空いている席、学校
あの夜から、二週間。
透はまだ、ダンジョンに入らせてもらえていなかった。
玄関の鍵を回す音だけが、妙に重くなったままだ。
母は何も言わない。透を目で追っている。
父も同じだ。視線だけが一度、追って、外れる。
それでも、学校は始まった。
世界の方は、静かに形を変えていた。
災害の被害は収まりつつある。
ただ、収まったからといって、元に戻るわけではない。
国によっては、体制の変換が余儀なくされた。
世界全体で、人口の約一割が犠牲になったと言われている。
数字が先に出回って、あとから顔が追いつく。
透はそのことが、ずっと気持ち悪かった。
日本は、対応が早かった方だ。
都市部の被害は小さく抑えられたとされる。
その代わり、田舎の方が割を食った。
通信が遅れた地域。道路が割れた地域。支援が届くまでに日がかかった地域。
それでも、ニュースは最後にこう言う。
——災害は、完全に収束したとみられる。
「とみられる」という言い方だけが、どこか残る。
透の中に残っている“ダンジョン”と同じ温度。
ダンジョンは消えていない。
収束したのは、倒れた建物と火と、混乱の方だ。
穴は、そこにある。
そして、淡く赤い瓶の中身が、何だったのかも分かった。
協会の鑑定。
研究機関の追試。
医療機関の反応。
ネットの騒ぎ。
探索者の熱。
国の声明。
“損傷修復作用”。
言い方は硬い、それでも、現象はファンタジーだった。
ポーション。
ヒール。
言葉が先に独り歩きして、現実に追いつく。
街の空気が少し変わった。
救急車の音が減ったわけじゃない。
でも、誰かが「治るかもしれない」と言えるようになった。
希望が持てると、顔が変わる。
透はその騒ぎを、外側から見ていた。
自分の手の中にある“回復”の方は、まだ何も分かっていない。
二週間の間に、透は何度も試した。
小さく切る。指先をほんの少しだけ。
紙で切ったみたいな浅い傷。
消毒して、掌を当てる。
塞がる。
早い。
普通の治り方じゃない。
じゃあ、時間を巻き戻しているのか。
それとも、自己治癒を無理やり加速しているのか。
透は試した。
傷の形を変える。
傷の深さを変える。
血が出るか出ないかで分ける。
治り方の速さを記録する。
物にもやってみた。
欠けたプラスチック。割れた鉛筆。裂けた布。
掌を当てて、同じ熱を流す。
何も起きない。
生きているものだけが反応する。
でも、それが「細胞の自己修復」なのか「時間」なのか、透には判断がつかなかった。
判断するための指標が、足りない。
父の左足には、届かなかった。
あの夜から一度も、届いていない。
少しだけあった反応が、頭の奥で反復する。
再現できない。
再現できないことが、余計に透を焦らせた。
焦っても、できることは少ない。
だから透は、記録する。
日付。時間。体調。指の温度。集中できたかどうか。
結果。何も分からなかった。
十一月。
学校が始まった。
朝の空気が冷たい。
制服が薄く感じる。
駅前の人混みは戻ってきているのに、どこか密度が違う。
笑っている声がある。
でも、笑い方が変わった気もする。
教室に入る。
席は、ぽつぽつと空いていた。
一つだけじゃない。
前の方が空いている席。後ろの方が空いている席。
端だけが空いている席。
先生が出席を取る。
名前が呼ばれる。
返事がない。
先生は一度だけ間を置いて、次を呼ぶ。
その間が、やけに長く感じる。
透は前を向いて座ったまま、息だけを整えた。
誰も大声で何かを言わない。
「いないね」とも言わない。
空席を見ないふりをするわけでもない。
ただ、視線が一度、落ちて、戻る。
休み時間。
廊下で、「親戚が」とか、「家が」とか、途切れ途切れに聞こえる。
言葉が最後まで繋がらない。
もうみんな知っている。
災害が完全に収束したという言葉の裏側を。
透は窓の外を見た。
校庭。体育館。いつもの空。
いつもの景色に、ここには穴はない。
——ダンジョンは、学校にはない。
それなのに、透の心の中には、ずっとある。
ポーションは、世界を沸かせた。
転移は、協会が注意を出した。
回復は、透の掌の中にある。
でも透は、いま椅子に座っている。
ノートを開いて、ペンを握っている。
授業が始まる。
黒板に文字が書かれる。
チョークの音がする。
それが、ひどく現実を持ってくる。
透は思う。
二週間、潜っていない。
潜れない。
止められている。
それでも、世界は進む。
穴は消えない。
自分の掌は、熱くなる。
次に潜れる日が来たとき。
自分は何を持って、何を知っているだろう。
透は、机の下で指先を握った。
目立たないように。
癖みたいに。
熱が、まだ残っている。




