慧の決意、選択
ホームルーム。
黒板の横に立った先生は、出席簿を閉じてから、教卓に手を置いた。
教室の空気が落ち着くまで、何も言わない。
それから、短く咳をした。
「……色々あった。けど、世界は待ってくれない」
誰も笑わない。
先生も笑わない。
言葉だけが、そこに落ちる。
「あと四ヶ月で、お前らは高三だ」
「受験する学校。科目。推薦にするか一般にするか。家の事情も含めて、今のうちに詳細を決めておけ」
先生は視線を走らせた。
空いている席を避けない。
「災害が収まったって言われてる。でも、収まっただけだ」
「進路も、生活も、勝手に決まってはくれない」
チョークが鳴る。
「進路希望調査 提出:来週」
雑な字。いつもの字。
透はノートを開いたまま、文字を見ていた。
“あと四ヶ月”という言い方が、妙に具体的だった。
ホームルームが終わる。
椅子が机を引っ掻く音。
教室が、少しだけ戻る。
透が立ち上がろうとしたとき、前から声が来た。
「透」
慧だ。
いつも通りの顔。
でも、いつもより近い気がする。
透が顔を上げる。
「……何」
慧は一瞬だけ、周りを見た。
誰もこっちを見ていないのを確かめる。
「ちょっと、いいか」
透は頷いた。
理由は聞かなかった。
聞かなくても、だいたい分かる。
放課後。
階段の踊り場。
人の通りが少ないところ。
運動部の声が遠い。
慧は壁にもたれず、立ったまま言った。
「……大学、行かずに」
透の目が少し細くなる。
慧は続けた。
「探索者にならないか」
透は、すぐに返せなかった。
言葉の意味は分かる。
でも、今その形で出てくると思ってなかった。
「……急だな」
慧が、肩をすくめる。
いつもの動き。
でも、目は逃げない。
「急じゃない」
「ずっと、考えてた」
「“考えてないふり”してただけだ」
透は黙る。
慧が言う。
「俺、医者になると思ってた」
「一番安全で、それが最善だと」
慧がこんなことを言うのは、意外だった。
「保険もきく。道もある。勉強すれば届く」
「……前向きっていうより、それが一番マシだった」
透は息を吐く。
慧の言葉は、いつも“割り切り”だった。
その割り切りの中に、今日は違うものが混ざっている。
「でも、ダンジョンを見た」
「転移も見た」
「下層を見た」
慧の声が少しだけ低くなる。
見たものが、まだ胸の中にある声。
「それで——」
慧は言葉を探した。
「……知りたいと思った」
透は、それを聞いて、目を逸らせなかった。
ここまで口数が多い慧は珍しい。
慧は続ける。
「俺のスキル。危機察知」
「小さい頃から、たまに勝手に発動してた」
「理由は分からない」
透は覚えている。
災害の日、家で慧の感じた違和感のこと。
その説明が曖昧だったこと。
「それが、レベル十になって“スキル”として出てきた」
「……なぜ今なのか」
「なぜ、そういう形で出たのか」
慧は、自分の指先を見た。
掌じゃない。指先。
“感覚”に近いところ。
「この世界には、何かある」
「ダンジョンが湧いた理由も、転移がある理由も、俺は知らない」
「でも、知らないまま目を背けるのは……」
慧は言葉を切った。
“逃げ”と言いそうで、飲み込んだ。
「医者が安泰ってのも、もう言えない」
「ポーションが見つかった」
「回復が“物”になるなら、次は何が出る」
透の胸が、少しだけ動く。
慧は、透を見る。
「透、お前の回復魔法」
踏み込んでくる。
透は頷かない。
否定もしない。
慧が続ける。
「もしそれで、お前の親父さんの足が治るなら」
「……それが、答えなんじゃないか」
「現代医学ではどうしようもない怪我、病気が、もし、どうにかなるのであれば」
透の喉が鳴る。
父の左足。
少しだけあった反応。
「回復で無理でも、“より強力な”ポーションが出るかもしれない」
慧は淡々と言う。
淡々と言いながら、そこに期待が混ざっている。
「それを探せるのは、医者じゃない」
透はようやく言った。
「……でも、まだ俺たち、潜れない」
慧が頷く。
「分かってる」
「家族が止めてるのも」
「協会が動いてるのも」
一拍。
「だから、今のうちに決めたい」
「大学に行くか」
「潜るか」
「……両方か」
透は少しだけ笑いそうになって、やめた。
両方。
それは欲張りだ。
でも、慧がそう言うのは珍しい。
透は言う。
「……慧が“やってみたい”って言うの、初めて聞いた」
慧が目を逸らした。
逸らしてから、戻した。
「……そうかもな」
透は、手を握る。
掌の奥が、熱を思い出す。
父の足。
世界。
自分の中の回復。
そして、ヒールポーション。
透は、まだ答えを出さない。
でも、答えの形は見え始めている。
「……協会、行かなきゃいけない」
透が言うと、慧が頷いた。
「ああ」
「神奈川支部。もう一回呼ばれてる」
透は、視線を落とす。
現実の線引きが、そこにある。
「そこで、金額も出る」
「ドロップの話も」
「……肉も、あの瓶も」
慧が短く言った。
「ちゃんと聞かなきゃいけない」
「俺らは、知りすぎた」
透は頷いた。
頷くのが、少しだけ重い。
校舎の向こうで、チャイムが鳴った。
帰りの時間を知らせる音。
透は思った。
世界は待ってくれない、と先生は言った。
その言葉が、こんなところで効いてくる。
待ってくれないなら。
待つか、追うか。
それを選ぶのは、自分たちでありたい。




