回復魔法、聴取
鍵を回した。
中の音が、一拍だけ薄くなる。
テレビ。台所。足音。
透が扉を押すのと同じタイミングで、全部が揃って止まったみたいに感じた。
玄関に母がいた。
その後ろに澪。
父は居間の椅子に座ったまま、こちらを見ている。
母の視線が、透の腕で止まる。
裂けた袖。乾いた赤。焦げた布。
母は一歩寄って、透の手首を掴んだ。強くない。けれど離さない。
「……遅い」
透は靴を脱いだ。
床が冷たい。
冷たさが足から上がってきて、ようやく帰ってきた気がした。
澪が透を見る。
「どこ行ってたの」
透は口を開けた。
喉が空回りする。
出てきたのは短い言葉だけだった。
「……慧と」
母の指が袖の裂け目に触れかけて、止まる。
その下の皮膚は、塞がっている。
母が透の腕を持ち上げる。
光に当てるみたいに角度を変える。
「……何があったの」
透は自分の腕を見た。
今は、普通の腕。
「……色々」
父が言った。
「座れ」
透は言われた通りに椅子に落ちた。
リュックが床に当たって、鈍い音がする。
母がタオルを持ってくる。
水。消毒。
澪がぽつりと言った。
「……もう、行かないで。しばらく」
母も短く頷く。
父は透を見たまま言う。
「今は、家にいろ」
透は小さく頷いた。
それから、透の目が父の左足に吸い寄せられた。
父はいつも通りの顔をしている。
透の胸の奥が、きゅっと縮む。
気づいたら、透は立っていた。
父の前にしゃがんでいる。
父が眉を上げる。
「何だ」
透は答えずに、左足へ手を伸ばした。
「……ちょっと、触らせて」
掌を当てる。
皮膚は温かい。
なのに、奥が薄い。遠い。届かない感じがする。
透の中に残っている。
昨日の、あの感覚。
熱が走って、裂けたものが戻った感覚。
理屈じゃない。
透は息を整え、掌の奥に熱を作った。
それを、流そうとする。
掌の下で、微かに何かが跳ねた気がした。
母が息を呑む音。
澪が不思議そうに瞬く。
父が自分の足を見る。
視線が透の手に戻る。
「……今の、何だ」
透はもう一度、同じように流そうとした。
熱は出る。
でも——届かない。
透の掌が止まる。
「……だめだ。治らない」
透の声がかすれた。
父はしばらく黙っていた。
それから透の手首に触れた。
「……透。何をしてきた」
透は首を振った。
「……わかんない」
「でも、回復……みたいなの」
母の手が透の肩に置かれる。
掌の重みだけが伝わる。
澪が小さく言う。
「……魔法、ってこと?」
透は頷きかけて、やめた。
「……たぶん、また、後で話すよ」
掌を離した。
指先がまだ熱い。
寝る直前、慧から短いメッセージが来た。
『親、どうだった』
透は画面を見て、短く返した。
『しばらく潜れない。止められた。』
すぐに返事が来る。
『了解。俺も同じ。』
透はスマホを伏せた。
翌日。
知らない番号から着信が入った。
透は出る前に一度だけ息を吸った。
「はい」
「観月透さんでお間違いないでしょうか」
女性の声。事務的。
「探索者協会、神奈川支部です。昨日の件で、事情聴取にご協力をお願いしたく」
透の背中が硬くなる。
「転移トラップの位置、発動状況、飛ばされた先の環境。確認された個体。回収物の確認もあります」
透は返事が遅れた。
「……今日ですか」
「可能なら本日中に。支部は現在、県庁別館の臨時フロアで対応しています。——案内を送ります」
県庁別館。
臨時フロア。
専用施設じゃない。間に合わせだ。今の社会らしい。
「……分かりました」
切ったあと、透は居間へ行った。
母がすぐ気づく。
「どこ行くの」
透は言った。
「協会。呼び出し」
澪が顔を上げる。
「……行くの?」
父が短く言う。
「行け。逃げると面倒になる」
透が頷く前に、父が続けた。
「ただし、今日は情報だけ出して帰れ」
「余計なことまで背負うな。家のこともある」
透は頷いた。
「わかった」
神奈川支部は、建物の中にあった。
県庁別館の一角。臨時の看板。簡易のパーテーション。
受付の机は急ごしらえで、ファイルが山になっている。
それでも空気は整っていた。
人の流れ。待機の椅子。案内の声。
“テント”よりは役所だ。けれどまだ基地みたいだ。
番号を呼ばれて、部屋に入る。
会議室。机。椅子。地図。
担当は二人。片方はメモ、片方は端末。
「本日はありがとうございます。いくつか聞かせてください」
声の温度が一定だ。
怖いほど落ち着いている。
「まず、転移トラップの位置から」
地図が出る。三層の草原。階段の位置。
透は指で示した。
「階段を下りて、しばらく右。草の中」
「犬型の魔物を倒したあと。——光って、次の瞬間、洞窟にいました」
担当者の顔が少しだけ動く。
「発動の合図は」
「分からない。一瞬」
「飛ばされた先は何層と判断しましたか」
透が横を見る。
慧が静かに口を開いた。
「段数を数えて上ってきた。十層だと思う」
担当の端末が動く。
「十層の環境は」
「広めの洞窟。天井が高い。湿ってる。空気が重い」
「確認した個体は」
慧が淡々と並べる。
「十層。二足歩行の豚。刃」
「九層。同じ系統。棍棒」
「八層。豚とゴブリンの群れ。ゴブリンは弓と、飛ばす石みたいなやつが混ざってた」
担当者が一度だけ息を吐く。
「七層は」
慧が少しだけ言葉を選ぶ。
「広間。段差があって、座ってるみたいな個体がいた。王みたいだった」
「横に大剣の個体。反対に杖っぽい個体。雑魚が多数」
「指示してる感じだった。群れじゃない動き」
担当者は“王”とは言わなかった。
代わりに確認する。
「指揮個体。……了解です」
透は口の中が乾く。
最後に、担当者が言った。
「回収物について確認します。未確認のドロップ品は研究に回します。その分は買取価格に上乗せします」
仮査定。記録。追加支払い。
淡々としているのに、協力的だ。
ちゃんと対価を払うという意思が見える。
最後に担当者が透たちを見る。
「……怪我は?」
透は一瞬だけ止まって、言った。
「大丈夫です」
慧も頷く。
担当者は深追いしなかった。
危険情報が優先だという顔をしている。
「分かりました。事情聴取はここまでです」
「結果が分かり次第、ご連絡します。ご協力ありがとうございました」
部屋を出る。
廊下の空気が薄く感じた。
疲労が遅れて来る。
慧が短く言う。
「しばらくはダンジョン、お預けだな」
透は頷く。
「……うん」
透はスマホを握った。
画面をつけないまま、父の名前だけを指でなぞった。




