転移陣、報告
八層の洞窟は、帰り道でも湿っていた。
十層で回して、拾って、休んで、また倒して。
体も重くない、まだ動ける。
二人とも、余計な会話はしなかった。
九層を抜ける。
棍棒を持った豚――オーク。
当たらなければ、どうにでもなる。
八層に戻る。
混成の層。
ゴブリンと、素手のオーク。
固まって出てくる。
透は、いつも通りに脚を削る。
慧が止めて、落とす。
黒い靄が溶けて消える。
そのまま階段へ向かうつもりだった。
透の足が、ふっと止まった。
視界の端に、何かが引っかかった。
階段の方向ではない。
洞窟の奥でもない。
壁のはずの場所。
岩肌は続いているのに、そこだけ、何か薄い感覚。
危険の匂いじゃない。
嫌な感じもない。
「……慧」
慧がすぐに顔を向ける。
「何」
透は指で示した。
壁にしか見えないところ。
「こっち」
「変だ」
慧が眉を寄せる。
「ただの壁だろ」
「分かってる」
透が言う。
「でも、なんかある気がする」
慧が一歩近づいて、手を伸ばしかけて止めた。
「触るぞ」
「罠だったら殴るからな」
「殴っても遅いだろ」
透が返す。
慧が舌打ちして、ゆっくり指を伸ばした。
指が、岩に触れない。
触れるはずの場所を、指が抜けた。
慧が目を丸くする。
「……は?」
透も同じように手を入れる。
腕が半分、向こうへ抜けた。
「行けるね」
透が言う。
二人で慎重に“壁”を抜けた。
向こうは小さな空間だった。
洞窟の裏側みたいな場所。
天井が低く、空気が冷たい。
床に、薄い輪郭がある。
円。
細い線が重なっている。
焼き付いたみたいに、淡い。
慧が言った。
「……転移か?」
透は頷く。
「たぶん」
「……罠って感じでは、なさそうだね」
慧が一歩引く。
「嫌な記憶しかないぞ」
「踏んだら飛ぶやつだろ?」
透はしゃがんで線を見る。
近づくと、空気が少し動く。
吸われる感じがある。
危険はない。
少なくとも、今の二人にはそう感じた。
慧が言う。
「試す?」
「危険な感じではないよ、多分ね」
透は一拍置いた。
「……一人で乗るのはやめよう」
慧が頷いた。
「そうだな」
「ダンジョンではぐれるべきじゃない」
二人は円の中心に立った。
光はない。
音もない。
ただ、空気が一枚めくれる。
次の瞬間、草の匂いがした。
草原だった。
風が頬を打つ。
視界が開く。
遠くに入口が見える。
慧が、まず周りを見る。
「……一層?」
「まさかな」
遠くにネズミの魔物が見える。
透が頷く。
「一層、だね」
足元を見ると、薄い輪郭が残っていた。
八層で見たのと同じ円。
草の上に、淡い線。
慧が言う。
「これ、双方向か?」
透は答えず、円の端に足を置いた。
何も起きない。
慧が言う。
「乗るなら、ちゃんと乗れよ」
透が円の中心に立つ。
慧も並ぶ。
また、空気がめくれる。
八層の小部屋に戻った。
慧が短く笑う。
「……双方向だ」
「まじかよ」
透は息を吐いた。
笑うより先に、頭が働く。
一層からここまで、階段で降りるのに時間がかかる。
一層につき三十分は見ていた。
それが六層分。
さらに七層の広間も、状況次第では止まる。
それが、今は。
「……やばいな」
透が言った。
慧が頷く。
「探索時間、増やせるぞ」
「より、下を目指せる」
二人はもう一度、一層へ戻った。
戻れることを確かめてから、地上へ向かった。
協会の臨時支部は、まだ慌ただしかった。
受付で名前を言う。
到達階層を言う。
回収物を出す。
いつもの流れの途中で、透が言った。
「八層で……変なのを見つけました」
「転移っぽいの」
係の人の手が止まる。
「転移?」
「トラップですか」
「分かりません」
透が言う。
「でも、踏んでも危険な感じはなかった」
「一層に飛ばされました」
「戻れまた、双方向でした」
係の人が奥を見た。
別の職員が来る。
端末を持ってくる。
質問が増える。
「場所は」
「八層、一層のどこですか」
「階段からの距離は」
「入口は」
「印は」
透と慧は、覚えている限りを答えた。
壁みたいに見えたこと。
抜けたこと。
小部屋だったこと。
床に薄い線があったこと。
職員は頷きながら入力する。
「まだ八層には入れませんが、一層の転移に調査を入れます」
「本日は情報、ありがとうございます」
「——現場はできるだけ、触らないでください。使用自体は問題ありませんが、今後は協会管理になります」
「分かりました」
透が言う。
係の人は言葉を選んでいた。
「……その、転移陣については」
「確認でき次第、共有させていただきます」
透は頷く。
慧も頷く。
手続きが戻る。
回収物の確認。仮査定。サイン。
今日の分は、まとめて四十万くらいになった。
オーク肉は持ち帰り品として受け取る。
透は金額を見て、紙を折った。
悪くない。
でも、前より少し落ちている。
慧が小声で言う。
「ポーション、下がったな」
透が頷く。
「出てきたらしいよ」
「少しずつ」
最初の頃みたいな“未発見品”じゃない。
それだけの話だ。
外に出ると、空が少しだけ赤みがかっていた。
受付の声が、さっきより遠い。
慧が言う。
「これで、洞窟まで楽になるな」
「帰りも」
透が頷く。
「探索時間が増える」
「それだけでもデカいね」
慧が一瞬だけ、協会のプレハブの方を見る。
「調査、どうなるかな」
「多分、すぐ人入るだろ」
透は答えない。
あの円が、二人だけのものじゃなくなる。
そういう流れはもう見えている。
慧が言った。
「じゃ、今日は解散だな」
「明日、また連絡する」
透が頷く。
「うん」
「気をつけて」
慧は手を上げて、家の方へ歩いていった。
透も反対に歩く。
オークの肉。
明細の紙。
今日の二十万。
家に着いたら、オーク肉の話をしよう。
今日はもう夕飯作ってくれてるだろうし、明日の晩ご飯にでも使ってもらおう。
そういう使い方のほうが、家っぽい。
なんだかファンタジーの生き物が、より、生活に近づいてきた気がする。
透は歩きながら、短く息を吐いた。
「オーク」
口に出すと、少しだけ現実になる。
それでも、まだ慣れない。




