十一層、残骸
一層の草原に、薄い輪郭が残っていた。
透は足元を見る。
慧も同じ場所を見ている。
「……まだあるな」
慧が言う。
透が頷く。
「消えてないね、転移陣」
輪郭は濃くない。
でも見失うほど薄くもない。
草の上に、線だけが置かれている。
二人は円の中心に並んで立った。
息を合わせるほどのことじゃない。
ただ、同時に乗る。
空気が一枚めくれる。
光も音もない。
次の瞬間、冷たい湿り気が戻る。
八層の小部屋だった。
慧が息を吐いた。
「……やっぱ便利だな」
「階段、馬鹿らしいな」
透は返さない。足元の円を見る。
こっちは地面に焼き付いたみたいに残っている。
「行きも帰りも、これでいい」
慧が言う。
透が言った。
「便利すぎるのが怖いね。まるで何かが深層に誘ってるみたい」
「まあ、使うんだけどね」
二人は小部屋を出た。
壁の向こうは、いつもの洞窟だ。
湿っていて、音が返る。
十層までは、止まらずに進んだ。
九層の棍棒。
十層の刃物。
一戦ずつこなして体を慣らす。
黒い靄が溶けて、道が空く。
階段を見つける。
十一層。
降りた瞬間、洞窟の匂いが変わった。
同じ洞窟なのに、空気が重い。
湿り気が皮膚にまとわりつく。
慧が言う。
「……なんか、嫌な空気だな」
透は頷く。
壁の色が少し暗い。
天井が近い気がする。
音も変だ。返りが遅い。
数歩進んで、透が止まった。
「糸」
慧が目を細める。
最初はただの影に見えた。
ライトを斜めに当てると、白い線が浮く。
一本じゃない。何本も。
通路の端から端へ、薄く張られている。
慧が言う。
「蜘蛛か」
透が言う。
「たぶんね」
避けようとするが、避ける場所がない。
糸はまとめてあるわけじゃない。
高さもバラバラだ。足元だけじゃない。胸の高さにもある。
慧が息を吐いた。
「切ってくれ」
透がマチェーテを出した。
刃を当てて、押す。
切れない。
刃が入る。
入るのに、切れない。
粘っこい。伸びる。絡む。
透がもう一度引く。
糸が刃に張りついて、ついてくる。
切れた端が、ぶら下がって戻ってこない。
「……これ」
透が言う。
「きれいに切れないね」
慧が言う。
「最悪だな」
透が刃を振っても、糸が残る。
残ったまま、別の糸とくっつく。
束になる。どんどん太くなっていく。
慧が言った。
「ある程度はがして進もう」
透は頷いた。
もう少し進む。
通路の角に、落ちているものがあった。
前腕プレート。片方だけ。
破れた手袋。
折れたライト。
慧がしゃがんで、ライトを近づけた。
床に、血がある。
鮮やかな赤じゃない。赤黒い。
乾いている。少し古い血。
慧が言う。
「……ちょっと前だな」
透は何も言わない。
声にしたくない。
慧がプレートを指で避けて、血の筋を見た。
引きずった跡。
そこから、糸が絡んでいる。
慧が言った。
「転移罠か」
「……どっかから飛ばされてきたやつかもしれないな」
透は頷いた。
ここに飛ばされた時点で普通の探索者は詰む。
僕らが十一層まで来れてるのは、普通じゃない。
慧が立ち上がる。
「行くなら、早く行こう」
「ここに長居したくない」
透も頷いた。
糸の間を、ゆっくり抜ける。
足を上げる。引っかからないように。
でも糸は見えにくい。角度で消える。
透の膝に、何かが触れた。
一瞬遅れて、引かれる。
「っ」
透の足が止まる。
足首に糸が巻き付く。
粘っこくて、剥がれない。
慧が言う。
「動くな、絡むぞ」
透は止まったまま、刃を当てる。
切れない。糸が伸びる。
伸びる糸が、さらに絡む。
