閑話。淡く赤い瓶
ラベルは簡易的だった。
受領番号。階層。
「淡赤。瓶。匂いなし」
県庁別館。臨時フロア。
会議室を区切っただけの部屋に、ライトと机が並んでいる。
設備は足りない。紙束は多い。
瓶は小さい。
透明。中身は淡く赤い。濁りはない。
光に当てると、赤が薄い層になって、底に寄る。
担当の男は、袋のまま写真を撮った。
正面。側面。底。ラベル。
終わってから、ようやく袋を開ける。
キャップは普通のねじ式だった。
開けるときの音も、普通の音。
匂いはしない。
揮発もしない。
液面が揺れても、泡が立たない。
「……薬品じゃなさそうだな」
隣の女が端末に打つ。
《未確認液体:一次検査開始》
最初は“危険性の確認”だった。
酸性か、アルカリか。毒性か。腐食性か。
当たり前の手順を崩すと、事故につながる。
一滴だけ。
ピペットで吸う。
透明なチューブの中で、淡赤が細く伸びた。
水に近い。
でも、水じゃない。
試験紙。変化なし。
金属片。腐食なし。
アルコール反応なし。
糖反応は、薄い。
女が小さく言う。
「……血液でもない」
男は瓶を見た。
小さい。
「使い道、分からないな」
女が頷く。
女は端末の項目を横に流していく。
既知の薬品。既知の血液製剤。既知の消毒液。
どれにも引っかからない。
「名前、無いね」
男が瓶を軽く傾ける。
淡い赤が、ガラスの内側を薄くなぞる。
粘度は低い。水に近い。
それでも、ただの水に見えない。
「色、沈むの早いかも」
女がライトの位置を変える。
赤が一瞬だけ濃く見えて、すぐ薄くなる。
「温度で変わるか見よう」
女は小さい保冷剤と、ぬるい湯を入れたカップを机の端に置いた。
試験管を二本並べる。
どっちにも一滴ずつ。
数十秒。
色は変わらない。匂いも変わらない。
男が短く息を吐く。
「……余計分からなくなった」
男は一滴を試験管に落とす。
もう一滴を別の試験管へ。
最後の一滴を、保留にした。
その時、女が自分の指を見た。
紙で切ったみたいな細い傷。
さっきホッチキスを外した時についた。
女は何も言わなかった。
指先を擦って、血が出ていないことを確かめる。
それから、保留していた一滴へ視線を落とす。
男が気づく。
「やめとけ」
止める声。短い。
女は頷いた。
代わりに、培養皿を引き寄せる。
傷をつけた組織片。
昨日、別件で使っていたもの。
“生きているもの”に触れさせるなら、まずそっちだ。
男が一滴を落とす。
落ちた瞬間——
組織が、動いた。
傷口の縁が寄る。
寄って、塞がる。
境目が薄くなっていく。
凝固でもない。
縫合でもない。
ただ、戻る。
女が息を止める。
男のピペットが宙で止まる。
タイマーの数字が進む。
五秒。
十秒。
二十秒。
傷が、消える。
女が言った。声が小さい。
「……なにこれ」
男がタイマーを止めない。
目だけで数字を追っている。
女が皿を裏から見た。
光に透かす。
境目が、ほんとに無い。
「……塞いだ、っていうより」
言葉が続かない。
“戻った”が一番近い。
男がピペットを置いて、メモを取る。
書き方が雑になる。
「濃度」
「量」
「時間」
女が言う。
「薄めてみよう」
男が水を出す。
一滴を二滴に割って、さらに割る。
透明が増える。赤が消える。
女が新しい皿に、同じ傷を作る。
さっきより深く。
手元が早い。呼吸が浅い。
「……いくよ」
落とす。
今度は遅い。
でも、寄る。
寄って、塞がる。
さっきみたいに一瞬じゃない。
それでも、確かに進む。
女が培養皿を覗き込む。
顔が近い。
「……消えた。傷、消えた」
男が笑った。堪えきれないやつ。
「やば。やばいって」
「もう一回」
女がすぐ手を伸ばす。
「待って、記録」
「……でも、もう一回」
男は頷きながら、もう一枚皿を引き寄せた。
傷をつける手つきが雑になる。
焦ってる。
「いや、落ち着け」
女が言う。声は落ち着いてない。
「落ち着けないだろ」
男が言って、ピペットを握り直す。
一滴。
また、寄る。
また、塞がる。
女が息を吐いた。
「……ポーションだ」
男が、笑いながら頷く。
「ポーションだな。これ」
「まるでファンタジーじゃないか!」
女が端末を叩く。
送信先が増える。文字が増える。指が速い。
男は瓶を見たまま言った。
「残り、どんだけ入ってる?」
「……待って、すぐ測る」
女が立ち上がる。椅子が鳴る。
机の端に置かれていた受領票を引き寄せる。
番号を指で押さえて、声を落とす。
「……これ、追加で回収、あるかな?」
「同じの、他にも出てくるかな?」
男は笑いながら首を振った。
笑いのまま、息が浅い。
「今は一本」
「……でも、一本で十分だろ」
棚が一段上がる。
手順書が一枚増える。
部屋の外の足音が、近づいた。




