そのどちらも、俺のせいじゃなかった…
初めて“それ”に気づいたのは、もっと前だ。
小学校に上がったばかりの頃。ランドセルが背中で跳ねて、教室の椅子がやけに硬く感じた頃。
校門の鉄柵が、ほんの少しだけ歪んで見えた。
曲がっているわけじゃない。
目を細めると治るような錯覚でもない。真っすぐなはずの線が、そこだけ「揺れている」。水面に映った棒みたいに、輪郭が落ち着かない。
俺は立ち止まって、何度も瞬きをした。
指でなぞって確かめようとして、鉄の冷たさに触れて、余計に分からなくなった。
不思議だった。なんだか気持ちが悪かった。
熱の前触れみたいな、薄い吐き気。
「慧、なにしてんの」
後ろから同級生に肩を叩かれて、俺は手を引っ込めた。
振り向いた瞬間、歪みは消えていた。
その日、何かが起きたわけじゃない。
少なくとも、俺の目の前では。
だから俺は、それを忘れた。
——
二回目——忘れられなくなったのは、四年生の冬だった。
昼休みの校庭は乾いていて、ボールの跳ねる音がやけに大きい。
息の白さだけが、冬を主張していた。
「慧、サッカーやろうぜ」
誘われて、俺は頷いた。
ゴールを出して、枠を組み立てる。鉄の棒を差し込み、固定用の金具を回す。いつもの作業だ。
その時だ。
ゴールポストの角が——歪んで見えた。
ほんの少し。
角の直線がまっすぐであることを、世界が忘れてしまったみたいに、輪郭が揺れている。
俺は、息を止めた。
一瞬で分かった。
これだ。前に経験した感覚。
違うのは、今回は歪みが消えないことだった。
見なかったことにしようとしても、視界の端に残る。
目をそらしても、戻すとそこにある。
まるで「ここを見ろ」と言われているみたいに。
「どうした? 」
同じチームのやつが笑いながら声をかけてきた。
俺は、咄嗟に金具から手を離した。指先が冷えて、感覚が薄い。
俺はゴールポストを見た。
歪みは、そこにある。
「早くしろよ、試合始めるぞ」
急かされて、俺は結局、何も言わないまま金具を締め直した。
手順は、いつも通りに終わった。
ボールが蹴り出される。
走る。息が切れる。足が重い。
目の端で、ゴールポストの歪みがずっと揺れている。
それは、視界の外に逃げてくれない。
シュートが飛ぶ。
誰かが叫ぶ。
砂埃が舞う。
——次の瞬間、金属が鳴った。
低くて、体に響く音。
嫌な音。骨に近い音。
俺が振り向いた時には、枠が傾いていた。
傾く、というより——突然、支えがなくなったみたいに落ちる。
時間が遅くなったように感じた。
横棒が落ちてくる。
その下に、同級生の頭があった。
俺は走った。
足が地面に吸い付くみたいに重い。距離がやけに遠い。
声が出ない。
間に合わない。
横から誰かが飛び込んで、同級生を突き飛ばした。
上級生だった。ボールを追っていたやつ。
同級生は土まみれになって泣いた。
上級生は、すぐには起き上がれなかった。
横棒は上級生の肩をかすめた。
直撃したわけじゃない。
肩が変な角度で落ちて、息を吸うたびに顔が歪む。
先生が駆け寄ってきて、周りがざわめいて。
俺は立ち尽くしていた。心臓だけが暴れて、世界が薄くなる。
「救急車!」
「早く、誰か!」
校庭の上を切り裂いて、サイレンが近づいてきた。
一回目。
担架が運ばれて、上級生が乗せられた。唇が白くて、目だけが変に大きい。
先生が「大丈夫」と言っていた。
その一言だけが、場違いに浮いた。
少し遅れて、別のサイレンが来た。
二回目。
上級生を助けようとした先生が、途中で崩れ落ちた。
過呼吸だったのか、何か持病があったのか。
その時の俺には、ただ「もう一回鳴った」という事実だけが残った。
俺は自分の耳を塞ぎたかった。
音は皮膚の内側に入ってくる。骨の奥に残る。
俺は理解してしまった。
ゴールポストの歪み。
昼休み。
落ちてくる横棒。
全部がつながっている。
でも俺は、言わなかった。
言えなかった。
言う理由がなかった。言える証拠がなかった。言ったところで誰も信じない。
それでも——俺は見てしまった。
そのどちらも、俺のせいじゃない。
——
それから俺は、歪みを無視しないようになった。
無視しない、というより、“歪みが出た日は余計なことをしない”。
寄り道をしない。走らない。危ない場所には近づかない。
列から外れない。人の多い場所では端に寄る。
階段は手すり側。交差点は一歩引いて待つ。
理由は説明できない。
だから「なんとなく」で押し通す。
周りに合わせて笑って、合わせて頷いて、黙って自分のルールを守る。
救えるものが増えるかは分からない。
救えない日だってある。
ただ、何もしないで立っている自分を、二度と見たくなかった。
——
中学に上がって、周りがやたらと先の話をするようになった頃。
「慧って、将来どうすんの」
そう聞かれて、俺は答えた。
「医者…かな」
最善というのは、正しいことじゃない。
一番マシな道を選ぶことだ。
歪みが見えても、歩ける道を残すことだ。
——
そして——。
世界が壊れてから、俺の中の“気持ち悪さ”は薄まるどころか濃くなった。
歪みは、校庭の鉄だけじゃない。人の輪郭にも、影の縁にも、空気の境目にも出る。
それでも、まだ名前はついていない。
誰にも説明できないまま、俺だけが知っている。
歪みが出たら、そこに何かが起きる。
“そこ”が俺なのか、誰なのか、場所なのか。
分からないから、最善を選ぶ。
——透のいる方へ。
俺は一度だけ息を整えた。
肺が小さくなる感覚を押し潰すように、肩を落として、視線を上げる。
歪みは、消えていなかった。
こちらを見ているみたいに、そこにあった。