その時、天井の暗いところが動いた。
脚。
長い脚が一本、下りてくる。
続けてもう一本。
静かに、確実に。
胴体が見えた。
人の胴くらいの大きさ。
脚はそれより長い。
赤く薄く光る眼。
こっちを見ているのが分かる。
慧が息を吸う。
「……来る」
蜘蛛が糸を引く。
透の足首がもう一度引かれる。
透が言う。
「糸、切れない」
「だから――」
慧が言った。
「本体を潰す」
慧が前に出る。
鈍器が落ちる。
蜘蛛の脚に当たって、黒い靄がにじむ。
蜘蛛が脚を引く。
同時に別の糸が飛ぶ。
透の足首の糸とつながる。
透が歯を食いしばる。
動けない。動けば絡む。
慧が二発目。
今度は胴体へ。
鈍い音。黒い靄。
蜘蛛が体を持ち上げる。
脚が透の方へ伸びる。
透は腕を上げる。
前腕プレートに糸が当たる。
べたっと張りつく。
剥がれない。
透は刃で糸を払おうとする。
糸が刃に絡む。刃先が重くなる。
「……くそ」
慧が言う。
「透、動くな」
「引っ張られるなら、引っ張られたまま耐えろ」
透は頷いた。
慧が三発目。
蜘蛛の胴に鈍器が沈む。
蜘蛛が揺れる。
透はその揺れに合わせて、脚へ刃を入れた。
黒い靄がにじむ。
蜘蛛が脚を引く。
糸がさらに伸びる。
伸びた糸が床を這って、別の糸と絡む。
慧が舌打ちした。
「こいつ、めんどくさいな」
慧が一歩寄る。
蜘蛛が胴を下げる。
噛みつく動き。
慧は避けない。
鈍器を落とす。
顎のあたりに当たる。黒い靄。
蜘蛛が止まる。
止まった瞬間、慧が胴体へもう一発。
今度は深い。
蜘蛛が、崩れた。
黒い靄が溶ける。
ほどける。
消える。
同時に。
透の足首の糸が、ふっと軽くなった。
張りついていた糸が、力を失って落ちる。
床に落ちた糸も、壁の糸も、同じように薄くなっていく。
糸は消える。
消え方は靄と似ている。
空気に溶けるみたいにほどける。
透が足を引く。
ようやく動く。
慧が息を吐いた。
「本体、だな」
「本体が死んだら、糸も消える」
透は足首を押さえた。
皮膚が赤い。擦れた跡。
血が少し滲む。
慧が言う。
「大丈夫か」
透が頷く。
「……いける、これぐらいなら回復できる」
「でも、糸は火が欲しいね」
慧が笑った。
「火魔法、欲しいな」
蜘蛛が消えた場所に、残っているものがある。
魔石。
色が濃い青。
今までのオークのやつより深い。重い。
それと、糸。
さっきの粘っこい糸と似ているのに、手に取れる。
束になっていて、べたつかない。“材料”だけが残ったみたいだ。
透が言った。
「……ドロップだね」
慧が頷く。
「新しいな」
「十層までとは違う」
透は落ちていたプレートと手袋に目をやった。
血は乾いている。
でも、ここで時間を使う気になれない。
慧が言う。
「持ち帰って協会に渡す」
透は頷いた。
「うん」
二人は短く動いた。
ライト。手袋。プレート。
血がついたものは布で包む。
全部、自分の袋に入れない。別の袋に分ける。
慧が言う。
「十一層、こういう層だな」
「蜘蛛と糸、狩人、って感じがする」
透が言った。
「これまで以上に、きついね」
慧が頷く。
「今日は帰る、対策をたてる」
透も頷いた。
「帰ろう」
帰り道の糸は薄くなっていた。
蜘蛛が死んだからだ。
透は一度だけ、天井を見た。
同じのがもう一体いてもおかしくない。
でも、今はいない。
慧が言った。
「火があれば、糸は楽かもな」
「次のゲームチェンジャーは火、かもしれないぞ」
透は答えなかった。
火が欲しいのは同じだった。
でも、欲しいからって手に入るわけじゃない。
そういう世界だ。




