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箱庭の進化 〜世界にダンジョンが現れた日〜  作者: 観測者
3章

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45/80

空いている席、学校

あの夜から、二週間。


透はまだ、ダンジョンに入らせてもらえていなかった。

玄関の鍵を回す音だけが、妙に重くなったままだ。

母は何も言わない。透を目で追っている。

父も同じだ。視線だけが一度、追って、外れる。


それでも、学校は始まった。


世界の方は、静かに形を変えていた。

災害の被害は収まりつつある。

ただ、収まったからといって、元に戻るわけではない。


国によっては、体制の変換が余儀なくされた。

世界全体で、人口の約一割が犠牲になったと言われている。

数字が先に出回って、あとから顔が追いつく。

透はそのことが、ずっと気持ち悪かった。


日本は、対応が早かった方だ。

都市部の被害は小さく抑えられたとされる。

その代わり、田舎の方が割を食った。

通信が遅れた地域。道路が割れた地域。支援が届くまでに日がかかった地域。

それでも、ニュースは最後にこう言う。


——災害は、完全に収束したとみられる。


「とみられる」という言い方だけが、どこか残る。

透の中に残っている“ダンジョン”と同じ温度。


ダンジョンは消えていない。

収束したのは、倒れた建物と火と、混乱の方だ。

穴は、そこにある。


そして、淡く赤い瓶の中身が、何だったのかも分かった。


協会の鑑定。

研究機関の追試。

医療機関の反応。

ネットの騒ぎ。

探索者の熱。

国の声明。


“損傷修復作用”。


言い方は硬い、それでも、現象はファンタジーだった。

ポーション。

ヒール。

言葉が先に独り歩きして、現実に追いつく。


街の空気が少し変わった。

救急車の音が減ったわけじゃない。

でも、誰かが「治るかもしれない」と言えるようになった。

希望が持てると、顔が変わる。


透はその騒ぎを、外側から見ていた。


自分の手の中にある“回復”の方は、まだ何も分かっていない。


二週間の間に、透は何度も試した。

小さく切る。指先をほんの少しだけ。

紙で切ったみたいな浅い傷。

消毒して、掌を当てる。


塞がる。

早い。

普通の治り方じゃない。


じゃあ、時間を巻き戻しているのか。

それとも、自己治癒を無理やり加速しているのか。


透は試した。

傷の形を変える。

傷の深さを変える。

血が出るか出ないかで分ける。

治り方の速さを記録する。


物にもやってみた。

欠けたプラスチック。割れた鉛筆。裂けた布。

掌を当てて、同じ熱を流す。


何も起きない。


生きているものだけが反応する。

でも、それが「細胞の自己修復」なのか「時間」なのか、透には判断がつかなかった。

判断するための指標が、足りない。


父の左足には、届かなかった。

あの夜から一度も、届いていない。

少しだけあった反応が、頭の奥で反復する。

再現できない。


再現できないことが、余計に透を焦らせた。

焦っても、できることは少ない。

だから透は、記録する。

日付。時間。体調。指の温度。集中できたかどうか。

結果。何も分からなかった。


十一月。


学校が始まった。


朝の空気が冷たい。

制服が薄く感じる。

駅前の人混みは戻ってきているのに、どこか密度が違う。

笑っている声がある。

でも、笑い方が変わった気もする。


教室に入る。


席は、ぽつぽつと空いていた。

一つだけじゃない。

前の方が空いている席。後ろの方が空いている席。

端だけが空いている席。


先生が出席を取る。

名前が呼ばれる。

返事がない。

先生は一度だけ間を置いて、次を呼ぶ。


その間が、やけに長く感じる。


透は前を向いて座ったまま、息だけを整えた。

誰も大声で何かを言わない。

「いないね」とも言わない。

空席を見ないふりをするわけでもない。

ただ、視線が一度、落ちて、戻る。


休み時間。


廊下で、「親戚が」とか、「家が」とか、途切れ途切れに聞こえる。

言葉が最後まで繋がらない。

もうみんな知っている。

災害が完全に収束したという言葉の裏側を。


透は窓の外を見た。

校庭。体育館。いつもの空。

いつもの景色に、ここには穴はない。


——ダンジョンは、学校にはない。


それなのに、透の心の中には、ずっとある。


ポーションは、世界を沸かせた。

転移は、協会が注意を出した。

回復は、透の掌の中にある。


でも透は、いま椅子に座っている。

ノートを開いて、ペンを握っている。


授業が始まる。


黒板に文字が書かれる。

チョークの音がする。

それが、ひどく現実を持ってくる。


透は思う。


二週間、潜っていない。

潜れない。

止められている。


それでも、世界は進む。

穴は消えない。

自分の掌は、熱くなる。


次に潜れる日が来たとき。

自分は何を持って、何を知っているだろう。


透は、机の下で指先を握った。

目立たないように。

癖みたいに。


熱が、まだ残っている。

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